araig:net

音楽、映画、その他表現物に対する日々の覚え書き

菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー』

2005-09-20 23:43:58 | 書籍

東京大学のアルバート・アイラー?東大ジャズ講義録・歴史編東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編 (Amazon.co.jp)

おもしろい。ウルトラ明晰・明解。軽い語り口でJazzの歴史と理論を一挙に理解させてくれます・・・ということは僕にとって「警戒しろ」ってことだけど。

「音楽を記号的に処理する」という欲望を「十二音平均律」「バークリー・メソッド」「MIDIの出現」という三つの特徴的な発露形態にまとめて、そうした記号化によるプレイヤー間のインタラクションの自由度の拡張、そしてそこからの創造性の促進と、その一方で起る記号化につきものの作品の等質化との相克として、特にバークリー・メソッド以降のJazzの変遷を描いていきます。これは僕の浅い音楽知識を振り返っても非常に納得できるし、それ以上にこの記号化に伴なう相克は音楽以外の領域でも至る所で起っている、とも言えて、めちゃくちゃ汎用性のある理論じゃないかと思うな。だからJazzにそれほど興味が無くても楽しめると思うし、いっそ音楽にすら興味なくても読め・・・いや、これはちょっと言い過ぎか。

それにしても、ここまで明晰だと「一般的なJazz史」を知らない僕は、この本に書かれたことこそ「一般的なJazz史」以外の何物でもなく、逆にこれ以外にどんな語り方があるのか、っていう風に思い込まされてしまう。例えば、マイルス・デイヴィスによる「モード」の発展によって、機能和声の抑圧から解放されアドリブの自由度が格段に上った、なんて説明を読むと自然「あぁ、クラブ・ミュージックの無調感はこの辺りから来てるのか」と自然に思ったりするんだけど、その内James Brown の “Sex Machine”についてのこんな発言にぶち当たってぎょっとなる。

これです。まず、コードが進行していません。このサウンドのことをモード・ジャズに絡めて分析しているのは多分僕たちが初めてだと思いますが、違ってたら教えてください。(p.192)

えぇ~っ、そこに絡めない他の「一般的な歴史」って何なのよ?僕はどっかで思いっきり騙されちゃってるの???っと、ものすごく不安になってしまうわけです。

一応、これ教材として買っちゃいました。すごく勉強熱心?

Kind of BlueKind of Blue (Amzon.co.jp)

っていうか、これくらいとっくに聞いとけよって話ですが。Jazz を聞くにあたって、マイルスを押さえる、っていうのは何か、Jazz というジャンルを真剣に聞きます!って宣言するみたいで、いやじゃないですか。もうちょっと離れたところから適当に戯れていたかったので、敬遠してたんです。

んで、菊地氏の DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN も買う。

MUSICAL FROM CHAOS2MUSICAL FROM CHAOS2 (Amazon.co.jp)

あ、普通にかっこいいわ。


ドストエフスキー『地下室の手記』

2005-09-15 22:56:09 | 書籍

地下室の手記 (Amazon.co.jp)

極度の自意識過剰のために他人とのコミュニケーションに苦しむ小官吏は、地下に閉じ込もり、そこで一つの思想を形作る。外部世界の人間たちは自然法則の客観性を信奉し、それに従って理性的に自己の利益に忠実であれば、幸福な社会が実現可能であると考えている。しかし、もしこのような科学合理主義が極限まで追求され、私たちの利益が全て計量可能となった時、私たちは自由意志を持つ余地が残されないのではないか。彼はその余地を残すために「苦痛は快楽である」というテーゼを確立する。それは自己の利益に反する意志の表明であるからだ。人間は未だ十分に理性的ではないから非合理な行動に走るわけではなく、その本性において非合理なのである・・・というこの作品の要約は単純すぎるだけでなく、実は本質から遠く離れている。彼の苦しみがコミュニケーション能力の不足に過ぎないのであれば、同じ悩みを持つ若い読者の共感を得はしようが、そうでないものにとっては蚊帳の外だろうし、開陳される思想もまた一分の理はあろうとも所詮現実との接触を欠いたひとりよがりのルサンチマンに過ぎず、この人物の苦しみが《ぼくらすべて》などと言われるのは笑止千万となってしまうだろう。

ちょっと読めば分かることだけど、この「引き込もりから思想へ」という順序は実は間違っている。彼が後半で回想する15年前の事件の時には既に前述の理論は完成しており、その理論を実行に移しているだけである。そしてこの小説がおもしろいのは、回想の現在性によって筆者が危機にさらされ、それによって前半の理論そのものが結末で破綻してしまうという構造を持っていることにある。とはいえ、筆者は前半部を書いている時点で、事件自体は通過しており、この後で回想することを漠然と意識しているはずなのだから、理論部にその破綻へ導く要素が異物のようにかすかに混入しているかもしれない。

