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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

ポーランド孤児と日本のお話【感動の実話】HD

2016-03-10 05:48:51 | 日本の素晴らしさ
ここまで連載してきたポーランド孤児の救済の話し・・・・・・
残念ながら私達日本人があまりこの事実を知りません。
従軍慰安婦、侵略といった事実に反する記述が教科書に載りながら、この件やトルコとの友好の経緯なども教えられません。
ここに紹介する私自身とて、ここ10年ほど前に知ったことでした。

そうしたらYou Tubeにこの映像がありました、下記にアップいたします。
どうか今までの連載を思い出しながらご覧ください。連載では触れなかった、孤児の介護で命を落とした看護婦の話も出てきます。
それから・・・・・少しでもこの話を広めていただける様にお願いいたします。

ポーランド孤児と日本のお話【感動の実話】HD
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日本はどんなによい国か8 ポーランドとの秘められた関係8(最終回)

2016-03-09 04:58:56 | 日本の素晴らしさ
ポーランドはその地勢状、非常に微妙なやっかいな位置にありました。
なにしろ当時の帝政ロシア、ナチドイツと隣接しているのですから・・・・・だから、何度も国土の侵略を受けてきた歴史があります。ようやく民主的国家に生まれ変わったのは・・・・・・

1980年、労働者のストに端を発した「連帯」を核とする民主化運動があって、時の連帯議長ワレサによって民主化が実現、1983年にワルサはノーベル平和賞を受賞しています。
このワルサが民主化運動を展開中の1981年に初の外国訪問先に日本を選び、
「日本は大きくて平和で偉大な可能性に満ちた国だ」
「ポーランドを第二の日本に」というスローガンを掲げました。


ポーランドとの秘められた関係は今回で終わりますが、大多数の日本人はこの事実を知らないでしょう。
私たちはこの先人が果たした偉業に敬意を払い、これを機に誕生したポーランドとの友好をこれからも大事に育て続けていかなくてはならないと私は感じます。
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日本はどんなによい国か7 ポーランドとの秘められた関係7

2016-03-08 03:46:42 | 日本の素晴らしさ
あれから75年の歳月が流れ、平成七年(1995)、わが国の阪神地域を大地震が襲った。
この時、いち早く救援活動をしてくれた国が、ポーランドだった。
「シベリア孤児と同じ様に、震災で両親を失い、悲惨な目にあった被災児たちを、ポーランドに招いて慰める事はできないか」
そして、震災で孤児になった日本の子供たち30人ずつ2回に分けて、今度はポーランドへ招待した。

被災孤児の一人の男の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、世話をした一人のポーランド夫人が理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったので、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないのだという。この婦人は不憫で涙が止まらなかった、と伝えている。

第2回目の被災児がポーランドヘ招待されたのは1996年の夏であった。3週間招待されて色々なところを案内され歓待された。
震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。
歩行もままならない高齢者ばかりであるが、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子供達がポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理をおして、やって来たのだ。
付き添いの介助を受けて参加した人もいた「今日はどうしても行きたい。75年前の自分と同じ様な子どもたちがポーランドに来たからには、私たちがかってどのように助けられたか、どんなに親切にされたか、是非私の口からお話したい」

このように日本の被災孤児達に、自分たちが日本に親切にしてもらった事を切々と語り、涙を流してこれで恩返しが出来たと語った。この思いは、世代も言葉も越えて、震災孤児たちの傷んだ心に染み渡った。
終わりに4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。

平成11(1999)年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。
合唱団は孤児だったヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。
「20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子供は、様々な劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてくれた事を忘れません。
(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう。」

サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡して」と救出当時の写真を託した。
「孤児収容所を慰問した皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらった事が忘れられない」と話したという。

皇后陛下の誕生日・平成14年10月20日に放映「スーパー・テレビ」では、両陛下とその老齢になった孤児達が対面する感動的な場面が映し出されていた。
病院に大正天皇の后、貞明皇后がお見舞いに来られ、小さかった彼女を抱いて励ましてくれた記憶のある元孤児の一人、86歳のアントニナ・リーロさんは、美智子皇后の手をずっと握りしめていた。
80余年の時空を超えて、かすかに覚えている貞明皇后の手の感触、胸のぬくもりを確かめているかのようで、時間が止まったかのように感じられた。
年老いた元孤児は静かに「君が代」の一節をくちずさんだ。
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日本はどんなによい国か6 ポーランドとの秘められた関係6

