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音楽、映画、その他表現物に対する日々の覚え書き

のまネコ問題:灰色を白と言う暴力

2005-09-25 23:22:01 | その他

現在、ネット界を賑わせている「のまネコ」問題。僕は、本当に問題なのはavexがモナーの名前とデザインを少し変えただけで、商標登録出願し商売に利用しようとしている、という点にあるのではなくて、もっと以前の段階から、つまり、あのフラッシュをプロモーションに利用すると決定してしまったことにあるように感じます。

ネット上では、しばしば雑誌や写真集から無許可でスキャンされたアイドルのグラビア画像がアップロードされている。これは著作権法上では完全な「黒」であることは明らかで、当然事務所側はこれらのサイトに警告を発っしたり、場合によっては訴える権利を持っているわけです。それに対してサイト側の方では自発的に「写真集をまるごとアップロードしない」とか「一定期間が過ぎれば消す」などの処置をするわけだけど、だからといって許されないことには変わりはないですよね。さて、法的に黒ではあっても、それらのサイトを全面的に禁止することは不可能であり、訴えたり警告メールを送ることは局所的に行なうしかなく、それによってこれらのサイトが一種の「灰色」の領域に存続するのを現実的には許してしまっているのが現状。しかし、その一方で、そのように許されてしまっているのは、それらのサイトが上記のような自制をしている限り、経済的な打撃以上に、プロモーション効果を暗黙の内に予測しているがためかもしれない、と僕は思います。だからといって、事務所は明示的に許可を与えるのではなく、あくまで体面上では局所的な法執行をつらぬかねばならくて、なぜならそれによってこそ、権利上スーパーフラットであるはずのネット空間に出現した特殊なローカリティーとしての「灰色」の領域が存立しているからです。

著作権法上問題のある楽曲を利用してオリジナルのPVや空耳ネタを披露する通称「黒フラッシュ」。それは2chという暗黒大陸で流通し、これまたしばしば自主的にサーバから消されたりするわけですが、そのために決してこれらがグローバル化することなく、ローカルな盛り上がりとしてその存在が暗黙の内に許されている。そしてそこからまたプロモーション効果が期待されるかもしれない・・・そんなコンテンツホルダーとネットワーカーとのある種の調和というのは成立していた気がするんですね。そしてそのローカリティーを作り出しているのが局所的にしか作用しない著作権法である、と。

こうした「灰色」のローカルな空間があることは、「いきなり世界統一ランキングに放り込まれると努力するモチベーションを持ちにくくなる」ネットにおいて、非常に有利なことだと思う。自分で魅力的なキャラクターを作りだすことが出来ず、またおもしろい楽曲を提供してくれるような人脈がない、かけだしのアニメクリエーターにとって、キャラクターを2chAAから拝借し、(著作権フリーの楽曲はたいてい凡庸なものばかりだし、それを魅力的に提示するのは初心者にとってハードルが高くなるばかりなので)商業音楽をパクることによって、いつか商業レベルの作品を作れるようになるまで、技術を磨くのにうってつけの空間じゃないだろうか。その時、自分のいる場が「灰色」であると認識していることは、そこからいつか出ようというモチベーションとして機能すると思う。(もちろん「灰色」である場でしか出来ない表現や魅力もあるので、その場にいつづけること否定するわけではないけれども)。

こうして考えてみると、今回、avexが「灰色」の表現である黒フラッシュをそのままピックアップしてしまったということは、こうしたローカリティーに深刻な影響を与えてしまったんじゃないだろうか。明示的には黒フラッシュを許してはならない側にあったはずのavexがその一つを「白」としてしまったこと。

小倉弁護士はブログ上(「のまネコ騒動」についての違和感)で次のように書かれています。

そういう観点からすると、「恋のマイワヒ」について、おそらく原盤権者の許諾なしに作成されオンラインで公開されたであろうフラッシュ映像を、著作権法を活用して押しつぶすのではなく、むしろ積極的にプロモーション用に活用したAVEXの決断は一種の「英断」として比較的高く評価していたりします。

そうだろうか。これは、「灰色」の空間を破壊してしまうという「暴挙」だったんじゃないだろうか。ある一つの黒フラッシュを「白」としてしまうということの帰結は二通り考えられると思います。

