さて、この『右に行くと見せかけて右に行く』というフェイントは、もちろんバスケだけでなく、他の対戦系のスポーツ、たとえばサッカーなどにも応用できます。(……というより、すでに大勢のアスリートが各分野で使っている技術ですけどね)
そもそも、管理人がこのテクニックを使うようになったのも野球からヒントを得たものでした。
高一の夏の甲子園です。(当時は常連高だった)千葉の習志野高校に面白いピッチャーがいました。
投げるボールはそこそこで、けっこうランナーを出すのですが、けん制がうまく、要所要所でランナーを刺すのです。
そのけん制も素早い送球でぎりぎりアウトにするのではなく、ランナーが完全に裏をとられて一塁に戻ろうとすることもできないのでした。
テレビで見ているだけでは、なぜそうなるのか解らなかったのですが、解説者によると──
一度けん制する振りをして、ランナーが戻りかけて止まり、反対側に重心がかかったときに、すかさず送球するんですね。ですから、ランナーは逆をつかれて動けないんですよ……。
──なんだそうです。
面白いと思いました。
そんなマンガみたいなことが巧くいくのかなとも思ったのですが、実際にアウトになるわけですから、そのまま受け入れるしかありません。
それじゃあ、これをバスケに応用するとどうなるのかなと考えたのが『右に半歩動いて、コンマ1秒後残りの半歩を出す』というフェイントだったのです。
効果抜群。
決まると、ディフェンスは一歩も動けません。
ちょっとややこしいですけど、要は慣れで、それほど難しいテクニックではないんですよね、これが。
騙されたと思って、対戦系のスポーツをやっている人は(それぞれにひと工夫して)一度お試しを──
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前作《四苦八苦》とは何か?で、以下のコメントをいただきました。
Unknown (ソーナンダ)2014-05-17 01:17:45
この記事はあんまりですね。
生の苦しみとは産道をとおる時の苦しみではなく、
苦に満ちたこの世に生まれてきて、
この世に生きていることではないでしょうか?
四苦に続く四苦も、
後付けであったとしても、
的を得ていると思います。
最初の四苦から解放されれば残りの四苦からも
本質的には解放されて囚われがなくなりますが、
それでもやはり人間である以上は、
四苦八苦が完全に消滅することはないように思います。
…… …… ……
まずは文章力不足により、主旨がうまく伝えられなかったことをお詫びします。
──で、改めて主旨を補足説明させていただきますと、実のところ、それは真逆なんですね。
後世の弟子たちが生老病死の四苦の他に、愛別離苦(あいべつりく) 、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく) 、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を加えたのは、ただ単に、生きる苦しみを数え上げたのではありません。《覚者となるために消滅されるべき苦しみ》としてのことなのです。
言い換えれば「悟りを開けば生老病死の四苦だけでなく、愛別離苦、怨憎会苦といった感情から生ずる八苦に至るまで完全に消滅できる」ということ。 これが後世の弟子たちの主張なんですね。
ひきかえ、前作《四苦八苦とは何か?》で管理人が主張したかったのは、まったく正反対のことなのです。
仏法に一家言ある者として、管理人は感情を肯定します。
たかだか頭に貼りついている手が離れたくらいのことで、感情まで失われるはずがないからです。
ですから、ソーナンダさんが『それでもやはり人間である以上は、四苦八苦が完全に消滅することはないように思います』とおっしゃったことには何の異論もありません。
覚者もまた喜び、覚者もまた哀しみます。
その証明として──知恵第一サーリプッタ、通力第一マハーモッガラナーが相次いで亡くなったとき、釈尊はしみじみと嘆かれた──という説話を実例として紹介したつもりなのです。
……とまあ、こんな説明で納得していただければ嬉しいのですが……。
それではまた。
今後も何か疑問に思われるようなことがあれば、ぜひコメントをお願いします。
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《悟りの開き方 中篇》で以下のコメントをいただきました。
Unknown (ソーナンダ)2014-05-17 01:08:29
なるほど!そーなんだ!
…… …… ……
賛同をいただけて嬉しいのですが、くれぐれも鵜呑みにはしないでくださいね。
何といっても、管理人自身が信じていないのですから……。
「これが悟りの境地か」という圧倒的な解放感を、かつて管理人は獲得したことがあります。
ですが、それが釈尊の説かれた《悟りの境地》と本当に同じものなのかどうかは管理人自身も確かめようがないのです。
ですから、残念ながら、前作《悟りの開き方》で述べていたことは、まあ、こんな風だったんじゃないかな、という《仮説》を越えるものではありません。
ただ……。
原始仏典を通して見える釈尊の弟子たちは、朝の托鉢を済ませると、これといった修業をするでもなく、日がな一日、ひたぶるに坐を組んでいただけなのは事実です。
その教義といえば──諸行は無常であり、その無常のものに執着するために苦しみが生まれる。ために執着を滅すれば苦しみもまた滅せられる──といった、ごく簡単なものだけで、般若心経のような難解にして高邁な哲学がなかったことも事実です。
また、《無記(むき)》と称され、釈尊は前世や来世という類のことは決して説かれなかったことも事実です。
先祖供養をして難病が治ったなどという話も原始仏典にはありません。「体は病いの巣である」という教えのとおり、釈尊自らも病いとなり、そのたびに医者に診てもらっていたことも事実です。
では、そんな修業生活を送りながら、釈尊の弟子たちはいったい何を目指していたのでしょうか?