2016-03-07 01:47:45 | 日本の素晴らしさ
第二次大戦で敵と味方に別れてしまった日本とポーランドの国交は1957年に正式に回復された。
しかし、シベリア孤児のエピソードは戦後の日本ではほとんど知られていなかった。それを広く知らしめたのは1993年から4年間ポーランド大使を務めた兵頭長雄であった。

兵頭がポーランドに住むようになると「なぜ日本人に親切なのだろう」「どうしてこんなに親日的なのか」と思う事が多かった。初対面でもこちらが日本人と分かったとたんに親近感を表し、好意的になるという体験を何度もした。
兵頭はこの孤児の経緯を知らなかった。知ったのは、ワルシャワ大学のタイス博士、並びに孤児の調査とその後のフォローをしてきたジャーナリスト松本照男氏のお陰であった。

こうして1995年、8人のシベリア孤児の公邸訪問が実現した。集まった孤児は既に全員80歳を越えていたが、日本滞在当時は7~12歳だった人たちである。しかし、彼らの中から当時の思い出は消えることなく、鮮明に残されていた。

ある女性は古びた布の帽子と写真を持参していた。
「これは日本を離れる時にもらった帽子なの。シンガポールに寄った時に撮った写真にこれをかぶった私が写っているのよ」
この女性はボロボロのトランプのようなお札も持っていた。裏にはかすかに読み取れる日本語のお祈りの言葉が・・・
「大阪カトリック司教団から孤児に贈られたものです。私はこの聖母マリア様のおかげで長生きできたのです」
「動物園に連れて行ってもらったことを覚えています。見たこともないような珍しい動物を見て、とても楽しかった」
「日本の夏は蒸し暑かった。汽車に乗ったおじさんが、いきなりズボンを脱いだのでビックリしました」
「枕がとても硬くて、最初はよく眠れませんでした。タタミも硬かった」
「私はとても痩せていたので、心配したお医者さんが特別に甘い栄養剤をくれました。一日一錠飲むように言われていたのに、仲間たちに見つかってしまって・・・・その晩すぐに食べられてしまった」

そうしている内に、一人の老婦人が声を絞り出すように語り出した。
「私は生きている間にもう一度、日本に行くことが生涯の夢でした。そして、日本の皆様に直接お礼を言いたかった。でも、その夢はもう叶えられません。だから、大使から公邸にお招きいただいた時、這ってでも伺おうと思いました。
だってここは、小さな日本の領土なんですものね。
今日ここで日本の方に、私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう何も思い残すことはありません。
本当にありがとうございます」
彼女は身体が弱り、ひとりでは公邸に来ることが出来なかったため、孫に付き添ってもらいようやくたどり着いたのだ。言葉の最後は涙にむせんでよく聞き取れなかったが、他の7人も次々と口を開いた。
「私たちもまったく同じ気持ちです」

兵頭は1996年の夏、さらに大使の任期を終える1997年の早春にも孤児たちを公邸に招き、交流を重ねた。
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日本はどんなによい国か5 ポーランドとの秘められた関係5

2016-03-06 03:49:54 | 日本の素晴らしさ
ポーランドに帰国した、このシベリア孤児たちはどうなったのか?
1939年、第二次世界大戦の発端となる、ナチスドイツによるポーランド侵攻が始まる。
そんな情勢の中、ナチスと戦うレジスタンス組織を指導する一人の青年がいた。
イエジ・ストシャウコフスキ。17年前に神戸からポーランドに帰ってきた、あのシベリア孤児の一人だ。

孤児であった彼は帰国後、ポーランドに侵攻したナチスのレジスタンス組織を作り上げる。
ワルシャワのイエジ部隊はナチの監視対象になっていたが、彼らは孤児院を隠れ家にし捜索の手を逃れる為に日本大使館に助けを求めることも何度かあった。
日本とドイツは三国同盟を結んでいたが、日本大使館はシベリア孤児たちとの交流の伝統を優先し、彼らを助けていたのだ。

ある日、イエジが院長を務めていた孤児院でナチの強制捜査が入った知らせを受けて、日本大使館から書記官が駆けつけた。
「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院である。同盟国ドイツといえども勝手な捜査は認められない」と書記官が毅然と言い放ったが、ドイツ兵も簡単に引き下がらない。
「我々は信頼に足る情報に基づいて捜査を行っている。たとえ、日本大使館の申し出であっても容認できない。お引取りください」

