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音楽、映画、その他表現物に対する日々の覚え書き

S・スピルバーグ『プライベート・ライアン』

2005-08-26 06:32:59 | 映画

プライベート・ライアンプライベート・ライアン(Amazon.co.jp)

『プライベート・ライアン』をDVDにて鑑賞。そういえば、前に言及した『スピルバーグ 宇宙と戦争の間』を買ってきたんだけど、これって肝心の宇宙=『宇宙戦争』と戦争=『プライベート・ライアン』のまともな批評のってないじゃん。『宇宙戦争』は出版が公開に間に合ってなかったからしょうがないにしても、なんで『ライアン』が抜けてるんだ?

さてその『プライベート・ライアン』。この映画、『A.I』を上回るほどのスピルバーグの悪魔の高笑いが聞こえてきそうな、凶悪な映画でありました。以下ネタバレです。未見の方は読まないことをおすすめします。





この物語を回想するあの老人のキャスティング。最後にライアンであることが明らかにされるのだけど、それまではどう見たってミラー大尉なわけで、この老人(俳優の名前が分からないのですが)、ミラー大尉ことトム・ハンクスの老後といっても、ライアンことマット・デイモンの老後といっても通用する独特の中間的存在で、このキャスティングこそ、スピルバーグの悪魔的計略の中心なのである。

老人の目のクローズアップが上陸作戦からしばらくしてからのトム・ハンクスの目のアップとして繰り返されるように、この老人がミラー大尉であると受け取ってしまうのは観客の誤解というより完全にスピルバーグの指示であって、そうなれば、冒頭この老人がミラー隊の部下達の墓標の前で力なく崩れ落ちるのは、「ライアンという一介の兵士を救うためだけに命を落した部下達への悔恨」の念から、と読み取って当然だろう。いわば観客はその「崩れ落ちた」姿勢のまま、ミラー大尉の視点を通して戦場を這いずりまわることを強制されるわけだ。そして、そのように強いるのは最後まで、その妥当性を十分に理解することができない「ライアン救出作戦」なのである。

実際、この映画は戦争の不毛さを象徴する「ライアン救出」というおよそ意味の欠如した目的、いわば「不在の中心」を巡って翻弄され、その「不在の中心」に対して意味のある目的を捏造する兵士達の物語である。部下達は口々にこの任務の無意味さを指摘し、ミラー大尉はとりあえず「命令」だからと答えてはいる。だが、彼もまたいささかも納得してはいなくて、それゆえ「ついでに」途上で発見したドイツ軍のレーダー基地の攻撃を強行する。そうでもしないとやってられないのだ。そしてついにライアンを見つけたところで本人は帰りたくないとぬかす。これで目的そのものすら消滅するわけだ。ここで映画はそれまでのリアリズムから転調して、あたかも古き良き時代のハリウッド戦争映画に戻ったかのような、対戦車くっつき爆弾作戦に突入。これは、もうバカバカしさが極点に達してしまったということだろう。そして衝撃。この戦闘で語り手であるが故に絶対に死なないはずのミラー大尉が死んでしまう。ミラー大尉の亡骸のそばに、スクッとライアンが立ちあがり、それがそのまま立ちあがった現代の老人に重なりあう。そして、この「不在の中心」たるライアン、彼を巡って兵士達が意味を捏造しなければならなかったライアンが、墓標を前にして、いけしゃあしゃあとこう語るわけだ「僕が生きのこったことに意味はあったかい?」

この物語を強引に要約すると、不在の神が人間の座をのっとって実体のある神へと生成した、ってことになる。いや、実際その生成がいつ起ったかってことになると、時間軸がめちゃくちゃなんだけど。全く、冒頭の「崩れ落ちる」老人とエンディングの「立ちあがる」老人は同一人物なんだろうか。この映画をして、またもハリウッドは戦争の悲劇をヒューマニズムとアメリカの正義で片付けたという批判があり、あるいはそれにそのまま感動して涙を流すとかの反応があるだろうけど、どちらにしろその背後ではスピルバーグの高笑いが響いている。「おいおい、マジでこれがヒューマンなエンディングだと思ってんの?」


