昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

藤原正彦の管見妄語 ポーランドの恩返し

2016-03-11 03:36:38 | 日本の素晴らしさ
幾度か週刊新潮の巻末コラム「変見自在」を紹介してきたのだが、実は冒頭コラムに「管見妄語 」と言うのがあって、これがまた良いのである。
筆者は”国家の品格”を書いた数学者 藤原正彦氏である。
下記に転載するのは藤原氏がここでポーランドを採り上げた文である。今までの連載といくつか内容はかぶっているが、新しい視点もあるので掲載いたします。

平成24年11月29日号『週刊新潮』

明治25年(1892)、ベルリン駐在武官だった福島安正少佐は帰国に際し、シベリアを一年四カ月もかけ単騎横断した。ドイツ国境を出て東へと進んだ彼は、ある寒村でみすぼらしい農夫に尋ねた。
 「ここはどこですか」「昔、ポーランドと呼ばれた所です」。1795年のポーランド分割により、長い歴史を誇ったポーランドは消滅し露独嘆の領土となったのである。農夫の悲し気な表情に祖国を失う悲哀を感じ涙した福島少佐は、帰国後の新聞インタビューでこれを語った。これは国民の感動をよび、それを落合直文がポーランド詩に書き、「波蘭懐古」という歌にまでなった。

こんな土壌があったから、大正9年(1920)、シベリアに残されたポーランド孤児765名の救出などという、列強各国が尻込みした大事業を日本赤十字と帝国陸軍が協力してなしとげたのであろう。朝野を挙げて不憫な子供達に同情し、お金、おもちゃ、人形、菓子などを送る人々が後を絶たなかった。
栄養失調や病気を治し故国へ送り届けたことはポーランドでも大きな話題となり、大国ロシアを倒した勇猛な日本人のやさしさに人々は深く感謝し感動した。そのうえ帰国した孤児で身寄りのない者のために、日本はグダニスク郊外に孤児院を建てるのに尽力した。

第二次大戦で彼等が地下レジスタンス運動に参加したためナチスが孤児院の強制捜査に入った時は、日本大使館から書記官が駆けつけ、日本の保護下にあることを言明し子供達に日本の歌を聞かせるよう指示した。
皆が「君が代」と「愛国行進曲」を大合唱したところドイツ兵は呆気にとられ引き揚げたという。

1990年代に駐ポ大使をした兵藤長雄氏の「善意の架け橋」によると、彼は8名の元孤児を公邸に招いたという。皆80歳以上だったが、孫に支えられやっと公邸にたどりついた老婦人は、「生きている間にもう一度日本に行くのが夢でした。公邸に招かれた時は這ってでも行きたいと思いました。なぜならここは小さな日本の領土と聞きましたから」と言って感涙に咽んだ。

ポーランドは恩返しとして、阪神大地震の時には被災児数十名をポーランドに招いた。中に小さなリュックをいつも肩に担いで離さない男の子がいた。世話役のポーランド婦人が付添いに理由を尋ねると、両親、兄弟を亡くし家も焼けてしまった子で、リュックの中には焼け跡から見つけた形見や遺品が入っているという。婦人は涙止まらぬままこの子の幸せを祈り続けたという。
 歩行もままならなくなったポーランド人の元孤児4人も日本人孤児を慰めに来て一人一人に涙ぐみながら赤いバラを手渡したという。

六年前に90歳で亡くなった最後の生存孤児リロさんは、第二次大戦でユダヤ人を助けイスラエル政府から賞を受けたが、「日本人に助けられたからお返しにユダヤ人を助けた。日本は天国のような所だった」と述懐していた。
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