書記官はここぞとばかりイエジたちに言った。
「君たち、このドイツ人たちに日本と君たちの信頼の証しとして、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
それを聞いたイエジたちが日本語で「君が代」「愛国行進曲」を合唱しはじめると、さすがのドイツ兵もあっけに取られて立ち去った。

こうした出来事があった物のイエジのナチスドイツとの戦いは結局抵抗は長く続かず、何と再び極寒のシベリアへと送られてしまったのだった。
……時は流れ1983年、一人の老人が日本の地を踏みしめた。あのイエジだった。
彼は二度にわたるシベリア送りを奇跡的に生き抜き、61年ぶりに日本へやってきたのだ。
イエジは子供時代にお世話になった日本の関係者と再会を果たし、こう言った。

「私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったに違いありません。その仲間の分も一緒に、心からのお礼を述べさせていただきます。本当にありがとうございました」
61年の時を超え、次々と甦ってくる子供時代の記憶。感極まったイエジは、思い出したように口を開いた。
  ♪もしもしかめよ かめさんよ  せかいのうちで おまえほど
   あゆみののろい ものはない   どうしてそんなに のろいのか♪
あの日、日本で覚えた歌。 忘れられない感謝の気持ちが、61年ぶりにこの歌を思い出させたのだ。

今、シベリア孤児たちは皆、その生涯を閉じた。 誰一人この世には残っていない。
しかし、ポーランドの人々は、90年経った今も、あの時、日本人から受けた善意を決して忘れていないという。

ポーランドは現在もものすごい親日国で、主な大学に日本学科があります。
帰国後、孤児たちはお医者さんとかボランティアとか、人を助ける職業に就かれた方が多いという。
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日本はどんなによい国か4 ポーランドとの秘められた関係4

2016-03-05 03:25:52 | 日本の素晴らしさ
「2年を過ごした日本は天国のような場所」であった、と孤児たちは後に述懐している。
横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船する事を泣いて嫌がった。
見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかった。
なだめられてようやく船に乗った孤児たちは、精一杯の感謝の気持ちをこめてデッキに並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた、「君が代」を歌った。
幼いながらに精一杯の感謝の気持ちを表そうとする姿は、、見送る人の涙を誘った。

神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈り、船が見えなくなるまで手を振っていたと伝えられている。
元孤児のハリーナ・ノヴェッカは日本を去る時のことをこう回想している。
「誰もがこのまま日本にいることを望んでいました。太陽がきれいで、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・」

子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、額に手を当てて熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
孤児の一人はそうした順番が待ち遠しかったという。
「お父さんの手はきっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ」
そう思って薄目を開けると、その手の一部は古い火傷の痕でただれていた。
「でも私には、その傷跡がとても大切なものに思えたの」

日本船に乗せられ祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちは、養護施設に保護され、それを祝うために首相や大統領までが駆けつけた。
この施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国旗を掲げ「君が代」を合唱したと言われている。

シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。
そのひとつ、救済依頼を日本にするように提案した、当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。

「日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。
日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかも、我不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れる事はない。
我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。
こんなことは一度や二度ではない、しばしばあった。

ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々は何時までも恩を忘れない国民である事を日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれた事は、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っている事をお伝えしたい。
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日本はどんなによい国か3 ポーランドとの秘められた関係3

2016-03-04 03:29:33 | 日本の素晴らしさ
シベリアから日本に到着した幼い孤児たちは、総勢765人。誰もが青白くやせこけ、病気で弱っている子も多かった。
敦賀に入港すると着ていた洋服をすべて脱がせ日本の浴衣を着せた。この浴衣の袖の中にアメやお菓子が沢山入っていた、これが最初の楽しい思い出となって心に刻まれた。
ニュースでこれらの孤児を知った日本国民は寄付金、玩具・人形、お菓子などの品々を贈る人が絶えず、歯科治療や理髪のボランティア、音楽隊の慰問などが相次いだと言う。*下の画像が孤児たち

この日本滞在中の孤児たちの印象は強烈だったようで
「見舞いに訪れた裕福な日本人の子がポーランド孤児のあまりに粗末な服装を見て、自分の服を脱いで与えようとした。皆がそうしようとしてくれた」
「髪に結ったリボンや櫛・指環をなど身に着けていた物を与えようとした」
「シベリアでは食べるものがなくて冬には雪を食べて我慢した。日本に来てお腹いっぱい食べられた時は本当に感激した」