S・スピルバーグ『宇宙戦争』

2005-08-18 23:51:17 | 映画

今やスピルバーグの諸作品は、映画界最大の謎だな。ここ最近の彼の作品をいくつか見ていく内に自分の中である種の違和感が増大する一方だったのだけど、先頃この『宇宙戦争』の公開に合わせて出版された『スピルバーグ―宇宙と戦争の間』を書店で立ち読みしてみた限りでは、やっぱり批評家の目からもスピルバーグ映画は「変」であることは確かなよう。そして遅ればせながらに見た『宇宙戦争』もまた予想以上に「変」な映画でありました。

まあ、変だ変だ、とばかり言ってこの映画をその一言で片付けるのもなんなので、まずは良かった所から。落雷によって開いた地面の穴から宇宙人が出現して、ヤジ馬たちが一挙にパニックに陥いっていくシーケンスは『ジョーズ』以来のスピルバーグの才能が存分に発揮されていて全くもって素晴しい。およそありえない状況に対する一般人の反応を、ここまでの説得力を持って提示できるのは、恐慌状態に移行するまでに存するスピルバーグ独特のタメが実にうまく機能しているおかげであり、パニック映画を撮りたいと思っている他の監督は是非とも参考にしてもらいたいと思う次第。

さて、本題のこの映画の「変」ぶりについて。この物語の設定「ダメオヤジの所に別れた妻から子供を預けられたその日に宇宙人が襲来する」というのを聞けば、もう考えられる主題は「いかにこのダメオヤジが子供を守るために父性に目覚め自ら戦うに至るか」の一点に絞られるわけだし、現に来日した監督本人やトム・クルーズなりダコタ・ファニングなりがインタビューでそのことを饒舌に語るわけだけど、実際のところ、この映画、それがことごとく失敗してるように見えてしょうがない。

いや単に失敗しているというだけなら、「ダメ映画」の一言で一蹴すればいいのだけど、ポイントは「ことごとく」失敗しているっていうことなんだよね。だって、こんなありふれたテーマ、普通に撮れば普通にそこそこ成功するわけでしょ。たとえばマイケル・ベイなんかであれば、自分の意図を表現するのに時には成功し時には失敗して、それゆえに彼は凡庸な監督であるわけだけど、スピルバーグのこの徹底した失敗ぶりは、何か別の意志があるように思えてならない。つまり、この映画での「父性の機能不全」は、宇宙人襲来とテロとの類似を何度か匂わしているところを鑑みるに、911に対する「アメリカの勇気」を暗に揶揄してるんじゃないかなぁ、と。それならそれで、アンチテーゼとして成功しているんだ、と主張したいところなのに、それほどの強い監督の意志がどうにも感じられず、やっぱり「失敗してるよなぁ~」というぐじゅぐじゅとした締まりのない感想にとらわれちゃうわけで。

とりわけ、このテーマに沿った上でのクライマックスと言っていいあのシーン、父親が娘に目隠しをし子守り歌を歌わせておきながら、xxxxxをxxxxxしてしまうシーン(一応ネタバレ回避)、それは父親が家族を守るために苦渋の決断をする場面であるはずなのに、そこにたちこめる空気は、実に不道徳というかエロスを感じさせるもので、そこで流れる子守り歌は、あたかも『必殺』中村主水の殺しのテーマのよう。これ絶対演出間違ってるようなぁと思いつつも、なんかときめいてしまっている自分がいるわけで、もういったいなんなのかと。

そんなわけで、この映画の父親のぐじゅぐじゅぶりと、ついでに宇宙人のぐじゅぐじゅぶりと同じように、この映画自体ぐじゅぐじゅと締まりなく、いやもしかしたら、アメリカの父性神話に対するアンチテーゼは、この徹底したぐじゅぐじゅぶりによってこそ成されるべきとスピルバーグは考えているのではないかと深読みしながらも、それでも単にぐじゅぐじゅと失敗しちゃっただけなのかなぁ、と感想自体もぐじゅぐじゅとしてしまうわけで。こんな思いにさせてくれるのは、やっぱりスピルバーグ映画なわけで。ぐじゅぐじゅ。

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