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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

イザベラ・バード奥地紀行13

2016-03-30 04:02:43 | 日本の素晴らしさ
小繋から大館までは羽州街道も平坦な道を進んで来る。大館も、イザベラが宿泊した頃は『半ば崩れかかった人家がみすぼらしくたてこんでいた。木の皮で葺いた屋根は石で押させてあった』
彼女が着いた時は大雨で足留めされた旅人でどこの宿屋も満員で、何軒も歩いた揚句に騒がしく煩い宿屋にやっと泊まる事ができた。
この宿屋で、秋田の方言、というより東北弁の発音について記述している。
「近ごろはどこへいっても”ハイ”という返事をヘーとか、チ、ナ、ネなどと発音する。
そしてこのことを、伊藤はとても軽蔑している。それは返事と言うよりは無意味な間投詞のように聞こえる。・・・・・ときにはその発音は高く鋭く、喉の音となり、溜息のような時もある。

7月29日。晴れ間を見つけて大館の宿屋を出る。この日は天気は良かったが、増水した川の減水を待たなければならないため、7マイル(10キロメートル程)しか進めず、白沢という村(現地名、大館市白沢)で泊まりとなる。
この日の天気は余程良かったと見えて、後ろに見える大館の町が美しく見え、山々の木々も一層美しく陽に輝き、絵のようだったと書いている。
白沢(しらさわ)では、外国人は今までに一度も宿泊したことが無いので、警察署の許可がなければ泊める事はできないと断られたが、伊藤の必死の説得で、何とか泊めてもらった。
予期せぬ長雨に、逗留を余儀無くされたバードは、やっとの晴れ間に急ぎ白沢を発つ。
宿を出たイザベラは、太陽に照らされた東北の自然の光景が余程気に入ったのでしょうか、大館を出発した時と同じように、目に映る景色を、まるで絵でも観ているようだと絶賛している。

イザベラはその後も、激しい雨の中を、時に は馬の背程まで増水した川を、死にものぐるいで渡ったり、川に流された道無き道を歩き、やっとの思いで碇ヶ関(いかりがせき)の宿屋に到着することなる。 この状態は旅行のレベルを遥かに凌いで、最早探検や宝探しの世界のような印象を受ける。
碇ヶ関は、『人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。まことにわびしくうらぶれたところで、(中略) しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた』
イザベラは、原始的な宿屋ではあったが休むことができた。

増水した川や寸断された道のため、ここで4日間足留めされた。その間、イザベラのできる事と言えば、日に3度、川の様子を見に行ったり、時間潰しに宿の亭主や村長(原文では「kocho(戸長)」と話をした事である。
時に、眼病の村びとに薬を付けてあげたり、子供達を見ていた。彼らは、常に行儀正しかった。イザベラが菓子をあげる場合でも、必ず親の許しを得て、にっこりしてからイザベラの前で深く頭を下げ、自分で食べる前に他の子供達に菓子を渡す。

黒石(くろいし)では、綺麗でさっぱりした風通しのよい二階の部屋に泊まることが出来た。夜になって伊藤が面白いモノが見られると彼女を誘いに来たので、イザベラは着物を着て変装し伊藤と一緒にでかけた。黒石は街灯の無い町だったので変装が人々に知られることはなかった。
町へ出ると彼女の前を祭りの行列が進んできた。それは絵のように美しかったので1 時間も立ち尽くした。その祭りは大きな提灯がいくつも運ばれてきたが、魚、鳥、凧、太鼓などの絵が描かれた様子は、提灯というよりは大きな透かし絵のよう に見えた。そしてこの祭りは七夕祭、あるいは星夕祭と呼ばれていた。

彼女は温泉を訪問する。その温泉は下中野にあって、
『ここは、長方形の陥没の縁に沿って家が立っており、その底部に浴場がある』
彼女は、車夫の案内で共同浴場へと行く。入浴したわけではない。車夫が入口から浴場へと入っていったので、そのまま付いていったのである。入口は男女別々であったけれど中へ入ると混浴で、浴場は中に四ケ所あった。
『端の二つの浴場では、女や子供が大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分かれていた』
出口は入口の反対側で、さらに、入場してくる人々に押されて戻るわけにも行かず、浴場を見学し出口から出ていった。
入浴していた人々は、外国人の訪問をそれほど気に止めず、おおらかな人々の心に感動する。また、明治新政府は、混浴を禁止させていたがなかなか徹底しなかった。大衆浴場文化は日本の特色の一つであった。
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イザベラ・バード奥地紀行12

2016-03-29 02:09:04 | 日本の素晴らしさ
「阿武川(現 飯田川町虻川)というみすぼらしい村で一泊せざるを得なかった。屋根裏の部屋で、ノミが多かった。米飯は、とても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんはひどい皮膚病にかかっていた。このあたりではもはや壁土の家はなく、村々の家屋はみな木造であったが、阿武川は古ぼけて倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜になった梁は道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。
虻川を出て間もなく、左側に大きく広がる潟があるのにイザベラは気がつきます。長さ17マイル(約27キロメートル)、幅16マイル(約26キロメートル)もある潟で、真山と本山の二つの高い丘に守られていた。