1)それ以外のものが相対的に「黒」とされてしまう。

「恋のマイアヒ」の発売に伴なって、作者のわた氏のサイトから、オリジナルの空耳フラッシュは消されてしまいました。これはおそらく作者の自主的判断というより、avexの指示だったと思います。そして先頃転載されていたpya!からも消去されました。オリジナルは商業化されたことによって、「黒」にされてしまったわけです。また小倉氏は次のようにおっしゃっています。

どうせなら、これをきっかけに、「洋楽の空耳フラッシュはAVEX的にはOK!。だけど優秀作品はプロモで使わせてね」という方針をAVEXが採用してくれれば、AVEXが権利を買い取った楽曲に限られるにせよ、原盤権者の著作隣接権によって阻害されることなくフラッシュ作家が創作性を発揮できるようになるわけで、今回の件は、表現の自由と知的財産権の新たな調和点を見出す一つのエポックメイキングとなる素地があったはずです。

僕はavexは決してそこまで考えていたとはとても思えないけれども、もしこれが現実化したならば、avexが権利を買い取った楽曲以外を使用する黒フラッシュの「黒さ」が必然的に増すことになると思います。そして、黒フラッシュではしばしば、複数の異なる楽曲をミックスするようなものがあったりするんだけど、このようにある領域を「自由として」囲い込むことで、こうした楽曲越境の(あくまで灰色の)自由が疎外されてしまうんじゃないだろうか。

だから、今回のavexの行為をもって「英断」とするのは欺瞞かもしれません。本当にavexが著作権にとらわれない自由な創作の場というのを考えていたのなら、もっと徹底した段階に突き進む可能性を考慮に入れなければならないはずです。というわけで二つ目の帰結。

2)全てを「白」にしてしまう。

もちろんこれは全く現実的ではないし、僕にはそんな世界をほとんど想像すらできない。だから、その世界が到来した時に起こる問題を今指摘して批判するのはよくないことかもしれないけれども、少なくともその時、完全なスーパーフラットが到来し、「灰色」のローカリティーの特殊性は見出せなくなることは確かだと思います。そしてそれは本当に創作活動において幸せなことなんだろうか。またavexにとっても非常にリスキーなことなんじゃないだろうか。

今回、商標登録問題で当初は歓迎ムードだった(「灰色」だったのが、「白」と言われたのだから気分の悪いことではなかったのだろう)2ちゃんねらが、avexとの臨戦体制に入ったことはむしろ良かったんじゃないかと思う。コンテンツホルダー側とネット側とが、ギスギスとした関係にある中で成立する「灰色」の領域という別の調和の仕方だってあるのだ。

さて、今後のavexとの闘争の戦略として、著作権法を楯に取るのはどうも歩が悪いみたい。いっそ、今回のavexの「英断」を「暴挙」として思い知らせるために、avexに限って二つ目の帰結にまで追い込んでやるというのはどうでしょうか。つまり、avexの楽曲(彼等が明示的には何も言ってない以上、権利を買い取った洋楽に限る必要はない。浜崎だろうと大塚愛だろうとなんでも)を勝手に使用した黒フラッシュをオーバーグラウンドでばんばん公開してやるのです。そして文句を言われようものなら「なんで『マイアヒ』は認めたのにこっちは駄目なの?」と反論すればいい。彼等が今回やったことは、つまりはそういうことなのだ。


菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー』

2005-09-20 23:43:58 | 書籍

東京大学のアルバート・アイラー?東大ジャズ講義録・歴史編東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編 (Amazon.co.jp)

おもしろい。ウルトラ明晰・明解。軽い語り口でJazzの歴史と理論を一挙に理解させてくれます・・・ということは僕にとって「警戒しろ」ってことだけど。

「音楽を記号的に処理する」という欲望を「十二音平均律」「バークリー・メソッド」「MIDIの出現」という三つの特徴的な発露形態にまとめて、そうした記号化によるプレイヤー間のインタラクションの自由度の拡張、そしてそこからの創造性の促進と、その一方で起る記号化につきものの作品の等質化との相克として、特にバークリー・メソッド以降のJazzの変遷を描いていきます。これは僕の浅い音楽知識を振り返っても非常に納得できるし、それ以上にこの記号化に伴なう相克は音楽以外の領域でも至る所で起っている、とも言えて、めちゃくちゃ汎用性のある理論じゃないかと思うな。だからJazzにそれほど興味が無くても楽しめると思うし、いっそ音楽にすら興味なくても読め・・・いや、これはちょっと言い過ぎか。