この間、貞明皇后(大正天皇妃殿下)が孤児たちを訪問、優しく励ました事が孤児たちの思い出となった。
それは1921(大正10)年4月6日の事、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明大正皇后は日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをいだき、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。
打ちひしがれた三歳の女の子を抱きしめられた時、孤児たちは一斉に号泣したという。

健康を回復すると横浜港からアメリカ経由で本国への帰還が始まった。
日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。
この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。
保護した765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに、一人も不幸にせずに、保護した765名全員を送り届けた。
帰還が始まってから孤児たちは親身になって世話をしてくれた日本の”おかあさん”との別れを悲しみ、中には船に乗るのを嫌がって泣き出す子もいた。
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日本はどんなによい国か2 ポーランドとの秘められた関係2

2016-03-03 04:31:53 | 日本の素晴らしさ
18世紀末、ポーランドはロシアに支配されていた。ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂起を繰り返した。共産党軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そうとした。
ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、その混乱の最中に多くの子供が親を失った。
せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやろうと、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケビッチさんが、1919年(大正八年)9月に「ポーランド孤児救済委員会」を組織した。
しかし、その後、ポーランドとソ連との戦争が始まり、孤児たちを帰還させることが不可能となった。

会長となったアンナ・ビエルケビッチさんは、輸送の援助を大国であるヨーロッパやアメリカに求めたが、しかし、欧米諸国は、その要請に応えてはくれなかった。
民族は異なるが、もしやと思い、同じ大国である中国上海の中国赤十字社を訪ね救済要請したが、これも断られ、思い叶わずウラジオストックに戻った。

この出来事のあった時、ポーランドは独立直後で日本は国交を結んでいない。
なぜ、この時に日本であったのか・・・・・・
世界中から救済を断られ途方にくれたアンナに委員会のメンバーの一人が
「私の叔父がかっての日露戦争で駆り出され日本の捕虜となった。日本に連れて行かれた捕虜生活の間、周囲の見知らぬ日本人にとても親切にされた。そんな日本ならあるいは・・・・」別の一人も
「そういえばソビエト赤軍に破れたチューマ司令官の義勇軍のために船を出し、新しく生まれ変わったポーランドへ帰れるようにしてくれたのが日本だった」
かって日露戦争でロシアを破った日本に救いを求めた。こう言う経緯があったと言う。

絶望的な状況の中で、救済委員会会長のビエルキエヴィッチさんは1920年6月に船を頼み込んで福井県の敦賀に着き、東京に行って外務省に嘆願した。
彼女の嘆願書抜粋。
・・・「われわれは祖国から離れ離れになり、いまだ何の助けも得られません。
このまま冬が来ると、子供達の命が奪われることは明らかです。
子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救ってくださるよう、私は切に願っています」。

打診された外務省は、直ちに日本赤十字社にかけあった。
日赤は、ポーランドへ帰還させる方策を決定し、日本赤十字社が現地に向かうことになった。
現地には、ソ連共産党軍がおり、大変に危険な状態だったが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、日本軍にも協力を要請した。
そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、どんどん共産党軍支配のシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきた。捜索は二年間続けられた。

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。
それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。
さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。

そうした活動の結果、出発のウラジオストック港には、みすぼらしい衣服をまとった子どもたちが集まったのだ。肌寒い空気がまとわりつく陽気は子どもたちの不安をかきたてた。
「私たち、どこへ行くの?」「このお船に乗るの?」「ママに会えるの?」
互いに身を寄せ合い、まだ片言のポーランド語で心細げに問いかける子どもたちの頭をかがんで撫でながら、アンナは
「お父さんとお母さんの国へ・・・・ポーランドへ帰るのよ」
アンナはそれだけ言うと、そのあとの言葉を飲みこんだ。
「この子たちは本当に祖国に帰れるのだろうか・・・・・・。でも今はこうするしかないもの。ここにいるよりはきっと・・・・・」
そう自分に言い聞かせるように立ち上がったアンナにうながされ、子どもたちは次々と船に乗り込んだ。