彼女が通った農村は、どこでも貧しかった。
豊岡(現 山本町)では
「人たちの着ているものは、特にぼろぼろで汚かった」
切石(現 二ツ井町)では
「どの家も泥水の中に立っていて、みじめで汚らしく見えた」
小繋周辺では
「村々はみすぼらしく、たいていの家は板張りで、端は粗末に釘で打ち付け、両側は粗末に縄で縛ってあった。家には窓はなく、どの割れ目からも煙が出ていた」

豊岡の次は鶴形(つるがた)である。鶴形までの途中、見えるものといったら、霧に霞む低く続く丘陵や水の溢れた水田、泥沼となった道や村落だった。そんな中で檜山(ひやま)だけは違っていた。
『サムライの村である檜山は例外であった。そこは美しい傾斜地にあった。家は一軒建てで、美しい庭園があり、深い屋根の門がつき、庭先は石段になっていて草木が植えてあった。洗練されて静かな暮らしを楽しんでいるように見えた』
檜山に好印象をもったイザベラも、ここで出会った子供達にとっては、おぞましい存在となってしまった。学校帰りの子供達が、イザベラを見た途端、悲鳴を上げながら逃げ出した。そうした事件は、いままでに何度か経験したものの、ここでは少し違っていた。
逃げる一人を馬子が捕まえて聞き糺したところ、伊藤は猿回しでイザベラは巨大な猿だと思ったというのだ。

夕方になると雨も小止みになり、しだいに霧雨も晴れ、美しい絵のような地方が見えてきた。
切石から小繋(*米代川上流側の小繋村と思われる)までは2マイル半(約4キロメートル)の距離であったが、4時間程掛かってやっと無事に着くことができた。

*実はこの小繋に至る船旅は危険なものであって、”きみまち阪Wikipedia”には次の様に記録されている。
1878年(明治11年)、イギリス人の旅行家イザベラ・バードは、 役所から渡河を禁止されているにも関わらず、船頭を雇い増水する米代川を無理に小舟で遡ろうとした。バードは、屋形船が激流のため舵を取られ木の葉のよう にくるくる回り、自分が乗っている小舟に衝突しそうになったことを記している。結局、屋形船は樹木にぶつかり、船頭は樹木に綱を巻き付けたが、その綱に8 人がぶらさがると幹は折れ、8人は流れにのまれて見えなくなった。バードも一歩間違えば遭難しかねない状況であったが、「夕闇が迫ると霧雨も晴れて、絵の ように美しい姿をした地方が見えてきた」とも記している。その後、バードは小繋村に宿泊している。

小繋村の宿屋に着いた頃には日はとっぷりと暮れ、深い霧が出て、また大粒の雨が降り始めた。この晩の宿屋の部屋は、大名の座敷が現れたかのような立派な部屋で、彼女は大変に満足した。
7月30日。朝早く小繋を出たイザベラは、大雨の中を綴子(つづりこ)、川口、大館(おおだて)と強行に進み、大館で宿泊となる。
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イザベラ・バード奥地紀行11

2016-03-28 00:24:52 | 日本の素晴らしさ
【土崎みなと祭り見学】
「男も女も子どもも、今祭りをやっている港へみな急いでいる。
港は久保田の荷揚げ港で、このみすぼらしい町では神明(天照大神)という神の誕生日を祝って祭りをしている。
人が溢れて街路そのものは見えないほどだった。町中ぎっしり提燈が並んでいた。・・・・・・・・猿芝居や犬芝居の小屋があり、30分ごとに女が観客に首を切らせる小屋もあった・・・・・いろいろな姿に固めた砂糖、玩具、菓子類が、地面に敷いた畳の上に売り物として並べられている」

「警察の話では、港に2万2千人も他所から来ているという。
しかも祭りに浮かれている3万2千の人々に対し、25人の警官で充分であった。
私はそこを午後3時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。
私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。」

「雑踏の中に大きな山車が二つあって、それを遠くから眺めた。9mの長さのある(原文ではフィート)重い梁を組み立てたもので、中味のしっかりした巨大な車輪が八個ついていた。・・・・上端には不揃いの高さの特殊な山が二つあり、全体は地面から15mあった。・・・・全体が山をかたどり、神々が悪魔を打ち殺すさまをあらわしていた。しかし私は、これほど粗末で野蛮なものを見たことがない」

どの山車の前部にも、幕の下で三十人の演技者が悪魔のもつような楽器を手にし、実に地獄的な騒音で、あたりの空気を震わせていた。・・・・・一つの台には、寺院の仁王に良く似た巨人が真鍮の鎧をつけて、薄気味悪い鬼を殺していた。・・・・・これらの山車は、外路上を引かれて行ったり来たりしていた。引く男は山車に200人で、3時間で1.6Kmしか進まなかった」
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イザベラ・バード奥地紀行10-2

2016-03-27 00:23:48 | 日本の素晴らしさ
秋田県の県民紙「秋田魁新報」に、今年の1月22日”womanてらす”というコラムにイザベラ・バードの事が掲載された。
「イザベラ・バード秋田の旅」という表題で、これから私が記す地域までに及んでいる。


字が小さくて読みにくいでしょう。下記をクリックください。
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イザベラ・バード奥地紀行10