ところで、そもそもこの小官吏は何故このようなコミュニケーション不全に陥ったのか。その理由は冒頭に明記されている。「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。」肝臓?しかし具体的にその肝臓疾患がどう影響しているかはついぞ書かれず、話しはすぐに後の合理性批判に繋がるであろう医者への批判に変ってしまう。身体に関わる別の苦痛がこの後で「歯痛」という形で出てくる。彼はこの歯痛という事柄が自分の預かり知らぬ所から課される自然法則、そしてその苦痛を快楽へ転化することの最適な例として挙げている。しかし、ここには二重の齟齬が存在している。第一に彼がこの前後で受け入れを拒否する自然法則とは「二二が四」のような科学的、理論的なものであり、それが彼を苛立たせるのは前述したように「自由意志」否定に帰結するがためである。つまりこれは抽象的、思想的苦痛なのだ。ところが歯痛は身体に直接及ぼされる具体的、現実的な苦痛である。第二に苦痛から快楽に転化するにあたって、それを直接に歯痛から導くわけではない。そうではなくて歯痛からもたらされる無為なうめき声、それによって他者からの侮蔑を言わば意図的に引き出し、その侮蔑による苦しみを官能のよろこびとすると主張している。つまり、極端なことを言えば、当の歯痛そのものはこの理論においてたいした機能を果たしていないのだ。これら理論部に見られる二つの身体的苦痛の意味とはなんなのだろう。

回想部は筆者のコミュニケーション不全を示すものでは実はない。ここで彼は「他者から意図的に侮蔑を引き出し、その苦しみを快楽とする」という非合理的行動を正確に実行しているだけである。彼はそれにほぼ完璧に近く成功しており、その意味ではコミュニケーション不全であるどころか天才的なまでに他人の行為を読み、操作する能力を持っていると言ってもいいかもしれない。彼の計画を撹乱するのは他人ではなく、むしろ彼自身の思考なのだ。回想部の第5節において、小官吏は友人との決闘を決意し馬車に飛び乗る。しかしそのヒロイックな妄想に酔っているまさにその時に間欠泉のように羞恥心が襲ってくるのだ。彼は自分を舊いたたせるかのように馭者を殴りとばす。しかしこの時その怒りが向けられているのは、人付き合いの達者な友人たちや合理性ではない。そうではなくて、制御がままならない自らの思考の外部性なのである。その外部性は計画的に実行できる非合理的行動を超えてしまっていて、どこか歯痛の外部性に似ている。

合理性に対する非合理的行動が実はかりそめの外部性に過ぎないことを暴き、彼の理論を根本的に不能にしてしまうのは、思考の内的外部性のほかに、全き他者という外的外部性に出会うことで決定的となる。どこまでも制御可能な友人たちは他者ではないし、売春婦リーザもまたある程度まで他者ではない。彼女に対して凌辱行為に及んだとしても、その時の彼女の反応は、まだ彼にとってどこか予見可能なのである。しかし、その後のちょっとした彼女の行動によって、彼女は彼の制御能力を超えてしまうのである。

どうだろう?彼女がこうすることを予期できたろうか?予期できたろうか?いな。(p.201)

ピエール・クロソウスキーは『ニーチェと悪循環』において、ニーチェをほとんど文学的人物へと変貌させているが、そこで後の永遠回帰の思想に繋がる思考の圧倒的外部性の理論を彼を日常的に苦しめていた身体的苦痛から引き出したことを鮮やかに示している。

このような「生理学的」検討を経たあとでは、人間の行動には、もはや依拠すべきいかなる審級も残っていない、かろうじて残っているのは、一方では制度的な言語の外在性とそれが個人に対してひきおこす諸々の帰結であり、他方ではコントロール不可能な内在性、その思いがけない展開には制度的言語に含まれる限界以外の限界がないような、そうした内在性だけであるといえるだろう。(pp.112-3)

ニーチェとこの小官吏を結びつけるのは、理論部に見られる合理主義批判の部分にではなく、この深層においてでなくてはならない。結末に現われる恐らく非常に誤解を孕む《生きた生活》の意味するのは、この「コントロール不可能な内在性」という深淵である。その淵に立ち得たという意味において、彼は地下室にこもっているにも関わらず「ぼくのほうが諸君よりもずっと《生き生き》していることになるかもしれない。」と言えるのだ。

それに続く以下の部分は完全にクロソウスキーの主張と一致している。

ぼくらから書物を取り上げて、裸にしてみるがいい、ぼくらはすぐさままごついて、途方にくれてしまうだろう。どこにつけばよいか、何を指針としたらよいかも、何を愛し、何を憎むべきかも、何を尊敬し、何を軽蔑すべきかも、まるでわからなくなってしまうのじゃないだろうか?ぼくらは、人間であることをさえわずらわしく思っている。ほんものの、自分固有の肉体と血をもった人間であることをさえだ。それを恥ずかしく思い、それを恥辱だと考えて、何やらこれまで存在したことのない人間一般とやらになり変わろうとねらっている始末だ。ぼくらは死産児だ、しかも、もうとうの昔から、生きた父親から生れることをやめてしまい、それがいよいよ気に入ってきている始末だ。(p.205)

合理主義は書物風である。円滑なコミュニケーションも書物風である。しかし、それに反逆する非合理的行動もまた書物風に過ぎないのだ。こうして彼の理論は破綻し、もはや手記を書き続けることはできない。そしてその破綻をもたらしたのは、回想的反復というまたも思考の暴力そのものなのである。それでも・・・

とはいえ、この逆説家の『手記』は、まだここで終っているわけではない。彼は我慢できずに、さらに先を書きつづけた。(pp.205-6)

ニーチェと悪循環ニーチェと悪循環 (Amazon.co.jp)




