小繋から大館までは羽州街道も平坦な道を進んで来る。大館も、イザベラが宿泊した頃は『半ば崩れかかった人家がみすぼらしくたてこんでいた。木の皮で葺いた屋根は石で押させてあった』
彼女が着いた時は大雨で足留めされた旅人でどこの宿屋も満員で、何軒も歩いた揚句に騒がしく煩い宿屋にやっと泊まる事ができた。
この宿屋で、秋田の方言、というより東北弁の発音について記述している。
「近ごろはどこへいっても”ハイ”という返事をヘーとか、チ、ナ、ネなどと発音する。
そしてこのことを、伊藤はとても軽蔑している。それは返事と言うよりは無意味な間投詞のように聞こえる。・・・・・ときにはその発音は高く鋭く、喉の音となり、溜息のような時もある。
7月29日。晴れ間を見つけて大館の宿屋を出る。この日は天気は良かったが、増水した川の減水を待たなければならないため、7マイル(10キロメートル程)しか進めず、白沢という村(現地名、大館市白沢)で泊まりとなる。
この日の天気は余程良かったと見えて、後ろに見える大館の町が美しく見え、山々の木々も一層美しく陽に輝き、絵のようだったと書いている。
白沢(しらさわ)では、外国人は今までに一度も宿泊したことが無いので、警察署の許可がなければ泊める事はできないと断られたが、伊藤の必死の説得で、何とか泊めてもらった。
予期せぬ長雨に、逗留を余儀無くされたバードは、やっとの晴れ間に急ぎ白沢を発つ。
宿を出たイザベラは、太陽に照らされた東北の自然の光景が余程気に入ったのでしょうか、大館を出発した時と同じように、目に映る景色を、まるで絵でも観ているようだと絶賛している。
イザベラはその後も、激しい雨の中を、時に は馬の背程まで増水した川を、死にものぐるいで渡ったり、川に流された道無き道を歩き、やっとの思いで碇ヶ関(いかりがせき)の宿屋に到着することなる。 この状態は旅行のレベルを遥かに凌いで、最早探検や宝探しの世界のような印象を受ける。
碇ヶ関は、『人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。まことにわびしくうらぶれたところで、(中略) しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた』
イザベラは、原始的な宿屋ではあったが休むことができた。
増水した川や寸断された道のため、ここで4日間足留めされた。その間、イザベラのできる事と言えば、日に3度、川の様子を見に行ったり、時間潰しに宿の亭主や村長(原文では「kocho(戸長)」と話をした事である。
時に、眼病の村びとに薬を付けてあげたり、子供達を見ていた。彼らは、常に行儀正しかった。イザベラが菓子をあげる場合でも、必ず親の許しを得て、にっこりしてからイザベラの前で深く頭を下げ、自分で食べる前に他の子供達に菓子を渡す。
黒石(くろいし)では、綺麗でさっぱりした風通しのよい二階の部屋に泊まることが出来た。夜になって伊藤が面白いモノが見られると彼女を誘いに来たので、イザベラは着物を着て変装し伊藤と一緒にでかけた。黒石は街灯の無い町だったので変装が人々に知られることはなかった。
町へ出ると彼女の前を祭りの行列が進んできた。それは絵のように美しかったので1 時間も立ち尽くした。その祭りは大きな提灯がいくつも運ばれてきたが、魚、鳥、凧、太鼓などの絵が描かれた様子は、提灯というよりは大きな透かし絵のよう に見えた。そしてこの祭りは七夕祭、あるいは星夕祭と呼ばれていた。
彼女は温泉を訪問する。その温泉は下中野にあって、
『ここは、長方形の陥没の縁に沿って家が立っており、その底部に浴場がある』
彼女は、車夫の案内で共同浴場へと行く。入浴したわけではない。車夫が入口から浴場へと入っていったので、そのまま付いていったのである。入口は男女別々であったけれど中へ入ると混浴で、浴場は中に四ケ所あった。
『端の二つの浴場では、女や子供が大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分かれていた』
出口は入口の反対側で、さらに、入場してくる人々に押されて戻るわけにも行かず、浴場を見学し出口から出ていった。