2016-03-26 00:52:04 | 日本の素晴らしさ
神宮寺から川船に乗って雄物川を下り、久保田(現 秋田市)に着いた。
「人口3万6千人、非常に魅力的で純日本風の町」「太平山と呼ばれる立派な山がその肥沃な流域の上方に聳え、雄物川はその近くで日本海に注ぐ」「商売が活発で、活動的な町である」「繁栄と豊かな生活を漂わせている」
「美しい独立した住宅が並んでいる街路や横通り、・・・
住宅は、樹木や庭園に囲まれ、よく手入れされた生垣・・・
静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる。・・・
公共の建物には立派な庭があり、傍らを走る幅広い道路があり、石で上張りをした土手があって、このように都から遠く離れた県にしては珍しい・・・

私はたいそう親切な宿屋で、気持ちのよい二階の部屋をあてがわれた。当地における三日間はまったく忙しく、また非常に楽しかった。西洋料理--おいしい ビフテキ、すばらしいカレー・きゅうり・外国製の塩・辛子がついていた。それを食べると彼女は、旅の途中、秋田市で西洋料理を楽しんだことを紹介しています。おいしいビフテキ、すばらしいカレーなど。秋田市 で巡り会った西洋料理は、食べると「眼が生きいきと輝く」気持ちになるほど素晴らしいものでした。三か月を超える彼女の旅の中で、こんなにも食事に満足し た記述は、ほかに見あたらず、当時の秋田市の西洋料理の充実ぶりが伺えます。文明開化から間もない時期の秋田市にどうしてそんな素晴らしい西洋料理があっ たのでしょうか。

広報あきたの記述から・・・・
秋田市の明治初期の西洋料理店といえば、川反四丁目に明治十一年頃に開店したと言われる「与階軒」(與諧軒)が知られています。与階軒は、日本式の宴会 を嫌った当時の石田県令(知事)の働きかけで開店した店であり、イザベラ・バードが西洋料理を楽しんだのもこの「与階軒」かもしれません。

また、一般に牛肉を食べることが少なかった江戸時代においても、重労働が求められる鉱山で働く人たちは、体力をつけるために牛肉を食べていたと伝えられ ます。秋田市は、全国有数の鉱山を抱える秋田藩の城下町であり、寺内地区のように鶏や動物の肉を食べることを厳しく禁ずる地域があった一方、肉料理を中心 とした西洋料理への抵抗感の少ない人たちも多かったのではないでしょうか。与階軒は開店当初、来店者は少なかったとも伝えられますが、市民の間には着実に 新しい食文化が浸透し始めていたようです。

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」は、旅行中に書かれた手紙を中心にまとめられたものであり、素直な印象が綴られています。その中で、秋田市は「久保田 (秋田市)は秋田県の首都で人口三万六千、非常に魅力的で純日本風の町である。~(中略)~美しい独立住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めてい る。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れした生け垣がある。~(中略)~このように何マイルも続く快適な郊外住宅を見ると、静かに自分の家庭生活を楽し む中流階級のようなものが存在していることを思わせる」と書かれています。

イザベラ・バードの感じた秋田の美しさは、目を見張るような建物や景勝地としての美しさではなく、手入れされた庭園や生け垣など、「家の外をきれいにし て街を美しくしよう」という公共意識の高さ、心の豊かさから生まれたものだったのでしょう。秋田市の街を絶賛したイザベラ・バード。明治十一年七月二十三 日付、久保田(秋田市)で書かれた手紙の後半には、こうも綴られています。「私は他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである…」と。
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イザベラ・バード奥地紀行9

2016-03-25 06:08:36 | 日本の素晴らしさ
この湯沢での騒動のあと、馬に乗って横手に入る。

「横手は人口一万の町で木綿の大きな商取引が行われる。この町のもっとも良い宿屋でも、立派な物は一つもない。
町は見ばえが悪く、臭いも悪く、わびしく汚く、じめじめしたみじめな所である。
町の中を歩いていると、人びとは私を見ようと風呂から飛び出してきた。男も女も同じ様に、着物一枚つけていなかった。宿の亭主はたいそう丁寧であったが、部屋には、怒りたくなるほどたくさんのノミや蚊がいた」

「横手では毎週木曜日に雄牛を殺すということを途中で聞いたので、夕食にはビフテキを食べ、もう一片は携行しようと心に決めていたのだが、着いてみると全部売り切れであった」

「横手を出ると、非常に美しい地方を通過していった。山の景色が見え、鳥海山がその雪の円屋根を時々のぞかせた。そして、六郷という人口五千の町に着いた。ここには立派な神社や寺院があるが、家屋は特にみすぼらしかった」
*この六郷では警察の親切な取り計らいで、金持ち商人の葬儀に参列。その模様も詳しく陳述されているが、ここでは省略・・・・・・


神宮寺では町の細かな記述はない、ただ、バードを覗きに来る無作法を厳しく咎めている。
彼女は外人が珍しいこの時代に好奇の眼にさらされ、プライバシーが保てない嘆きを各所でしているが、神宮寺では遂に警察に通報している。
「神宮寺の旅館は低く暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子で仕切ってあるだけだった。
庭先に人びとが入り込んで、私を見ようとしていた。朝五時に外側の格子に三人が顔を押し付けているのを見た。
夕方までに障子は指穴だらけとなり、それぞれの穴からうす黒い眼が見えた。
夜九時に足をひきずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので眼を上げたところ、向かい側に約40人の男女と子どもたちが、顔を灯火に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。彼らは、廊下の隣の障子を三枚、音もなく取り去っていたのである!
私は戸外で群集が集まってきてじろじろ見られる事には、辛抱強く、時には微笑して我慢してきたが、この種の侵入には耐えられない(で警察に通報した)」
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イザベラ・バード奥地紀行8