ジル・ドゥルーズ「バートルビー、または決まり文句」

2005-09-02 07:47:10 | 書籍

批評と臨床批評と臨床 (Amazon.co.jp)

前回の続き。『批評と臨床』に収録されているドゥルーズの「バートルビー、または決まり文句」を読んでみます。ドゥルーズのバートルビー論は、アガンベンほど小説そのものを無視しているわけではないんだけど、「バートルビー」自体の重要性は相対的に低い。むしろメルヴィル論と呼ぶべきだと思うんだけど、そこはやっぱり今までのフランス思想家達のバートルビー論に連なりたかったのかなぁ、と邪推してます。

ドゥルーズは"I prefer not to." という表現の非文法的性格を指摘する。いや、これ自体は文法的に間違っているわけではないんだけれども、この to がどこへ向けられるともなく放置されたまま繰り返されることによって、言語の相互参照や言語行為を混乱させ、「言語活動全体を沈黙に向き合わせ、沈黙のなかへと転倒させる」決まり文句として機能することになる。この一つの決まり文句だけで一足跳びにアガンベンの示したあの宙吊り状態へと移行することになるんだけど、さらに僕が前回のエントリの最後で示したような言語によって明示される「存在するか存在しないか」という選択肢すら、この言語の全面破壊によって失なわれることになる。

ところで文学的言語によって言語に混乱をもたらすにあたって、バートルビーの「決まり文句」による全面破壊だけでなく、もう一つの方法があってそれはドゥルーズが「手法」と呼ぶもので、それは言語の中に様々な仕方で「一種の外国語を穿ち」、ゲリラ的に、不断に侵入することで、迂路を経ながら言語活動を沈黙へともたらす。それがメルヴィルの他の作品で見られるもので『白鯨』の鯨の言語、『ピエール』の呟きの言語、『ビリー・バッド』の吃りの言語である、と。

さて、この言語の破壊と同時に目指されているのは「特性」の破壊である(バートルビーの" I am not particular"の重要性)。『バートルビー』に登場するほとんど戯画化された特性的人物(午前午後で気性が入れ換わる二人の同僚)に対して、バートルビーは「決まり文句」により言語破壊と共に言語的に決定されような固着的な諸特徴を拭い去り、流動性を獲得し特性のない人間となる。しかしそれゆえに特性へと分化する前の差異の段階へと生成し、かえってそれは独創人と呼ばれるべき文学的人物になってしまう。これに対応して、「手法」によって言語と特性を不断に崩落させ生成しつづける別のタイプの独創人として『白鯨』のエイハブがいる。「意志の虚無」によって絶対的停止を志向するバートルビーと「虚無への意志」によって絶対速度を獲得しようとするエイハブ。映画的タームを使えば、キャメラの非焦点的視点によって対象へのアパシーを示す「パン」と対象から対象への急速な移動によって画面を光の縞模様へと変える「トラヴェリング」によって、可視性と言表性を超えた領野に到達すること。この二人の全く異なった独創人を共存させること、これこそメルヴィル、アメリカ文学の目指すことであり、同時にプラグマティズムが獲得しようとするパースペクティブ、群島的、パッチワーク的パースペクティブであり、そこでは互いに相入れないものが超越的な父性なしに共存し、独創性を保ったまま流動的になることが問われる・・・う~ん、話が拡がりすぎですね。

アガンベンとの相違は明らかで、アガンベンはバートルビー一人をもって、この相入れないものの共存を目指すのだけど、それによって絶対的に無力という印象が拭いがたかったりする。そこにドゥルーズはエイハブという相補的な人物を導入するわけで、何だか物事が動きだした感じがします。ところで、こちら(『〈帝国〉』から『ホモ・サケル』へ )で、バートルビーに対する、ドゥルーズの二人の弟子(と言ってもいいのかな?)アガンベンとネグリの見解の違いが述べられていて、そこではネグリがバートルビーの拒否に重要性を感じず、むしろ「既成権力が支配する政治圏から外に出ること」エクソダスを目指さなければならないと主張していることが示される。そう、ネグリはエイハブ側の人間ってことだよね。これはすごく元気が出そうな感じだ。でも、このエイハブ路線だけを取るというのは非常に危うくて、それはネグリの盟友ハートが『ドゥルーズの哲学』でドゥーズの思想発展をすっきりと「理論から実践へ」とまとめる時、「理論」において執拗に批判されていたヘーゲル的漸進が「実践」で無邪気に戻ってきてしまう感があって、そこらへんをジジェクが『身体なき器官』で(ドゥルーズに対する批判としては全く的はずれだけど)揶揄するのは、まあ当たってるな、とは思います。

そんなわけでアガンベンのバートルビー論を読んで立ちすくんでしまうのもやだし、ネグリ的にぐいぐい行くのもどうか、と思いながら、ドゥルーズの論は、二人の独創人の融合という姿、今は具体的には掴まえられないけど、いつかその有り様に達することができるんじゃないかなぁ、という希望と共に最も読後感は良いのだけど、自分的に、問題を先送ってるだけ、というそしりは、まあ免れまい。


今回とりあげた二人はどちらも『バートルビー』自体を熱心に読み込むというタイプではないのだけど、作品を細かく読み込むことでメルヴィルに近付こうとするなら、「バートルビー萌え協会長」(笑)である ishmael さんの「モウビィ・ディック日和」(バートルビーを読む 第1回第2回)が非常に参考になります。ドゥルーズの論を読む時にも大変助けられました。ということで現在『白鯨』を読書中です。


ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』

2005-09-01 07:21:22 | 書籍

バートルビー?偶然性についてバートルビー―偶然性について(amazon.co.jp)

いつも「しない方がいいのですが(I would prefer not to)」と答えるだけであらゆる労働を拒否し死んでいく一人の筆生についてのメルヴィルの小説『バートルビー』を巡るアガンベンの考察。本書について何がしかの感想を述べようとしても、何もはっきりとした何かを提示できるわけでもなく、いきおい「今は述べないほうがいいのですが」とずるずると感想を先延しにしそうだし、この本自体、読者をそのような場所へ追い込もうとしているのだから、とりあえずその宙ぶらりんな感じを書いておくことにとどめて、後はドゥルーズに助けを求めることにしてみます。

本書は一応『バートルビー』についての批評という形をとっているにしても、最初の1ページ目からその謎を「文学的な星座」ではなく「哲学的な星座」でしか解くことができないだろう、と述べてさっさと哲学議論へと移っていく。そこでまずもって持ちだされるのが、アリストテレスによる「潜勢力」というものの定義、「何らかのものとして存在したり何らかの事柄を為したりすることができるという潜勢力はすべて、つねに、存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力でもある。」という定義の重要性。というのも、この後者の潜勢力いわば「非の潜勢力」というものが存在しなければ、全ては時の経過に従って実現、現勢化するだけに過ぎず、そもそもの潜勢力の必要性がなくなってしまうから。潜勢力の意義を保存するためには、それが現勢化するにあたって「非の潜勢力という状態にあるものが何もなくなる」という事態なければならない。となると、このようにある可能性を破棄して他の可能性を現実化するような力をどこに求めるべきかということになる。

この時、僕たちの常識に最も近しいものとして挙げられるのが「意志」ということになるんだけど、この意志という独立した第三項がくせもので、たちまち大問題が発生してしまう。というのも意志とは他の可能性を絶対的に廃絶することによってのみその力を行使し、かつそれが独立的なものである以上、絶対的に無根拠であり、そうであれば意志はその暴挙を行使しすることによって瞬間瞬間に奇跡的な偶発事として出来事を生産することが可能であり、よって潜勢力はあってもなくてもどうでもいいものとして、またも存在意義を失なうことになるわけ。こうした意志の無根拠さに対して理由ないし条件的必然性を導入しようとするのがライプニッツなのだけど、それによって、神の聰明な計算によってより多くの存在が共に可能であるような世界が選択されるという最善観へと導かれるのだけど、その時にその選択にあぶれた他の可能世界はその存在する力を認めらることなく放棄され、事実上全き必然性へと移行し、はたまた非の潜勢力は無力のままに終わってしまう。

というわけで、潜勢力という力を認めるためには、そもそもその力を現勢力へ向かうものとして考えることに問題があって、そうではなく為すことも為さないことも共にできるという宙吊り状態を維持する力こそが潜勢力であると考えなければだめで、その力を体験するための定式こそ、あのバートルビーによる「しないほうがいいのですが」である・・・というのがアガンベンの結論。多分にまとめすぎな感もあるけど、まあこんなところで。さて、確かに物事をどんどん現実化してすっきりするとか、考えを文章にしてすっきりするとかっていう気持ち良さも分かりつつ、ぐずぐずと悩んで呆けている気持ち良さっていうのも大切にしたいよね、って感じでのろのろと生きている僕としてはこの議論に多いに賛同するのだけれども、ここで問われてるのはそんなに甘っちょろい話ではなくて、あらゆるものを現勢化せずに神の創造をすら遡って潜勢力の「全的回復」を目指すという極限状態なわけで、じゃあどうするのかってことになるとほんとに途方に暮れてしまう。それとつけ加えたいのは、「存在すると同程度に存在しないことの権利」として表現される潜勢力に真に留まりうることが出来た時、実はこの表現自体成立しないのではないか、って思う。というのが、現勢的なものを考慮に入れない以上、「存在すること」と「存在しないこと」という二つの選択肢を保持することすら無理で、なにしろこれは「存在」そのものを問うことの手前にまで撤退することなのだから。

・・・というところでとりあえずこのエントリは留めます。次回は、このアガンベンのバートルビー論のイタリア語版では同時収録されている、ドゥルーズの「バートルビー、あるいは決まり文句」について考えてみることにします。ま、それでもすっきりすることはなくて、別の形で呆けることになるのだけど。


『オタクvsサブカル』を煽ってみる

2005-08-31 02:17:45 | 書籍

ユリイカ 2005年8月増刊号 総特集 オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史ユリイカ 2005年8月増刊号 総特集 オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史(amazon.co.jp)

一応、本書について書く上で僕のスタンスをそれなりに明らかにしておいた方が良いと思うので言っておくけど、自分はサブカル側の人間です。そちら側の人間としては、「サブカルとオタク」の対立なんか別にないような気がしていたので、この増刊号もそのタイトルからあまり読む気がなかったのだけど、先日放送された MOK Radio での本書を巡っての特集で、編集を担当した一人であるぱるぼらさんの「90年代のポップ・カルチャーを受容者の側から見てみたかった」という編集意図を話されていて、それなら興味が持てると感じたので読んでみました。たしかに、記事の大半はオタク対サブカルの対立を煽るようなものではなくて、その編集意図が良く理解できて楽しく読ませてもらいましたが、いくつかの記事に反応してしまって、逆にオタクとサブカルの違いを明確にしたい気にされました。