後世の弟子たち、ことに大乗仏教サイドからは「当時の弟子たちは理解力が低かったので、釈尊も已むなく程度の低い教えだけを説かれていた」などと嘲笑されるような修業内容で、直弟子たちが釈尊とともに求めていた《悟り》とは何だったのでしょうか?
その回答として、当ブログで提示している「肉体こそ我が本質であるという自己暗示から潜在意識を解放させる」という悟りのメカニズムは《仮説》として充分な説得力があると──。かつ、他にまともな仮説は見当たらないと──。ここまでは管理人は自信をもって主張することができるのです。
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ブックオフで『黒子のバスケ』という漫画がずらりと並んでいるのを見かけた。
ふと3月に『黒子のバスケ脅迫事件』の裁判があり、その犯行理由が成功者への嫉みだったことが報道されていたのを思い出す。
以前には『スラムダンク』のブームがあったが、今は『黒子のバスケ』ということか……。地味だけれど、バスケ人気はまだまだ健在だということなのだろう。
高一までバスケットを部活でやっていた管理人はちょっと嬉しい。
ということで、今回は調子に乗って、バスケットの技術論をぶちかまそうと思う。
──題して《裏をとる》ということ。
オフェンス(以下O)がデフェンス(以下D)の裏をとって、抜いていくためには、もちろんフェイントが重要になる。
右に行くと見せかけて左に行く。
あるいは、左に行くと見せかけて右に行く。
これが一般的なフェイントであるが、こんなレベルのものでは、結局脚力勝負になるだけで、とても《裏をとる》などという芸当はできない。
そのためにはもう一歩進化した「右に行くと見せかけて右に行く」というフェイントを使わなければならないのである。
では、右に行くと見せかけて右に行く、とはどういうことか。
それは、右に半歩踏み込み、コンマ1秒後、残りの半歩でさらに右に切り込んで行くということである。
これでOはDの裏をとり、フリーになることができる。
ただしこのためには、ボールをキープした状態でOの動きにDが敏感に反応してくることが条件となる。
詳述する。
パスを受け取ったOは、右足で迅速に右に踏み込み、半歩で急停止する。
マークするDは同じように右に動いて、やはり急停止するだろう。
しかしこの時、Oの急停止は最初からの意思であるため、そのまま静止することができるのだが、Dはそうもいかない。Dの急停止は予想外のことであるため、必ず右に体が流れ、それを抑制して静止するためには必ず左向きの力のモーメントを加えなければならないのである。
Dが急停止して、逆向きの力のモーメントを加え、静止するためにはコンマ2秒かかる。
これがポイント。
その刹那を見極めて(急停止したコンマ1秒後)Oの右足が残りの半歩で右にドリブルで切り込めば(Dには左の力のモーメントが加えられている最中であるため)Dはついてくることができない。
こうしてOはDの裏をとり、あっさりと、フリーになることができるのである。
コツは半歩踏み出した右足は決して戻さず、そのまま速やかに残りの半歩を進めること。
もし戻してしまえば、そのロスした時間でDの体勢も戻ってしまうからである。
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この肉体こそ我が本質──
そう思い込んで、手が頭に貼りついて離れない。
それを離す修行というのは、中編に書いたように、《快》と《不快》に惑わされず心穏やかに暮らす、ということなんだけど、これは、まんま、原始経典を通して見ることのできる仏教の修業風景なんですね。
お釈迦様の弟子たちはみんな、人里離れた僧房、あるいは僧たちだけの宿舎(祇園精舎、竹林精舎など)に住んで、心穏やかに暮らしていました。
滝に打たれたり、逆さ吊りになったりみたいな人目を引く修業は何もせず、早朝、街に托鉢に行くと、あとは日がな一日、ボケーッとして過ごしておりました。
潜在意識に働きかけるための、これは唯一の方法なのですが、後世の仏教研究者は誰一人納得しませんでした。
こんなことで悟りを開けるはずがないというのです。
何か隠してる、何か隠してると疑いの目を向け、
もしくは、こんなことで得られる《悟り》なんかよほどレベルの低いものだろうとバカにするのでした。
けれども、生まれる前から頭にぴったりと貼りついた手を引き離すためには、ほんとうにこれしか方法がないのです。
子供だましと言われても、我と我が身にかけた暗示から解放されるためには、これしか方法がないのです。
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