2016-03-24 00:15:12 | 日本の素晴らしさ
【いよいよ私の住まい、秋田に入る】雄物川の上流に沿って院内(現にかほ市)まで山道を歩く、主寝(シオネ)と雄勝の二つの峠を越えた。院内で一泊、また好奇の眼にさらされる。
イザベラが秋田県に入って最初の宿泊は院内(いんない)だった。
幸いにも院内での宿屋は心地よく、隣部屋には技師六人が居合わせた。彼らはイザベラが越えてきた2つの峠に、トンネルを掘れるかどうかの調査に来ていた。
また、院内町には、当時脚気(かっけ)が多く発生しており、7ヶ月間に100人が死亡していた。このため久保田(秋田市)から2人の医学生が、この地方の医師の応援に来ていた。

院内峠を越えてきた彼女の目に、最初に映った秋田人について次のように記している。
「女性はやはりズボンをはいているが、短い着物ではなく、長い着物をその中にまくり込んでいる。男性は胸あてと前掛けを一緒にした綿布をつけているが、そのほかに何も着ていないか、あるいは着物の上に、それをかけている」
      
10キロほど馬に乗って湯沢に着く(7月22日だ)
「何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に上がった。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども50人ばかりが下の部屋に投げ出された。
幸いにも部屋には誰もいなかった。誰も叫び声を立てなかった、これは注目すべきことである。数人が擦り傷を受けただけで負傷者はいなかった」
旅券確認の警官が来て帰ると「群衆が前より激しい勢いでまたも押し寄せてきた。係りが彼らに、立ち去ってくれ、と頼んだが”こんなことは二度と見られないから”と彼らは言った。一人の年とった農夫はこの”見世物”が男か女か教えてくれたら出てゆく、と言った。それがお前にとって何の用があるのか、と係りが尋ねると”今日見たことを家に帰ってみんなに話したいのだ”と答えた」
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イザベラ・バード奥地紀行7

2016-03-23 07:11:20 | 日本の素晴らしさ
【山形に入った寒村で】「ここでは商品の大半を人夫が運ぶ、男と同様に女も重い荷物を運ぶ。人夫は一人で20Kgを運ぶが、ここ山形から運んでくる人夫は40Kgから60Kg、それ以上を運んでくる。
この連中がかわいそうに山の峠道を大弱りの格好で喘ぎながら登ってくるのを見ると、気持ちが悪くなるほどである。峠の頂で休んでいた彼らは息遣いが荒く、その眼は飛び出しそうであった。・・・・・・
彼らは家族のためにパンを得ようとまじめに人生を生きてきているのである。しかし、この地方で一人も乞食にあったことがない」

「乗った牝牛は子牛を伴っていた。私は新鮮な牛乳を得られると思ったが、それを聞いて皆に笑われた。伊藤に聞くと、そんなことはとてもいやらしいことだと思っている、日本人は外国人がお茶を飲む時に”こんな強い臭いのするもの”を入れるのはとてもいやらしい事だと思うのだと言った」
  
  
  
【山形の田舎の駅舎の休憩中】「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。
料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。
彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。私の”尊名”を帳面に記してもらったのだからと言う。そればかりでない、彼らはお菓子を一包み包んでよこし、その男は彼の名を扇子に書いて、どうぞ受け取ってくれ、と言ってきかなかった・・・・・彼らの親切には心をひどく打たれるものがあった」
「伊藤は私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼 女はその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、 ここは人情の美しいところであると感じた。」

【米沢平野】南に繁栄する米沢の町、北に湯治客の多い赤湯があり、大地は実り豊に微笑するここはアジアのアルカデヤ(桃源郷)であると絶賛。畑も”鍬で耕したというより鉛筆で描いたように美しい”
『これは大きな宿屋で、客が満員である。宿 の女主人は丸ぽちゃのかわいい好感をいだかせる未亡人で、丘をさらに登ったところに湯治客のための実に立派なホテルを持っている。彼女には十一人の子ども がいる。その中の二、三人は背が高く、きれいで、やさしい娘たちである。(中略)どれほど長いあいだ宿屋を経営しているのか、と未亡人にたずねたら、彼女 は誇らしげに「三百年間です」と答えた。職業を世襲する日本では、珍しくないことである。

「鳥海山のすばらしい姿が眺められた。雪に おおわれた壮大な円頂で、8000フィート(2,400m)の高さだといわれている。山は比較的に平坦な地方からまったく思い掛けない高さで聳えている。
同時に湯殿山の大 雪原が見えて、下方にとても美しい連山が幕のように囲んでいるので日本の最も壮大な眺めの一つであると考えられよう」

さて、いよいよ次回から秋田県に入ってきます。
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イザベラ・バード奥地紀行6