入浴していた人々は、外国人の訪問をそれほど気に止めず、おおらかな人々の心に感動する。また、明治新政府は、混浴を禁止させていたがなかなか徹底しなかった。大衆浴場文化は日本の特色の一つであった。
彼女が着いた時は大雨で足留めされた旅人でどこの宿屋も満員で、何軒も歩いた揚句に騒がしく煩い宿屋にやっと泊まる事ができた。
この宿屋で、秋田の方言、というより東北弁の発音について記述している。
「近ごろはどこへいっても”ハイ”という返事をヘーとか、チ、ナ、ネなどと発音する。
そしてこのことを、伊藤はとても軽蔑している。それは返事と言うよりは無意味な間投詞のように聞こえる。・・・・・ときにはその発音は高く鋭く、喉の音となり、溜息のような時もある。
7月29日。晴れ間を見つけて大館の宿屋を出る。この日は天気は良かったが、増水した川の減水を待たなければならないため、7マイル(10キロメートル程)しか進めず、白沢という村(現地名、大館市白沢)で泊まりとなる。
この日の天気は余程良かったと見えて、後ろに見える大館の町が美しく見え、山々の木々も一層美しく陽に輝き、絵のようだったと書いている。
白沢(しらさわ)では、外国人は今までに一度も宿泊したことが無いので、警察署の許可がなければ泊める事はできないと断られたが、伊藤の必死の説得で、何とか泊めてもらった。
予期せぬ長雨に、逗留を余儀無くされたバードは、やっとの晴れ間に急ぎ白沢を発つ。
宿を出たイザベラは、太陽に照らされた東北の自然の光景が余程気に入ったのでしょうか、大館を出発した時と同じように、目に映る景色を、まるで絵でも観ているようだと絶賛している。
イザベラはその後も、激しい雨の中を、時に は馬の背程まで増水した川を、死にものぐるいで渡ったり、川に流された道無き道を歩き、やっとの思いで碇ヶ関(いかりがせき)の宿屋に到着することなる。 この状態は旅行のレベルを遥かに凌いで、最早探検や宝探しの世界のような印象を受ける。
碇ヶ関は、『人口八百の村で、険しい山と平川の間の狭い岩棚となっている。まことにわびしくうらぶれたところで、(中略) しかし美しい環境にあり、私が今まで見たどの村とも様子がちがっていた』
イザベラは、原始的な宿屋ではあったが休むことができた。
増水した川や寸断された道のため、ここで4日間足留めされた。その間、イザベラのできる事と言えば、日に3度、川の様子を見に行ったり、時間潰しに宿の亭主や村長(原文では「kocho(戸長)」と話をした事である。
時に、眼病の村びとに薬を付けてあげたり、子供達を見ていた。彼らは、常に行儀正しかった。イザベラが菓子をあげる場合でも、必ず親の許しを得て、にっこりしてからイザベラの前で深く頭を下げ、自分で食べる前に他の子供達に菓子を渡す。
黒石(くろいし)では、綺麗でさっぱりした風通しのよい二階の部屋に泊まることが出来た。夜になって伊藤が面白いモノが見られると彼女を誘いに来たので、イザベラは着物を着て変装し伊藤と一緒にでかけた。黒石は街灯の無い町だったので変装が人々に知られることはなかった。
町へ出ると彼女の前を祭りの行列が進んできた。それは絵のように美しかったので1 時間も立ち尽くした。その祭りは大きな提灯がいくつも運ばれてきたが、魚、鳥、凧、太鼓などの絵が描かれた様子は、提灯というよりは大きな透かし絵のよう に見えた。そしてこの祭りは七夕祭、あるいは星夕祭と呼ばれていた。
彼女は温泉を訪問する。その温泉は下中野にあって、
『ここは、長方形の陥没の縁に沿って家が立っており、その底部に浴場がある』
彼女は、車夫の案内で共同浴場へと行く。入浴したわけではない。車夫が入口から浴場へと入っていったので、そのまま付いていったのである。入口は男女別々であったけれど中へ入ると混浴で、浴場は中に四ケ所あった。
『端の二つの浴場では、女や子供が大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分かれていた』
出口は入口の反対側で、さらに、入場してくる人々に押されて戻るわけにも行かず、浴場を見学し出口から出ていった。
入浴していた人々は、外国人の訪問をそれほど気に止めず、おおらかな人々の心に感動する。また、明治新政府は、混浴を禁止させていたがなかなか徹底しなかった。大衆浴場文化は日本の特色の一つであった。