それというのが堀越英美さんによる「家政婦はオタクvsサブカル論争に旧制高校生の亡霊を見た!」という論考で、女性の立場からオタクとサブカルの対立を明確にしつつ、結局の所、同じ穴のむじなでしょ?というもので、オタクのホモソーシャル性、サブカルの少女獲得願望へと至る道を歴史的に位置付けるのだけど、ここでサブカルを特徴付けるのが80年代の中森明夫の言説である所に、そのような言説を意識しなかった90年代にサブカルを体験した僕としては若干引っかかる部分があるのと、もう一つ、この論考があくまで女性の側からのもので、男性の側から一言物申したい部分ある気がして、実はそれは最近のフェミニストの言説に対してシロウトながら男性として意見を述べたかった、というのと繋っていたりする。

最初に結論めいた仮説を述べておくと、男性をモテ系とオタクとサブカルに分かつのは、とりもなおさずファルス=男根主義に対する態度の相違として現われるんじゃないか、ということ。モテ系が女性と繋がろうとする時、この男根主義を前面に出して、つまり欲望の中心に「女とヤりたい」がまずあってそこからその手段としてコミュニケーション能力を磨き流行のものを消費する。そしてオタクはこの趣味を手段化することに嫌悪しモテ系と対立する。しかし、オタクにとって男根主義は直接リアルの女性に向かわないまでも、2次元美少女やアイドルへの「萌え」として保存される。そしてサブカルはこの男根主義そのものに対して嫌悪し、趣味がそれに規定されること拒否し、それから遠いものを趣味として選択し、結果として女性と「 女友達」として繋がることになる。・・・というのが僕の仮説。

というのも、対談での加野瀬さんの「男オタクの女性フォルダには彼女・家族・他人しかないんですよ」という発言は、オタクの特質を極立たせるというよりも一般男性に近づけるものな気がして、実際「男女の友情は成立するか」という問いは普通に繰り返されるものだけど、しばしばモテ系男性はこれにノーと答えがちじゃないですかね。そしてこれにイエスと答えてしまうのが、むしろモテ系からもオタクからも排除されるサブカル気質の人間という気がします。

サブカルの男根主義への嫌悪は、少女礼賛へと確かに通ずることは認めます。ファルス中心主義の否定からヴァギナの称揚としてのイリガライ的フェミニズムへ。それに対して堀越さんは次のように批判します。「『男はどうして、女の持っているものを男のものとして位置づけようとしないのだろうか』とは、少女幻想にとらわれた知識人に対する橋本治の痛烈な皮肉である。」しかし、これこそ僕が女性の発想だなと思ってしまう点で、というのもサブカル男性(少なくとも僕にとって)は、少女礼賛へ向かわせるのは少女が持っているもの(ヴァギナ)への憧憬というよりも、むしろ少女が持たずに済んでいること(ファルス)への憧憬であるからです。サブカル趣味の中核をしめるのが音楽であるのは、それがなによりも「中性」的であるからだし、アングラ文化が性を対象にする時しばしば笑いものにするという形を取ること、日活ロマンポルノを性とは関係ないものとして消費すること、それは全てアンチ・ファルスの発露の形だと思います。

それゆえ、「男性が「カワイイ」という感性を素直に発露することを抑圧してきた」というのが歴史的なものに起因するという堀越さんの論には疑問を感じます。抑圧はむしろほとんど男性の「ファルス」を持つという本質からきていて、つまりは自分が「カワイイ」と主張する時そこにいつも原罪のように「ファルス」がついてまわり、その原罪なしに「カワイイ」と主張できる女性と同じ視点へと到達するために様々な迂回を経るのがサブカルだと思うのです。(ちなみに、この点が僕が現在のバトラー型のフェミニズム、あらゆる性差の本質論を回避し、ジェンダーどころかセクシャリティをも歴史的産物にしてしまうフェミニズムに行き過ぎを感じる所です。)ついでに「萌え」という言葉でオタクが素直に「カワイイ」を主張できるようになった、という彼女の主張にも全く賛同できず、あれは完全にオタクが自らの性的衝動に居直った、としか思えなかったりします。

さらに堀越さんが戦前には男性にも(純粋な)「少女性」があったことを示す時に、谷崎や江戸川乱歩を持ち出すのもおかしい。なぜなら、あのようなサド/マゾヒズム、少年愛への嗜好こそ、ファルス支配への抵抗戦略以外のなにものでもなく、それは性的なものを男根的満足に留まらずに加速し、過剰にすることであり、むしろ純粋な少女性では説明できない事例の最たるものだと思うからです。