なぜ日本は世界中が断ったこれを行ったのか、人道的な意味合いは勿論あるにしても”損得”を考えれば得はない。
こうした事を行う国が侵略だ、残虐行為を本当に行うだろうか、私にはそうは思えない。
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日本はどんなによい国か1 ポーランドとの秘められた関係1

2016-03-02 02:10:02 | 日本の素晴らしさ
それでは今日からポーランドと日本の関係、ポーランドがなぜ親日国なのかを語ってゆきましょう。

今の日本はかっての戦争でやれ侵略をした、残虐行為を働いた等々で非難をされ反省を求められ、事実謝罪している事も多いのだが、それはごく一面の事であってしかも事実に基づいていない事柄も多い。従軍慰安婦、南京大虐殺などがそうだ。
私は私なりに明治維新~日露戦争~大東亜戦争を色々調べ、勉強してみた。
その結果、日本に誤りが全くなかったとは言わないが、概して日本は道徳、規律、正義感に満ちたよい国であると確信した。
尚これらの勉強の為に私の親友、tanakaさんから貴重な資料をいただいた、また、私がネットで参加しているコミュニティーでの書き込みも随時転用しております事を最初にお断りさせていただきます。

最初は東欧のポーランドと我が国との秘められた関係をご紹介します。私にとってはこの話を読み進むといつも日本人の優しさ、正義感に思わず涙がこみあげてくる事もある逸話である。
なお題材は「世界が愛した日本(竹書房 四條たか子著 監修・井沢元彦)」から得ています。

1920年(大正9年)、ロシア・シベリア、気温マイナス40度。
ヨーロッパの人たちから見れば、この世の最果てとも言えるシベリアで、10数万人ものポーランド人が寒さと飢えに耐えていました。
当時のシベリアは、独立を願ってロシアと戦ったポーランド人たちの流刑地でした。
1918年に独立を勝ち取った後も、ロシアとの激しい戦争が続き、祖国に帰りたくても帰れない人々がこのシベリアに取り残されていたのです。

「せめて戦争で親を失った孤児たちだけでも、この寒く苦しいシベリアから脱出させたい」
そんなポーランド人の一人、アンナは、仲間と「ポーランド救済委員会」を作り、欧米諸国に孤児たちの輸送と援助を要請した。
しかし莫大な費用のかかる救済事業に、どの国も難色を示した。
「世界中で誰もこの子たちを助けてくれないなんて。このまま寒く厳しい冬が来れば、また無数の命が失われてしまう」万策が尽きたと思われた時、意外な国から救いの手が差し伸べられた。それは日本であった。

当時、日本はポーランドと外交関係さえ結んでいなかった。
しかし、アンナの訴えを受けた外務省は、孤児たちの窮状を聞き、直ちに日本赤十字社に依頼した、決断までわずか17日、それは世界の外交史上でも異例の速断だった。
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ポーランドとは如何なる国か? 高山正之氏はこう語る

2016-03-01 02:32:06 | 日本の素晴らしさ
昨日までyoutube動画を通じて「日本の素晴らしさ」をお伝えしてきました。
今日からは昔の日本が、考えられないような行動を通じて外国と向き合ってきた、それを知れば日本の素晴らしさをを実感できる逸話を紹介しましょう。
第一回はポーランドです。
ポーランドと言っても北欧のこの国とは馴染みが少ない人が多いでありましょう。。
勉強の意味でウィキペディアでのポーランド概略は次のとおりだ。

ポーランド共和国(ポーランド語: Rzeczpospolita Polska)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)そして北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。
北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。

10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけ大王国を形成。18世紀、3度にわたり国土が隣国によって分割され消滅。第一次世界大戦後、1918年に独立したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦に侵略され、再び国土が分割された。戦後、1952年、人民共和国として国家主権を復活、1989年、民主化により共和国となった。

冷戦時代はソ連の影響下に置かれ、共産主義政権が支配したため、政治的に東欧に含められたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、中欧または中欧のうち過去に東欧であった地域の中東欧として再び分類されるようになっている。

2009年の世界同時不況においてヨーロッパでただ一国ポーランドだけは経済拡大を続けた。1993年以来、景気後退が一度もない堅実な経済を誇る。


歴史上大国の侵略を何度も受け国家消滅の危機もあった。
この遠く離れた国がなぜ親日国であるのかは次回以降の記事で紹介するとして、高山正之氏の「変見自在」にポーランドが採り上げられている。ポーランドを理解する内容であるので、下記にそのページをアップいたします。




