この記事を最後に記事を投稿するのを止めます。
このブログの記事はほとんどが不還果の時に書いたものです。
不還果の時にはこのブログの記事が正しいと感じました。
(訂正する部分としては、現象に意味も何もないという事です。
生まれた意味、生きる意味、死ぬ意味、個人で考えれば、
そこに善や悪などの意味もありますが、本質的には意味も何もありません。)
それから、たぶん、阿羅漢果に到達する人は私以外にも出てくると思います。
このブログを読まれている方、気が向いたらで良いと思うので、
自分の体験している事を記録して下さい。
その記録は自分にも、また、他の人にも役に立つと思います。
預流果の時、一来果の時、などの体験談があれば、
他の人が悟りを開く助けになると思います。
私にはあまり時間が残されていません。
今、存在しているのも奇跡的なことだと思っています。
ブログを再開した時に、
今は、阿羅漢果の状態ではない、と説明しました。
この部分の説明をします。
阿羅漢果の状態は、自分がない状態です。
ただそこにある状態なので、自主的に何かをする事ができないんです。
別の存在に頼まれて何かをするという事はありますが、
自分で何かをするという事ができなくなります。
(意思を伴う事ができなくなるという表現が正しいでしょうか。~したいという事がない。
つまり、本能的な部分、最低限の食事、排泄、睡眠など)
そういう訳で、阿羅漢果の状態じゃなくなるまで待ってからブログを再開しました。
最後に、多くの人が考えるほど、悟りを開く事は難しいことではないと思います。
誰かが出来るなら、誰でも出来る事だと思います。
このブログの記事はほとんどが不還果の時に書いたものです。
不還果の時にはこのブログの記事が正しいと感じました。
(訂正する部分としては、現象に意味も何もないという事です。
生まれた意味、生きる意味、死ぬ意味、個人で考えれば、
そこに善や悪などの意味もありますが、本質的には意味も何もありません。)
それから、たぶん、阿羅漢果に到達する人は私以外にも出てくると思います。
このブログを読まれている方、気が向いたらで良いと思うので、
自分の体験している事を記録して下さい。
その記録は自分にも、また、他の人にも役に立つと思います。
預流果の時、一来果の時、などの体験談があれば、
他の人が悟りを開く助けになると思います。
私にはあまり時間が残されていません。
今、存在しているのも奇跡的なことだと思っています。
ブログを再開した時に、
今は、阿羅漢果の状態ではない、と説明しました。
この部分の説明をします。
阿羅漢果の状態は、自分がない状態です。
ただそこにある状態なので、自主的に何かをする事ができないんです。
別の存在に頼まれて何かをするという事はありますが、
自分で何かをするという事ができなくなります。
(意思を伴う事ができなくなるという表現が正しいでしょうか。~したいという事がない。
つまり、本能的な部分、最低限の食事、排泄、睡眠など)
そういう訳で、阿羅漢果の状態じゃなくなるまで待ってからブログを再開しました。
最後に、多くの人が考えるほど、悟りを開く事は難しいことではないと思います。
誰かが出来るなら、誰でも出来る事だと思います。
君は預流果を迎えるための第一段階を通過しただけだ。禅の十牛図で謂うなら尋牛に到達したに過ぎない。
インターネットに阿羅漢果を得た人物がいる。「鬼和尚の仏教勉強会」で検索してみるといい。そうして現在の君との智慧の違いを痛感するべきだ。
君の機根とせっかく芽生えた菩提心を無駄にしてはいけない。
早まらないほうがいいとはどういう事でしょう。
生きるも死ぬもない状態。
ブログで時間がないと書いたのは肉体の時間がないという事です。
鬼和尚さんの方は少しだけ、拝見させて頂きました。
確かに阿羅漢果まで到達されているようです。
無い事も無い、この感覚がわかるという事は到達されているのでしょう。
あなたはどこか勘違いをしているようです。
このブログは誰かを教え導くものではありません。
記事の大部分を書いたのは不還果の時。
当時の自分と一緒に悟りを目指そうというスタンスで書いています。
同時に、書きなおした方が良い記事があるのも確かです。
ですが、不還果の時に正しいと思い、書いたものです。
敢えて、訂正せず、それを残した状態です。
例え、もし、私(便宜上)が預流果だったとしてもそれは別に問題ありません。
転生した際にまた始まるだけです。
ついでに触れておきます。
私の歩みは感覚派のようなものです。
直感に導かれて、それに沿ったら、阿羅漢果まで到達した、という感じです。