加野瀬さんが「なんで男は連れだって風俗に行くのか?」で考察しているように、体育会系、オタク共にホモ・ソーシャルな関係にあることを指摘しているけど、僕がつきあってきたサブカル仲間同士ではちょっとありえないことです。というか性的な話題を男同士で共有すること嫌う。昔、サブカル趣味の友人の一人がめでたくサブカル趣味の女の子とつきあうことになったのだけど、その時他の友人から「もうヤったの?」と聞かれた時、烈火のごとく怒ったという話を聞いて、彼らしいなと思ったことがある。あと、自分語りになっちゃうけど、僕が以前またサブカル趣味を通してつきあうようになった彼女とエッチに至るまでほんとに苦労しました。だって、一度排除したあの男根主義を再導入しないと事に至れないんだもん。まあ、結局のところオタクがサブカルに対して女性と共存してることをもって嫌悪感を持つのは、ほんと的はずれ。っていうか、オタクがファルス支配に従属している限り、モテ系のやっていることとサブカルのやっていることの区別がつかないんだろうな。もうね、モテ系もオタクもサブカルからすれば、同じ敵!敵!敵!!!・・・いや、嘘、嘘。ほんとごめんなさい。


「鏖」についての補足

2005-08-21 23:31:29 | 書籍

『無情の世界』についてのエントリーの最後の段落はちょっと言葉が足らなかったので補足してみようと思います。

問題は「鏖」の結末に出てくるオタク青年による人類的危機の物語上の役割は何か、ということ。「鏖」はペラペラな人間の歯車が次々に連鎖していった結果、主人公オオタが撲殺された時点で語り部を失ない通常そこで話が完結するはずなのに、なぜこのオタク青年の話がその後で追加されるんだろうか。

小さな歯車がそこかしこで噛み合っていって、ある取り返しのつかない事態へと波及するという物語は、ストリーテラーであれば誰でも試みたいと思う種のものだ。現にこの「鏖」がオオタの死によって完結すれば規模の小さい形でそれが成立するし、オタク青年の挿話にスムーズにつなげることが(もちろんそれを可能にするためにはこの小説の長さでは全く不可能ではあるが)できさえすれば、壮大な機械仕掛けを現出するに至っただろう。

しかしこのように一つの機械仕掛けを完結させることは、作者が『ABC戦争』で周到に避けていた自意識の現出をもまた意味するのではないか。ハワード・ホークス的な《機械整備員》であることを自らに任ずる作者にとって、作者もまたその機械の内部に留まるものである。しかし機械仕掛けの完成は必然的に一介の整備員をその機械の外部へと連れ出し、神のごとき機械設計者へと変貌させることになるだろう。その時、機械が人類的規模のものであれば、肥大した自意識と世界が等価となる、あのセカイ系文学へと一直線だ。

それゆえ機械を完成させないことは一つの倫理であり、それは蓮實重彦が正にホークスの『赤ちゃん教育』について評していたように(『映像の詩学』)、そこでホークスが徹底した歯車の連鎖の末に獲得された均衡を最後に崩落させていたことに阿部氏は極めて忠実である。であるならば、オタク青年の挿話は『赤ちゃん教育』における原始怪獣の標本の崩落と同じように、いわば機械の完成をローカルなものとして相対化するような象徴的装置と考えるべきだろうか。確かにこの挿話によって一つの完成した機械仕掛けと小説のスケールは一致することはなくなる。だがそれでもなお自意識の罠からは逃れ得てはいないのではないか。

ここで手掛りになるのは、石川忠司の『現代小説のレッスン』に対する、「感情レビュー」のsz9さんによる批評「『現代小説のレッスン』は、現代小説のレッスンたりうるか?」での、阿部和重に関するくだりである。それによれば石川氏は『シンセミア』(まだ僕は未読なのだけど)に関して阿部和重が一介の人間の語り得る範囲としての「藩」的な領域設定に自覚的であるとして評価している。これを今の「鏖」の問題に照らしあわせば、オタク青年の挿話によって、本題の機械仕掛けを作者が操作しうるローカルな範囲に留めた上でさらにそのローカル性を自覚化していると評することが可能だろう。しかし、ここでsz9さんは以下のようにこの石川氏の『シンセミア』評に疑問を呈する。

しかしこの作品の、因果を一斉に解錠する大団円を見れば明らかな通り、むしろここでの真骨頂は、物語の因果に奉仕する暴力ではなく、因果のひとつひとつに潜む暴力であり、ひっきょう因果(が設定されること)の暴力にこそ関わるものではなかったか(だから『シンセミア』はそれ以前の、毎度挫折を余儀なくされる暴力をテーマにした作品群を正しく継承するものではないか)。

つまり、ここで言われる「因果(が設定されること)の暴力」とは、機械仕掛けを世界へと肥大させようとするか、あるいは生身の人間に制御される範囲に謙虚に留めようとするか、というスケールの大小如何に関らず、そもそも諸出来事を一連の因果系列へと収斂させようとする機械仕掛け完成の暴力なのではないか。そして僕もまた、「鏖」のオタク青年の挿話を単に機械仕掛けをローカリティへと相対化する装置として解釈するのではなく、機械仕掛けそのものを破壊するものであるとして解釈したいのである。

つまり歯車の連鎖を一つの小説で機械仕掛けとして完成させる形態をA→B→C→D→E→Fとして表示するなら、「鏖」は、さしあたりA→B→C→D→E : A→Fという形をとるように見える。AからEへの因果系列が、それとは別のA→Fという短絡的な連鎖によって相対化される。しかし、実際のところここで試みられているのは、そもそもA→Fという短絡的連鎖が可能であるという事実によって、A→B→C→D→Eとして我々の目に映っていた機械仕掛けを、A→B : B→C : C→D : D→Eへと容易に解体されるのを示すことではないか。言い換えるならば、阿部氏の自制は機械仕掛けを縮小させるよりももっと微少なローカリティ、一つ一つの歯車の噛み合いにまで極限させることなのだ。

