ユリイカ 2005年8月増刊号 総特集 オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史(amazon.co.jp)
一応、本書について書く上で僕のスタンスをそれなりに明らかにしておいた方が良いと思うので言っておくけど、自分はサブカル側の人間です。そちら側の人間としては、「サブカルとオタク」の対立なんか別にないような気がしていたので、この増刊号もそのタイトルからあまり読む気がなかったのだけど、先日放送された MOK Radio での本書を巡っての特集で、編集を担当した一人であるぱるぼらさんの「90年代のポップ・カルチャーを受容者の側から見てみたかった」という編集意図を話されていて、それなら興味が持てると感じたので読んでみました。たしかに、記事の大半はオタク対サブカルの対立を煽るようなものではなくて、その編集意図が良く理解できて楽しく読ませてもらいましたが、いくつかの記事に反応してしまって、逆にオタクとサブカルの違いを明確にしたい気にされました。
それというのが堀越英美さんによる「家政婦はオタクvsサブカル論争に旧制高校生の亡霊を見た!」という論考で、女性の立場からオタクとサブカルの対立を明確にしつつ、結局の所、同じ穴のむじなでしょ?というもので、オタクのホモソーシャル性、サブカルの少女獲得願望へと至る道を歴史的に位置付けるのだけど、ここでサブカルを特徴付けるのが80年代の中森明夫の言説である所に、そのような言説を意識しなかった90年代にサブカルを体験した僕としては若干引っかかる部分があるのと、もう一つ、この論考があくまで女性の側からのもので、男性の側から一言物申したい部分ある気がして、実はそれは最近のフェミニストの言説に対してシロウトながら男性として意見を述べたかった、というのと繋っていたりする。
最初に結論めいた仮説を述べておくと、男性をモテ系とオタクとサブカルに分かつのは、とりもなおさずファルス=男根主義に対する態度の相違として現われるんじゃないか、ということ。モテ系が女性と繋がろうとする時、この男根主義を前面に出して、つまり欲望の中心に「女とヤりたい」がまずあってそこからその手段としてコミュニケーション能力を磨き流行のものを消費する。そしてオタクはこの趣味を手段化することに嫌悪しモテ系と対立する。しかし、オタクにとって男根主義は直接リアルの女性に向かわないまでも、2次元美少女やアイドルへの「萌え」として保存される。そしてサブカルはこの男根主義そのものに対して嫌悪し、趣味がそれに規定されること拒否し、それから遠いものを趣味として選択し、結果として女性と「 女友達」として繋がることになる。・・・というのが僕の仮説。
というのも、対談での加野瀬さんの「男オタクの女性フォルダには彼女・家族・他人しかないんですよ」という発言は、オタクの特質を極立たせるというよりも一般男性に近づけるものな気がして、実際「男女の友情は成立するか」という問いは普通に繰り返されるものだけど、しばしばモテ系男性はこれにノーと答えがちじゃないですかね。そしてこれにイエスと答えてしまうのが、むしろモテ系からもオタクからも排除されるサブカル気質の人間という気がします。
サブカルの男根主義への嫌悪は、少女礼賛へと確かに通ずることは認めます。ファルス中心主義の否定からヴァギナの称揚としてのイリガライ的フェミニズムへ。それに対して堀越さんは次のように批判します。「『男はどうして、女の持っているものを男のものとして位置づけようとしないのだろうか』とは、少女幻想にとらわれた知識人に対する橋本治の痛烈な皮肉である。」しかし、これこそ僕が女性の発想だなと思ってしまう点で、というのもサブカル男性(少なくとも僕にとって)は、少女礼賛へ向かわせるのは少女が持っているもの(ヴァギナ)への憧憬というよりも、むしろ少女が持たずに済んでいること(ファルス)への憧憬であるからです。サブカル趣味の中核をしめるのが音楽であるのは、それがなによりも「中性」的であるからだし、アングラ文化が性を対象にする時しばしば笑いものにするという形を取ること、日活ロマンポルノを性とは関係ないものとして消費すること、それは全てアンチ・ファルスの発露の形だと思います。
それゆえ、「男性が「カワイイ」という感性を素直に発露することを抑圧してきた」というのが歴史的なものに起因するという堀越さんの論には疑問を感じます。抑圧はむしろほとんど男性の「ファルス」を持つという本質からきていて、つまりは自分が「カワイイ」と主張する時そこにいつも原罪のように「ファルス」がついてまわり、その原罪なしに「カワイイ」と主張できる女性と同じ視点へと到達するために様々な迂回を経るのがサブカルだと思うのです。(ちなみに、この点が僕が現在のバトラー型のフェミニズム、あらゆる性差の本質論を回避し、ジェンダーどころかセクシャリティをも歴史的産物にしてしまうフェミニズムに行き過ぎを感じる所です。)ついでに「萌え」という言葉でオタクが素直に「カワイイ」を主張できるようになった、という彼女の主張にも全く賛同できず、あれは完全にオタクが自らの性的衝動に居直った、としか思えなかったりします。
さらに堀越さんが戦前には男性にも(純粋な)「少女性」があったことを示す時に、谷崎や江戸川乱歩を持ち出すのもおかしい。なぜなら、あのようなサド/マゾヒズム、少年愛への嗜好こそ、ファルス支配への抵抗戦略以外のなにものでもなく、それは性的なものを男根的満足に留まらずに加速し、過剰にすることであり、むしろ純粋な少女性では説明できない事例の最たるものだと思うからです。
加野瀬さんが「なんで男は連れだって風俗に行くのか?」で考察しているように、体育会系、オタク共にホモ・ソーシャルな関係にあることを指摘しているけど、僕がつきあってきたサブカル仲間同士ではちょっとありえないことです。というか性的な話題を男同士で共有すること嫌う。昔、サブカル趣味の友人の一人がめでたくサブカル趣味の女の子とつきあうことになったのだけど、その時他の友人から「もうヤったの?」と聞かれた時、烈火のごとく怒ったという話を聞いて、彼らしいなと思ったことがある。あと、自分語りになっちゃうけど、僕が以前またサブカル趣味を通してつきあうようになった彼女とエッチに至るまでほんとに苦労しました。だって、一度排除したあの男根主義を再導入しないと事に至れないんだもん。まあ、結局のところオタクがサブカルに対して女性と共存してることをもって嫌悪感を持つのは、ほんと的はずれ。っていうか、オタクがファルス支配に従属している限り、モテ系のやっていることとサブカルのやっていることの区別がつかないんだろうな。もうね、モテ系もオタクもサブカルからすれば、同じ敵!敵!敵!!!・・・いや、嘘、嘘。ほんとごめんなさい。