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本物の日本人が現れ、スカッとする展開に

2016-02-29 05:03:14 | 日本の素晴らしさ
今日は異色の内容のようです。
インドのホテルで苦情を言い、人種批判する日本人カップルで騒動があった。その騒動を見ていた外国人が「日本人はそんなことはいわない」と、件のカップルが”韓国人でないか!”と疑い、たまたまそこにいた日本人が問い詰めるとカップルが逃げ出したというのだ。

外国で日本人と韓国人は、見分け上は区別がつかない。
だから、外国で日本人になりすます韓国人がいるというのは、ネットではよく言われていた。
以前の記事で書いたことがあったのだが、ベトナムでは日本人と韓国・中国人をしっかり見分けるのだそうだ。
それがこうだ。
一つは買い物で代金をいただき商品を渡した時、「ありがとう」というのが日本人だそうだ。(多分、中韓人は買い物した私が客だと、横柄な態度なのでしょう)。
今一つは食事を終えた時、手を合わせ(合掌)、モゴモゴと言うのが日本人だという(モゴモゴは勿論、ごちそうさま であろう)。
日本人の素晴らしさよ!!

【すごいぞ日本】インドのホテルで韓国人が日本人になりすまして現地人を罵倒していた。
そこに本物の日本人が現れ、スカッとする展開に【日本大好き外国人】

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【海外の反応】外国人「これが日本にいる感じ!」日本を実感する瞬間を世界が共感

2016-02-28 04:16:09 | 日本の素晴らしさ
いや~、様々な事が羅列されていますね・・・・・・
受け止め方は、人さまざまということなのでしょう。
チップが不要なことに有りがたさを感じる人あれば、便座の暖かさに感じる人もいる、果ては路上にて配られる無料のティッシュ・・・・・

しかし、こうは言える。我々日本人が日常当たり前であることが、異国の地から来た人にはカルチャーショックであることも多いのだ。

【海外の反応】外国人「これが日本にいる感じ!」日本を実感する瞬間を世界が共感
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海外の反応 外国人女性「日本で暮らしてから変化した5つのこと」

2016-02-27 04:57:55 | 日本の素晴らしさ
異国で暮らせば異国の風習に影響を受ける、これは確かにあることなのでしょう。
ただ、この動画の冒頭部分で
「車の移動より自転車や歩く」
「教師に敬意を持つ」
の部分は、正直本当だろうか? と思ってしまう。

特に最初の車での移動なのだが・・・・・
私は東京で生まれ育ち、サラリーマン時代は各地を転勤し、現在は秋田市で生活している。
秋田を含めた地方都市の「車依存」はひどい。徒歩で行ける買い物もすぐに車で出かける。
その点は都会の人のほうが、よっぽど歩く。一つには交通機関の発達度合いにも関係があるのだろうが!
論点がずれました・・・・・・

海外の反応 外国人女性「日本で暮らしてから変化した5つのこと」
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【海外の反応】「パリとはレベルが違う」 日本の鉄道システムにフランス人が驚嘆!!

2016-02-26 03:02:53 | 日本の素晴らしさ
日本の鉄道に対する外国人のイメージは”時間に正確な運行”だと思っていたのだが、この動画の反応を見ると”設備の充実””乗客のマナー””きれいな状態”などなどの反応である。
確かにニューヨークの地下鉄など(私は行ったことはないが)不潔、暗い、治安が悪いなどのイメージだ。

しかし、これとて現在だからだ。
私が電車通学していた昭和30年代は、電車は汚かったし車内は禁煙でもなかった。今の高校生が、その次代にタイムスリップしたら腰を抜かすであろう・・・・・・

【海外の反応】「パリとはレベルが違う」 日本の鉄道システムにフランス人が驚嘆!!
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外国人「日本に行くのが怖かった…」黒人留学生の体験談に世界が感動

2016-02-25 03:33:19 | 日本の素晴らしさ
私は昭和21年生まれである。私が子供の頃、外国人は珍しかった、だから、外国人と出逢えば「外人だ!外人だ!」といって物珍しく見たものである。
時は変わって今は東北秋田にいるが、ここですら外人が珍しいことはない。前にも記した議員秘書時代の議員の奥さんがエチオピア人であった。

この南アフリカの交換留学生として来た女性の、日本に抱いた印象は現代では普通なのであろう。
この画像の少女が本人であるならば、本当にチャーミングである。


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