しかしこの極限化は決して機械の機能不全をもたらすことを意味しない。あくまでここで取られている視点とは《機械整備員》のそれであり、その全体を知らぬまま機械に内在し歯車を調整する視点なのである。『ABC戦争』の言葉を借りるなら、それは「跳びはねてファック、跳びはねてファック」ということなのである。


阿部和重『無情の世界』

2005-08-19 23:52:27 | 書籍

無情の世界無情の世界 (Amazon.co.jp)

思えばブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』で描かれた世界って全然甘かったかもなぁ。あの主人公の狂気なんて、自分の妄想の中でひたすら勝手に回転し続ける歯車みたいなもんで、その回転はマネーゲームとブランド信仰と流行りの音楽とアダルトビデオといくらかの猟奇趣味の中にすっぽりと回収されてて、遠くから見ているぶんには害はない。まあ、彼のテリトリーに侵入してしまえば、そのささくれた歯によって肉塊にされてしまうのだけど。彼がディスコミュニケーションの出口なしの中に隔離されてて、ある意味平和だった。

時と場所が変って、こちら世紀末のジャパニーズ・サイコの皆さんは、そのペラペラの内面のまま、至る所で歯車が噛みあってしまいます。頭からっぽの家族はストーカーの家庭教師と、いじめられっ子の妄想は快楽殺人者と、ドキュソ君は家庭内盗撮サラリーマンと、実にスムーズにコミュニケーション。「そんな奴、半殺しにしちまえよ」「はい、半殺しにしてきます」いやぁ、分かり合えるのっていいよね~。

内面を失なった70年代以降、もはや文学は成立しないだろう、という柄谷行人の発言に対する、阿部和重の真正面からの回答がこの作品集だと思う。どこかにリアルなものを担保にしなくとも言語的〈アクション〉を起こせば文学は可能であることを既に『ABC戦争』で示した作者にとって、リアルなものなしの現代を描くのは造作もないことなんだろうなぁ。いくら内面ペラペラの歯車であろうともふいに噛み合いさえすれば、これまでの文学には全く思いもよらなかった、しかし文学的である出来事がそこかしこで発生する。こうなるともう逃げ場なし。いつ自分の歯車が誰かの歯車と噛みあって、被害者あるいは加害者になるかわかったもんじゃない。これは岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で描いた「平坦な戦場」ですらない。ここで起る惨劇は「実はゆっくりと徐々に用意されている」わけではないから。ただの戦場。「鏖(みなごろし)」。

「鏖」は、そうした歯車の連鎖の挙句、『正義のヒーロー ピカプー』をノートパソコンで楽しむオタク青年による人類にとっての深刻な危機ともなる事件の発生を示唆して終わる。でも、この事態への進展に対する処理の仕方に作者の誠実さを感じるな。それは、決して歯車の連続的連鎖によって引き起こされるわけではなく、つまりはどこかに運命的な巨大機械仕掛けを設定したりすることはなく、あくまでちょっとした飛び火のようにして起る。このことは救いであるどころか、より状況を絶望的なものとするのだけど。


阿部和重『ABC戦争』

2005-08-12 07:15:22 | 書籍

ABC戦争―plus 2 storiesABC戦争―plus 2 stories (Amazon.co.jp)

それにしても、たかだか彼が後藤真希好きであることを公表したからといって今さら評価し直すなんて、どうなんでしょうね。僕の生活はもはやハロプロ中心に巡ってるのか。ま、かといってその話題になったところの『グランド・フィナーレ』ではなくて、遡ること9年前のこの『ABC戦争』を手に取るところに、この流れに無意識の内にささやかでも抵抗しようとしているのか、それともゴッチン萌えである阿部和重に万全の体制で邂逅したいと思っているのか自分でもよく分からないのですが。

この本は『インディヴィジュアル・プロジェクション』の頃、いわば阿部和重第一次ブームの頃に既に読んだことがあるのだけど、その頃はやはりこの前半の難解さぶりにはついていけませんでした。黒く塗りつぶされたテキストからなんとか判読箇所を探しながら進む感じ。それが今回再読してみると、もう作者の一挙一投が分かりや過ぎるくらい分かる。その書かれたことの全てが僕に思考にべったりと貼りついてくる感じは、嬉しいというより、この何年か身につけてきた知識は結局のところ、この小説を読むためだったの?という暗澹たる気持ちに近かったりするのがなんとも。

『ABC戦争』は、冒頭と終結部にこの小説の主旨が高らかに宣言され、その間をその主旨に厳密に従って進行していくという、非常に「戦略」的な小説なんだけど、その主旨がいきなり骨の髄まで染みいるわけではない末端の兵士であるところの読者にとって、ABC「戦争」は、さしあたり次々と相手が変るゲリラ戦の様相を呈する。高校生同志の戦争という次元は置いておくとして、それは最初の段階では作者が現代思想(を無視することが出来ない病にとらわれた頭)とシネフィル的なもの(を無視することが出来ない病にとらわれた頭)とを駆使して、すみやかな進行を願う大文字の物語をずたずたに切断し、それによってリアルに近づこうとするのだけど、そもそも言語によってリアルなものを獲得できないんじゃないか、という不安と共に、戦争は言語VSリアルの第二の段階へ移行する。そして、最終的に文学に可能なのは言語VS言語、「言語的〈アクション〉」を起こすことなのだと悟る第三の段階に至る、と。──これは先に述べた通り、あくまで末端兵士である僕の目から見たらそうであるだけで、作者は最初から最後の段階を死守することに徹しているのだけど。