2016-03-22 05:10:42 | 日本の素晴らしさ
【津川から船で新潟入り】新潟で一週間ほど過ごす。新潟は美しい繁華な町と言っている。
「日光と同じ様に、ここもよく掃き清められた街路を泥靴で歩くのは気が引ける。藁や棒切れが一本でも、紙一枚でも散れば、たちまち拾い上げられて、片付けられてしまう。どんな屑物でも、一瞬間でも街路に捨てておく事はできない」
美しい繁華な町である。人口は五万で、富裕な越後地方の首都である。(中略) 病院と県庁、裁判所、諸学校、兵舎、そしてそれらすべてに劣らず大きな銀行とがあり、みなヨーロッパ風の建物で進取的で、ひときわ目立つが、けばけばしくて味気がない」

【新潟を出た後の沼というで】「あるみじめな宿屋に行くと、そこの女は出迎えて言った。”すみませんが、とても汚くて、こんなりっぱなお客さんをお泊めすることはできません”、彼女の言う通りだった」
「伊藤に全世帯の名前と数、性別を調べさせた)二十四軒の家に、307人が住んでいた。ある家には四家族が同居していた。」

「吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿のであった。
しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。
これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。」

日暮れも近いので黒沢での宿泊を考えたが、あいにく黒沢に宿屋はなかった。更に人馬の調達に時間がかかったため、1時間程の休息を止む無くされた。
石に腰を下ろし、この地方の人々の事を考えていた。
「子供たちは、しらくも頭に疥癬で、眼は赤く腫れている。どの女も背に赤ん坊を負い、小さな子どもも、よろめきながら赤ん坊を背負っていた」
そんな様子を観察していると、一人の酔っ払った女性がよろよろと道を歩いてきた。通訳の伊藤は、イザベラに酔った女性を見られた事をひどく気にして、とても恥ずかしい事だと言って、手で顔を覆ってしまう程であった。
「休憩した所で、休息料として普通置くことになっている二銭か三銭をどうしても受け取ろうとしなかった。私が水だけで、お茶を飲まなかったからと言うのであった。無理に金を取らせると、女はそれを伊藤に返した」
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イザベラ・バード奥地紀行5

2016-03-21 02:06:04 | 日本の素晴らしさ
ここでは日本に触れたバードの様々な感想を列挙してみよう。

「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打 ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲 まれても、失礼なことをされることはない」

「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。」

「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で、日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。」

「馬子は私が雨に濡れたり、びっくり驚く事がないように絶えず気を遣い、革帯や結んでいない荷物が旅の終わりまで無事である様に細心の注意を払う。旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事を放り出して酒を呑んだり雑談することもなく、直ちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって家へ帰るのである」

「ほんの昨日のことであったが、革帯一つ、紛失していた。
もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。
彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。」

「しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗 るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。このように礼儀正しく心のやさしい人びとに対し、誰でもきっと好感をもつにちがいな い。」

「どこでも警察は人々に対して非常に親切である。
抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。」

「私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。*ちょっと換算度合いが分からない・・・・安いのは確かのようだ。
どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。
日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末なにしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。
世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。」

「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったり融けあう。
彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけて感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」

高田(新潟近く)にて「外国人がほとんど訪れることのないこの地方では、町のはずれで初めて人に出会うと、その男は必ず町の中に駆け戻り”外人が来た”と大声で叫ぶ。すると間もなく、目明きも目くらも、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も集まってくる。

「宿屋に着くと、群衆がすごい勢いで集まってきた。(宿屋の主人は庭園の中の美しい部屋に移してくれたが)大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子どもたちは柵に登ってその柵を倒し、その結果みながどっと殺到してきた」

旅館出発の朝「二千人をくだらぬ人が集まっていた。私が馬に乗り鞍の脇にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとした時であった。群衆の大脱走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。
伊藤が言うには私がピストルを取り出して彼らをビックリさせようと考えたからだという。そこで私は、その品物が実際にはどんなものであるかを彼に説明させた。優しくて悪意のないこれらの人たちに、少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。」
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イザベラ・バード奥地紀行4

2016-03-20 03:18:52 | 日本の素晴らしさ
日光入町小学校見学「学校の建物は英国の教育委員会を辱めないほどのものである。
あまりにも洋式化していると思われた。子どもたちはイスに腰掛けているのが居心地がわるそうだ。
学校の器具は大そうよい、壁には立派な地図。教師も熱心だが、生徒たちの学ぶ顔は、痛々しいほどの熱心さがある」

このあと彼女は学習内容に触れ、”いろはにほへと・・・・”が”色は匂えど散りぬるを・・・・”を意味する事や、中国の古典が昔の日本教育の基本であったが、今では主として漢字の伝達手段として教えられていて、その長短を述べている。
更に学校での懲罰のあり方を日英で比較するなどの洞察を述べている。

子どもについての記述が目立つ。
「日本人が早起きするのは不思議ではない、晩は灯火が暗くて楽しみがないからだ。行燈と呼ばれるみじめな”見える暗闇”に家族一同が集まる。子どもたちは遊戯や学校の勉強、女たちは縫い物をする」

「私はこれほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。
抱いたり、背負ったり、歩く時に手をとり、遊戯をじっと見つめる。遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないとつまらなそうである。
他人の子どもにも適度に愛情を持って世話をし、朝六時に男たちが数人集まっていると皆腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いている」

