araig:net

音楽、映画、その他表現物に対する日々の覚え書き

ジル・ドゥルーズ「バートルビー、または決まり文句」

2005-09-02 07:47:10 | 書籍

批評と臨床批評と臨床 (Amazon.co.jp)

前回の続き。『批評と臨床』に収録されているドゥルーズの「バートルビー、または決まり文句」を読んでみます。ドゥルーズのバートルビー論は、アガンベンほど小説そのものを無視しているわけではないんだけど、「バートルビー」自体の重要性は相対的に低い。むしろメルヴィル論と呼ぶべきだと思うんだけど、そこはやっぱり今までのフランス思想家達のバートルビー論に連なりたかったのかなぁ、と邪推してます。

ドゥルーズは"I prefer not to." という表現の非文法的性格を指摘する。いや、これ自体は文法的に間違っているわけではないんだけれども、この to がどこへ向けられるともなく放置されたまま繰り返されることによって、言語の相互参照や言語行為を混乱させ、「言語活動全体を沈黙に向き合わせ、沈黙のなかへと転倒させる」決まり文句として機能することになる。この一つの決まり文句だけで一足跳びにアガンベンの示したあの宙吊り状態へと移行することになるんだけど、さらに僕が前回のエントリの最後で示したような言語によって明示される「存在するか存在しないか」という選択肢すら、この言語の全面破壊によって失なわれることになる。

ところで文学的言語によって言語に混乱をもたらすにあたって、バートルビーの「決まり文句」による全面破壊だけでなく、もう一つの方法があってそれはドゥルーズが「手法」と呼ぶもので、それは言語の中に様々な仕方で「一種の外国語を穿ち」、ゲリラ的に、不断に侵入することで、迂路を経ながら言語活動を沈黙へともたらす。それがメルヴィルの他の作品で見られるもので『白鯨』の鯨の言語、『ピエール』の呟きの言語、『ビリー・バッド』の吃りの言語である、と。

さて、この言語の破壊と同時に目指されているのは「特性」の破壊である(バートルビーの" I am not particular"の重要性)。『バートルビー』に登場するほとんど戯画化された特性的人物(午前午後で気性が入れ換わる二人の同僚)に対して、バートルビーは「決まり文句」により言語破壊と共に言語的に決定されような固着的な諸特徴を拭い去り、流動性を獲得し特性のない人間となる。しかしそれゆえに特性へと分化する前の差異の段階へと生成し、かえってそれは独創人と呼ばれるべき文学的人物になってしまう。これに対応して、「手法」によって言語と特性を不断に崩落させ生成しつづける別のタイプの独創人として『白鯨』のエイハブがいる。「意志の虚無」によって絶対的停止を志向するバートルビーと「虚無への意志」によって絶対速度を獲得しようとするエイハブ。映画的タームを使えば、キャメラの非焦点的視点によって対象へのアパシーを示す「パン」と対象から対象への急速な移動によって画面を光の縞模様へと変える「トラヴェリング」によって、可視性と言表性を超えた領野に到達すること。この二人の全く異なった独創人を共存させること、これこそメルヴィル、アメリカ文学の目指すことであり、同時にプラグマティズムが獲得しようとするパースペクティブ、群島的、パッチワーク的パースペクティブであり、そこでは互いに相入れないものが超越的な父性なしに共存し、独創性を保ったまま流動的になることが問われる・・・う~ん、話が拡がりすぎですね。

アガンベンとの相違は明らかで、アガンベンはバートルビー一人をもって、この相入れないものの共存を目指すのだけど、それによって絶対的に無力という印象が拭いがたかったりする。そこにドゥルーズはエイハブという相補的な人物を導入するわけで、何だか物事が動きだした感じがします。ところで、こちら(『〈帝国〉』から『ホモ・サケル』へ )で、バートルビーに対する、ドゥルーズの二人の弟子(と言ってもいいのかな?)アガンベンとネグリの見解の違いが述べられていて、そこではネグリがバートルビーの拒否に重要性を感じず、むしろ「既成権力が支配する政治圏から外に出ること」エクソダスを目指さなければならないと主張していることが示される。そう、ネグリはエイハブ側の人間ってことだよね。これはすごく元気が出そうな感じだ。でも、このエイハブ路線だけを取るというのは非常に危うくて、それはネグリの盟友ハートが『ドゥルーズの哲学』でドゥーズの思想発展をすっきりと「理論から実践へ」とまとめる時、「理論」において執拗に批判されていたヘーゲル的漸進が「実践」で無邪気に戻ってきてしまう感があって、そこらへんをジジェクが『身体なき器官』で(ドゥルーズに対する批判としては全く的はずれだけど)揶揄するのは、まあ当たってるな、とは思います。

そんなわけでアガンベンのバートルビー論を読んで立ちすくんでしまうのもやだし、ネグリ的にぐいぐい行くのもどうか、と思いながら、ドゥルーズの論は、二人の独創人の融合という姿、今は具体的には掴まえられないけど、いつかその有り様に達することができるんじゃないかなぁ、という希望と共に最も読後感は良いのだけど、自分的に、問題を先送ってるだけ、というそしりは、まあ免れまい。


今回とりあげた二人はどちらも『バートルビー』自体を熱心に読み込むというタイプではないのだけど、作品を細かく読み込むことでメルヴィルに近付こうとするなら、「バートルビー萌え協会長」(笑)である ishmael さんの「モウビィ・ディック日和」(バートルビーを読む 第1回第2回)が非常に参考になります。ドゥルーズの論を読む時にも大変助けられました。ということで現在『白鯨』を読書中です。


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お初です。 (ishmael)
2005-09-03 00:45:16
 トラックバックいただいて、ありがとうございます。実は一週間ほど前からこちらのブログに寄せてもらってます。特にここ数日かかれていた阿部和重の話には感銘を受けてて、そして今日はメルヴィルの話でトラックバックを受けて、メルヴィルと阿部和重って、最近の僕のお気に入りのベストツーだよなあとか、変なところで喜んだりしておりました。

 なんだかよくわからないコメントですが、これからもよろしくお願いします。文学のことで、特にメルヴィルのことなんか書かれている人なんて殆どいないものだから、すごい嬉しいのです、バートルビー萌え協会長としては(笑
返信する
コメントありがとうございます。 (araignet)
2005-09-03 08:53:46
ishmaelさん、初めまして。僕の方は1ヶ月ほど前からishmaelさんのブログを拝見させてもらっています。

もともとこのブログは音楽と映画メインで書いていこうと思っていて、実際この最近までほとんど小説自体あまり読んでいなかったのです。ただひょんなことから読み直しはじめた阿部和重について何か書けるような気がして、その時に他のブロガーの方はどんなことを書いてるんだろう、とブログ検索して見つけたのが「モウビィ・ディック日和」でした。

僕は基本的に思想よりの人間で、どうも上空飛行的になってしまい、作品そのものになかなか切迫できない部分があったりするので、ishmaelさんの批評スタンスは非常に参考になります。

「バートルビー」に関しては完全にishmaelさんに感化されて読み始めました。メルヴィル自体、全くの無知なので今回は思想の側から書いてみましたが、今後は作品についても触れてみたいと思ってます。

それでは今後ともよろしくお願いします。
返信する