読者が以上を悟った頃から、物語は実にスムーズに流れだします。これが果たして「言語的〈アクション〉」がうまく作動し始めたということなのか、あるいはあの大文字の物語への退行なのか、という非決定性が支配するのがこの小説の終盤で実にスリリング。更にこの物語のスムーズさを担っているのが、物語の語り手ではなくて、語り手が興味を持ったところの〈手記〉の作者であるとなると、いよいよ策謀の匂いがたちこめてきますね。で、ついにこの〈手記〉の作者が語り手に向って、あたかもカフカの「判決」に出てくる父親のような身振りで、──語り手、お前はだれなんだ?──と問うところで、戦争は最終局面に突入。はたして「言語的〈アクション〉」は「私語り」という文学的ぬるま湯に屈するのか、語り手の次の〈アクション〉に手に汗握る瞬間です。

そんな罠にはひっかからないよ、それはきみがいうように糞だよ、糞なんだ、だから自分の過去は否定しないよ、むしろ積極的に肯定したいくらいだ、だけどその評価を自分でくだしてみても意味がないね、糞はうまい具合に下水を流れなければならない、あらゆる過去はあらゆる現在と断絶しているけど、それは歴史が幾通りもあるということだよ、繋げ方によって流れはかわるわけだから、現在の地点からうまい具合に──かならずしも自分に都合のいいようにというわけではないけど──すべてが流れるように過去をみるしかないよ……

さて、読者はこの〈アクション〉をどう評価するんでしょうね。まあ、実際に読んでみて評価を下してみることをお勧めします。最初と最後に言いたいことを言って、あとはそれに厳密に従うなんて形式がおもしろく読めるのは「小説」という形態でしかありえないのだから。


佐々木敦『ソフト アンド ハード』

2005-08-03 21:44:26 | 書籍

SOFT&HARDSOFT&HARD(Amazon.co.jp)

「佐々木敦」という名前を認知したのは、ここ2、3年のことで、それは Fader 誌の編集長、音響派~エレクトロニカの紹介者として彼であって、そこでは変な思い入れを混じえることなく伝えるべき情報をきちんと伝えるストイックな批評家というイメージを持っていたのだけど、だから QuickJapan 誌での一連の連載の「熱さ」はその反動として、言い方は悪いけど、一種の気分転換としてやってるのかな、と最初は思ってた。

この「ソフト アンド ハード」は、彼が1995年から2005年に渡ってのそうした「熱い」批評の集成で、僕の興味は、まだ名前を認知していなかった前世紀の批評ってどんなものだったんだろう? というとこにあったのだけど、驚くべきことに、そこには僕がすでに読んだことのあるものが多数存在していた。っていうのも、1995年といえば、僕は、あのJ文学という奴にそれなりに執心していて、だからその「J文学」という言葉の発明者である佐々木氏の影響下に知らぬ間に、どっぷりと浸っていたのだ。

この連続性に僕が長いこと気付かなかったのは、2000年辺りを境にJ文学への興味が無くなるとともに、文学そのものと文芸批評にもあまり興味がなくなってたという事情からで、それが最近になって音楽を介して別の入口からまた彼と出逢ってしまったというのは、すごく感慨深かった。

でも、そうした再会の仕方というのは、実は彼の批評スタンスを鑑みれば必然なのかもしれないなあ、と思う。というのも、彼自身が何かへの興味を失ったり、熱中したりすることを恐れず、ある分野への批評を(本当はもう自分にとって切実はないことに気付いているのに、そのことを無視して)継続することで、自らの連続性を維持しようとする批評家ではないと思うから。彼は確かにここで八面六臂の活躍をしているのだけど、決して「佐々木敦」という完成した人間が、この世界のあらゆる領域のものに、審判を下しながら手際よく処理していってるのではなくて、彼自身の興味のヘゲモニー争いと世界を賑わす話題のヘゲモニー争いとに(ということは、つまりそもそも彼と世界との区別がないところでのヘゲモニー争いということなのだけど)、感覚的かつ積極的に巻き込まれながら批評活動をしていて、だから、何の戦略的意図もなく自然と映画評論という場からは撤退していったり、911以降の世界の問題にほとんどアクティヴィストのそれとして熱狂的にコミットして行くんだなと、この集成を読んでるとすごくよく分かる。

そして、この批評集成で一貫していることは、まさにそうした「世界と私を区別しないところで起るヘゲモニー争いに対して無感覚でいることの拒否」ということだと思うんだよね。それが単に内容面にとどまらず、佐々木氏の批評活動、編集活動、イベント活動、つまりは生き方そのものに色濃く反映していて、それがめちゃめちゃスリリングだと思う。この誠実さは、本当に理想的だし、多少の「熱さ」ゆえの青臭さも僕は全面的に支持したい。