「私は日本の子どもたちがとても好きだ。
私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。
日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。」

「私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。
家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。」

「私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。
しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。
子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。」

「(子どもが遊ぶのを何時間も観察して)彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな目つきをしたり、意地悪い事をしたりするのを見た事がない。彼らは子どもというよりもむしろ小さな大人というべきであろう。
私の考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは人に大きな好感を抱かせる」
「(男の子どもたちの髪型にふれ)この大半を剃った頭が清潔ならよいのだが、疥癬、白くも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹などが蔓延している。村人の30%は天然痘のひどい跡を残している」

6月24日大いに気に入った日光をあとにして新潟に向かう
「日本はおとぎ話の国ではない。男たちは何も着ていないと言ってもよいだろう。女たちはほとんど短い下スカートを腰のまわりにしっかり結び付けているか、あるいは青い木綿のズボンをはいている。青い木綿の手拭いを頭のまわりに結んでいて、着ているものからは男か女かわからない」

「通訳の伊藤は普通の英語でなく”立派な英語”を話しがっており、新語を覚え正しい発音、綴りを身につけようと切望している。毎日、分からない単語をノートに書きつけ、晩になると私のもとに来て意味と綴りを習い、日本語訳をつけている。彼は今や本職の通訳よりずっとうまく英語を話す」
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イザベラ・バード奥地紀行3

2016-03-19 04:19:59 | 日本の素晴らしさ
日光の宿泊先”金谷家”をバードは絶賛している。
「畳はあまりにもきめが細かくきれいなので、靴下を履いてもその上を歩くのが心配なくらいである。
床の間の掛物はすばらしい美術品である。
主人の妹は私が今まで会った日本人のうちで二番目に最も優しくて上品。彼女が家の中を歩き回る姿は、妖精のように軽快優雅、声は音楽の様な調べがある」

私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。
これは、美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の目を楽しませてくれぬものは一つもない。宿屋の騒音で苦い目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほ んとうに心をすがすがしくさせる。
家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。
庭園はよ く設計されており、牡丹、あやめ、つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。

古い蒔絵や磁器、古風な錦織などを、私のために出して見せてくれた。
非常に美しい楽器も見たが、二世紀以上も昔のものだという。これらの宝物は、家の中に置いてあるのではなく、すぐ傍らの蔵という防火倉庫にしまっておくのである。
部屋をごたごたと装飾品で飾るということはなく、一枚の掛物、りっぱな漆器や陶磁器が数日出ていたかと思うと、こんどは別の品物がとって代る。だから簡素さはもちろんのこと、変化に富む。他に気を散らすことなく、美術品を代わるがわる楽しむことができるのである。

花(生花)について
「私の部屋が新しい花で飾られない日はないほどである。飾られている花の孤独の美しさが私には分かりかけている。床の間の掛物には桜の花一輪、襖の羽目板にはあやめが一輪、柱に優美にかけられた花瓶には一本の牡丹、一本のあやめ、一本のつつじがそれじれ挿してある。
これにくらべて、英国の花屋の花束ほど奇怪で野蛮なものがあるだろうか。種々の色の花を一束の花輪にまとめたもので、羊歯類でかこみレース紙で包んである。中の花はひどくつぶされ、それぞれの花の優美さも個性も破壊されている」

食は膳にのって来た。膳は高さ六インチ(15センチ)の小食卓で、金の蒔絵がしてある。
御飯は金蒔絵の鉢に入れてある。茶瓶と茶碗はりっぱな加賀の磁器(九谷焼)だった。
御飯とお茶で二部屋借りて一日に二シリソグ払う。
伊藤(通訳・従者)は私の食料を探し、ときには1羽10ペンスで鶏を手に入れる。鱒が六ペンス、卵は一個一ペンスで手に入る。個人の家で、日本の中流家庭生活を見ることは、きわめて興味深い。
結局彼女はここに九泊し、東照宮の観察記録も詳細だがここでは省きます、ここも絶賛している。
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イザベラ・バード奥地紀行2

2016-03-18 06:02:16 | 日本の素晴らしさ
日光に着くまで粕壁(多分、現春日部)等に二泊したが、その道中の街中観察は「道路は広いがよくはなかった。両側の溝はきれいでもなく、臭いも良くない事が多い。家々はみすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚い物が多かった。悪臭が漂い、人びとは醜く、きたならしく貧しい姿であったが、なにか皆仕事にはげんでいる」と辛口だ。

しかし、悩みはその晩の宿泊だったようだ「大きな宿屋に泊まることにした。大勢の旅人がおり、多くの悪臭があった。部屋は大きな広間を障子で仕切った部屋で、両隣ともに日本人の宿泊客がいる(満員だったらしい)。手紙を書こうとするが蚤や蚊がうるさかった。
その上、しばしば障子が音もなく開けられて、幾人かの黒く細長い目が、隙間から私をじっと覗いた。隣人たちの眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった、一人の少女は廊下と部屋の障子を二度開けた。*この後、外人が珍しい当時にあって実に千人もの見物客が集まるなどを度々経験する事になる*
片方ではかん高い音調でお経を唱える声、片方にサミセン(彼女の表現、三味線)を奏でる音、家中おしゃべりの音、外ではドンドンと太鼓の音、街頭から無数の叫び声、按摩の笛の音、拍子木の音等々に悩まされた記述がある。