ブログで記事にしていない事が実はかなり重要で、その時はなんとなくしていた事があります。
運よく阿羅漢果までいけた、これが当時の私です。
当時の私がそうだったように、いかに教え導く存在が教えを述べても、受け手がそれを理解できなければ意味がない。
いろんな段階の人が体験記を残した方が良いと思います。その中で、勘違いや間違いはあるかもしれません。
けれど、鵜呑みにせず、自分で考えれば、自ずと答えはわかります。
神通力を使える阿羅漢果がいるのであれば、何も問題はありません。しかし、いないのであれば、受け手側に近い立場の文章がいると思います。
故に、ブログの記事を消そうとも訂正しようとも思いません。
(神通力と悟りは非常に似通った道を通りますが、道はおそらく別です。)
そこで欲界定を一時的に体験しただけだということを「君は預流果を迎えるための第一段階を通過しただけだ」と表現した。
前世からの機根により「預流果を迎えるための第一段階」での体験は人それぞれ異なるから、君のような勘違いをする人が多い。
智慧の発現の仕方で語る言葉が違うものだけれど、君は、鬼和尚と自分の違いにすら気づけないでいる。つまり、君は預流向になったばかり。阿羅漢果まで行けたというのは勘違いだ。
「もし、私(便宜上)が預流果だったとしてもそれは別に問題ありません。転生した際にまた始まるだけです」というなら個人の自由だから勝手にするがいい。
「早まらないほうがいい」というのは、せっかく流れに乗ったのに、それではもったいないのではないかということだ。
前回はよく読んでなかったから気づかなかったし、先ほども、よく読まずに投稿してしまった。できれば消しておいてほしい。
しかし…気になる点が一点ある。
唯識論に転識得智という考え方がある。
阿羅漢に到達して阿羅漢果を得るときには、八識がすべて転換してすべて智慧に変わってしまうという考え方なのだが、それが文章から伝わってこない。
私が勘違いした原因もそこにあって、「早まるな」と忠告してしまったが、その点については恥ずかしいかぎりである。
本当に面目ない。悪いことをした。勘弁。
勘違いの原因がわかったので投稿したい。
どうやら、ここに書かれているのは初禅から第四禅定までのことで、預流果から一来果までの過程のようだ。
第四禅定を阿羅漢果とする文献を参考にされているらしいから、そこで私の認識とズレが生じ、勘違いの原因となったらしい。
天台大師の『摩訶止観』には、
「余処にもまた無常を観ずれども、いまだこれ別治ならず、不動定を得てこれを味わって常となす。いまは観慧あって、苦楽を離る」「しかもついにこれ色法なり。なおこれ無常なり、まさに染を生ずべからずと知る。ゆえに無常と称す」とある。
文面から推察すると現在はこの状況ではないだろうか?だとしたら、まだ一来果のはずで、次の不還果に至るときは三昧境に入るはずなのだけれど、そのときは色界を抜けて、無色界に入ることになる。
天台大師の『摩訶止観』によると、
「三種の色を滅すること鳥が篭を出ずるがごとし、故に出といい、空を縁ずる」「空を縁ずといえどもまた観慧あり」とある。
すなわち、いまだ無色界の空無辺定に参入していなければ、不還果ではないことがわかる。
私はいまだシュダオンなのだが、貴殿の進歩に非常に興味がある。不還果から先の体験的文献は天台大師の『摩訶止観』の他は皆無に等しく、ぜひとも誰かに書いてもらいたい。検討してくれないか。
あなたは7年前に火山の有る県のナンバーの軽自動車に乗って、山口県に行かれてますか。何度か、お話しを、しているかもしれません。
もし、そうなら、あの寺に電話して山中の携帯電話番号を聞いて、ご連絡を下さい。5~10年はお待ちしています。
食事と部屋のお布施を受けて頂きたいです。
悟りには、ほど遠い父が無量の徳を積めるように手伝いをして下さい。よろしくお願いします。
不還果は、慈悲の冥想でも達します。ただし食事の冥想はかかせません。心臓に親指ぐらいの魂みたいなのが現れて手伝ってくれます。
心より敬礼致します
預流果 (よるか) の覚り事項は、大乗仏教 から 感じた事を記載された内容記録であり
真実の覚りは、上部仏教 (お釈迦さま)である。
2014/08/20 18:26 『最後の投稿』で『覚りを開く事は ◯ ◯◯ ことではない』『誰かが出来るなら、誰でも出来る事』、
2014/06/22 03:28 の gooフログ に 『テーラワーダ仏教』を記載しているが、
『真実の智慧』は恵られていない。
俗世間を軽んじている。
論語の自由を武器に『覚りの世界』を論じるのは 『ターブー』。