ここを出発、日光手前の栃木で田園風景をこう言っている。
「あたりの景色はずっと眼を楽しませてくれるようになった。この地方全体が、手入れのよく行き届いた庭園のように見える。畑は注意深く耕され、豊富に肥料を与えるから一年に二回、あるいは三回も穀物を栽培できる。雑草はすこしも見られない」
二泊目の旅館も最悪で”旅行をすっかりやめてしまおうかと思った”ほどであった。
「宿屋は大きくすでに60人ほどの客がいた。四方が障子の部屋は狭く蚊帳は蚤の巣であった。
障子は穴だらけで、しばしば、どの穴にも人間の眼があるのを見た。プライバシーは思い起こすことさえできない贅沢品であった。召使はなんの弁解もせずに私の部屋を覗きにきた、主人とて同様であった。手品師、三味線ひき、盲人の按摩、そして芸者たち、全てが障子を押し開けた。
夜が更けるにつれて、家中のうるさい音ははげしく悪魔的で、一時過ぎまで止まなかった。太鼓や鼓やシンバル(?)が打たれ、琴や三味線がキーキー音を出し、芸者たちは唄に合わせて踊った。噺家は高い声で物語をうなり、部屋のすぐ傍を走り回っていた」

「人力車の車夫たちは、私に対し、またお互いに親切で礼儀正しいことは、喜びの源泉だった。笠とマロ(ふんどし)しか身に着けていない男たちが、ばか丁寧な挨拶をするのは実に面白い。お互いに話しかける時はいつも笠をとり、三度深く頭を下げることを、決して欠かさない。

仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいるときは短い下スカートをつけているだけである。何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけで少しも 恥ずかしいとも思わずに、道路を横ぎり他の家を訪問している姿を私は見た。幼い子どもたちは、首から紐でお守り袋をかけたままの裸姿である。彼らの身体や 着物、家屋には害虫がたかっている。
独立勤勉の人たちに対して汚くてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。

日光に近づいてくるにつれて、景色は美しさを増したようだ。
「農家の軒先ではたくさんの女性が家の正面に坐って機織りなどしていた。年寄りも若い人も仕事に精を出し、7歳か8歳の小さな子どもでさえも、赤ちゃんを背中におんぶして遊んでいる。村が無数にあり、人家はたて混んで、赤ん坊が多いことで、たいそう人の多く住んでいる地方と感じられる。私は日本が美しいと思い、今まで通ってきた関東平野が醜い夢にすぎないように感じた」

いよいよ日光に入るが、杉並木を絶賛している。男体山の山姿、森林、奔流等を総合して”スイスに見るような美しさ”と讃えている。「街路はひどく清潔になっていて、この通りを泥靴で歩きたいとは思わぬであろう」
日光では金谷さんと言う宿の主人が迎えに来た(これが現金谷ホテルの前身)、ここで人力車の車夫と別れることになる
「彼らは私に、細々と多くの世話をしてくれた。いつも私の衣服から塵をたたいてとってくれたり、空気枕をふくらませたり、私に花をもってきてくれたり、いつも感謝したものだった。そしてちょうど今、彼らは山に遊びに行ってきて、つつじの枝をもって帰り、私にさよならを言うためにやってきた」
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 イザベラ・バード奥地紀行1

2016-03-17 04:15:24 | 日本の素晴らしさ
イザベラ・バードをご存知だろうか? ここまで再三彼女の日本評を採り上げてきた。
彼女は英国人女性の旅行家で1878年(明治11年)6月から9月まで、明治維新直後の東北~北海道を単身で旅行(日本人通訳は同伴)している。
「日本奥地紀行(原題 Unbeaten Tracks in Japan=直訳は日本未踏の地)」という著書を残している。
この時47歳、その後も数回日本を訪れ関西、九州も訪問している。日本だけでなく世界中を回っているが、朝鮮・中国も訪問それぞれ旅行記がある。1904年、72歳で没している。
 
          
本著作は作者の妹や親しい友人にあてた旅行中の私信で、それらをまとめた手記となっている。作中に明治11年の日本の現実が描かれているが、英国女性を通して客観的に書かれているので、まことに興味深い内容であった。
この旅行記には維新直後と言いながら、特に東北地方では江戸時代の状況が色濃く残っている状況が細かく記されている。
又特に、私の住まいする秋田も訪問、湯沢~横手~神宮寺~久保田(秋田)~大館の観察記録が興味を引くし、なんと土崎みなと祭りも見学しているのである。
なお、この明治11年がどういう年かと言えば、前年明治10年西郷隆盛が西南戦争で戦死していて維新後10年とは言え、まだまだ日本は安定してはいない。
これから数回に分けて彼女の見た日本の姿を紹介してゆきたい。なお、時々に供する画像(スケッチ)は彼女自身の描いたものである(これが上手い)。
北海道に渡ってからアイヌのに宿泊して、そこの観察も多岐に亘っているがここでは本州だけに限定するので予めご了解ください。

彼女は1878年(明治11年)5月に船で横浜に着き次の印象を述べている。
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが野優しそうな顔をした連中がいた」
「桟橋の上に屋台が出ていた。こぎれいで、こじんまりとした簡易食堂で、火鉢があり、料理道具や食器類がそろっていた」
 
     
 

「税関では応対に出た役人はたいへん丁寧な人たちで、トランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。NYで同じ仕事をする。あの横柄で強引な税関吏と、おもしろい対照であった」
こうして知り合いのいるホテルに滞在、奥地旅行の計画を話すと”大丈夫だろうか”の反応が多かったという。この旅行は勿論まだ鉄道も走っていない時代、人力車、徒歩と主に馬に乗っての計画だが、誰に言わせても”日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱な事”といわれたそうだ。

その後、彼女は奥地旅行を実施する事を決め通訳を雇う。何人かを面接するが最終的に18歳の若者、伊藤を雇うが当初のイメージは決して良くない”私はこんな愚鈍に見える日本人を見たことがない。この男が信用できず、嫌いになった”とさえ言っている。しかし、彼の英語力が決め手になったか・・・彼を雇う。
契約の日、彼は一カ月分の給料の前払いを要求、彼女は応じた。知り合いは「あの男は二度と姿をみせないかも」と彼女を慰めたそうだが、約束どおり来て仕事ぶりも段々に評価される事となる。

さて、出発の荷物は彼女が50Kg、伊藤が40Kg(原文はポンド、距離はマイル、長さはフィートだが全て換算して表示する)、合わせて普通の馬一頭が運べる量であったと記録されている。彼女の道具で特徴的な物は組立式寝台、ゴム製の浴槽、折畳みイス、馬に乗るための鞍等の馬具、防虫剤、少量の食品といったところだ。
出発は3台の人力車、これで150キロ先の日光まで行く。旅券も携帯していざ出発だ(出発日6月10日)。
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藤原正彦の管見妄語 ポーランドの恩返し

2016-03-11 03:36:38 | 日本の素晴らしさ
幾度か週刊新潮の巻末コラム「変見自在」を紹介してきたのだが、実は冒頭コラムに「管見妄語 」と言うのがあって、これがまた良いのである。
筆者は”国家の品格”を書いた数学者 藤原正彦氏である。
下記に転載するのは藤原氏がここでポーランドを採り上げた文である。今までの連載といくつか内容はかぶっているが、新しい視点もあるので掲載いたします。

平成24年11月29日号『週刊新潮』

明治25年(1892)、ベルリン駐在武官だった福島安正少佐は帰国に際し、シベリアを一年四カ月もかけ単騎横断した。ドイツ国境を出て東へと進んだ彼は、ある寒村でみすぼらしい農夫に尋ねた。
 「ここはどこですか」「昔、ポーランドと呼ばれた所です」。1795年のポーランド分割により、長い歴史を誇ったポーランドは消滅し露独嘆の領土となったのである。農夫の悲し気な表情に祖国を失う悲哀を感じ涙した福島少佐は、帰国後の新聞インタビューでこれを語った。これは国民の感動をよび、それを落合直文がポーランド詩に書き、「波蘭懐古」という歌にまでなった。

こんな土壌があったから、大正9年(1920)、シベリアに残されたポーランド孤児765名の救出などという、列強各国が尻込みした大事業を日本赤十字と帝国陸軍が協力してなしとげたのであろう。朝野を挙げて不憫な子供達に同情し、お金、おもちゃ、人形、菓子などを送る人々が後を絶たなかった。
栄養失調や病気を治し故国へ送り届けたことはポーランドでも大きな話題となり、大国ロシアを倒した勇猛な日本人のやさしさに人々は深く感謝し感動した。そのうえ帰国した孤児で身寄りのない者のために、日本はグダニスク郊外に孤児院を建てるのに尽力した。

第二次大戦で彼等が地下レジスタンス運動に参加したためナチスが孤児院の強制捜査に入った時は、日本大使館から書記官が駆けつけ、日本の保護下にあることを言明し子供達に日本の歌を聞かせるよう指示した。
皆が「君が代」と「愛国行進曲」を大合唱したところドイツ兵は呆気にとられ引き揚げたという。

1990年代に駐ポ大使をした兵藤長雄氏の「善意の架け橋」によると、彼は8名の元孤児を公邸に招いたという。皆80歳以上だったが、孫に支えられやっと公邸にたどりついた老婦人は、「生きている間にもう一度日本に行くのが夢でした。公邸に招かれた時は這ってでも行きたいと思いました。なぜならここは小さな日本の領土と聞きましたから」と言って感涙に咽んだ。

ポーランドは恩返しとして、阪神大地震の時には被災児数十名をポーランドに招いた。中に小さなリュックをいつも肩に担いで離さない男の子がいた。世話役のポーランド婦人が付添いに理由を尋ねると、両親、兄弟を亡くし家も焼けてしまった子で、リュックの中には焼け跡から見つけた形見や遺品が入っているという。婦人は涙止まらぬままこの子の幸せを祈り続けたという。
 歩行もままならなくなったポーランド人の元孤児4人も日本人孤児を慰めに来て一人一人に涙ぐみながら赤いバラを手渡したという。

六年前に90歳で亡くなった最後の生存孤児リロさんは、第二次大戦でユダヤ人を助けイスラエル政府から賞を受けたが、「日本人に助けられたからお返しにユダヤ人を助けた。日本は天国のような所だった」と述懐していた。
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