それにしても、ここまで明晰だと「一般的なJazz史」を知らない僕は、この本に書かれたことこそ「一般的なJazz史」以外の何物でもなく、逆にこれ以外にどんな語り方があるのか、っていう風に思い込まされてしまう。例えば、マイルス・デイヴィスによる「モード」の発展によって、機能和声の抑圧から解放されアドリブの自由度が格段に上った、なんて説明を読むと自然「あぁ、クラブ・ミュージックの無調感はこの辺りから来てるのか」と自然に思ったりするんだけど、その内James Brown の “Sex Machine”についてのこんな発言にぶち当たってぎょっとなる。

これです。まず、コードが進行していません。このサウンドのことをモード・ジャズに絡めて分析しているのは多分僕たちが初めてだと思いますが、違ってたら教えてください。(p.192)

えぇ~っ、そこに絡めない他の「一般的な歴史」って何なのよ?僕はどっかで思いっきり騙されちゃってるの???っと、ものすごく不安になってしまうわけです。

一応、これ教材として買っちゃいました。すごく勉強熱心?

Kind of BlueKind of Blue (Amzon.co.jp)

っていうか、これくらいとっくに聞いとけよって話ですが。Jazz を聞くにあたって、マイルスを押さえる、っていうのは何か、Jazz というジャンルを真剣に聞きます!って宣言するみたいで、いやじゃないですか。もうちょっと離れたところから適当に戯れていたかったので、敬遠してたんです。

んで、菊地氏の DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN も買う。

MUSICAL FROM CHAOS2MUSICAL FROM CHAOS2 (Amazon.co.jp)

あ、普通にかっこいいわ。


ドストエフスキー『地下室の手記』

2005-09-15 22:56:09 | 書籍

地下室の手記 (Amazon.co.jp)

極度の自意識過剰のために他人とのコミュニケーションに苦しむ小官吏は、地下に閉じ込もり、そこで一つの思想を形作る。外部世界の人間たちは自然法則の客観性を信奉し、それに従って理性的に自己の利益に忠実であれば、幸福な社会が実現可能であると考えている。しかし、もしこのような科学合理主義が極限まで追求され、私たちの利益が全て計量可能となった時、私たちは自由意志を持つ余地が残されないのではないか。彼はその余地を残すために「苦痛は快楽である」というテーゼを確立する。それは自己の利益に反する意志の表明であるからだ。人間は未だ十分に理性的ではないから非合理な行動に走るわけではなく、その本性において非合理なのである・・・というこの作品の要約は単純すぎるだけでなく、実は本質から遠く離れている。彼の苦しみがコミュニケーション能力の不足に過ぎないのであれば、同じ悩みを持つ若い読者の共感を得はしようが、そうでないものにとっては蚊帳の外だろうし、開陳される思想もまた一分の理はあろうとも所詮現実との接触を欠いたひとりよがりのルサンチマンに過ぎず、この人物の苦しみが《ぼくらすべて》などと言われるのは笑止千万となってしまうだろう。

ちょっと読めば分かることだけど、この「引き込もりから思想へ」という順序は実は間違っている。彼が後半で回想する15年前の事件の時には既に前述の理論は完成しており、その理論を実行に移しているだけである。そしてこの小説がおもしろいのは、回想の現在性によって筆者が危機にさらされ、それによって前半の理論そのものが結末で破綻してしまうという構造を持っていることにある。とはいえ、筆者は前半部を書いている時点で、事件自体は通過しており、この後で回想することを漠然と意識しているはずなのだから、理論部にその破綻へ導く要素が異物のようにかすかに混入しているかもしれない。

ところで、そもそもこの小官吏は何故このようなコミュニケーション不全に陥ったのか。その理由は冒頭に明記されている。「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。」肝臓?しかし具体的にその肝臓疾患がどう影響しているかはついぞ書かれず、話しはすぐに後の合理性批判に繋がるであろう医者への批判に変ってしまう。身体に関わる別の苦痛がこの後で「歯痛」という形で出てくる。彼はこの歯痛という事柄が自分の預かり知らぬ所から課される自然法則、そしてその苦痛を快楽へ転化することの最適な例として挙げている。しかし、ここには二重の齟齬が存在している。第一に彼がこの前後で受け入れを拒否する自然法則とは「二二が四」のような科学的、理論的なものであり、それが彼を苛立たせるのは前述したように「自由意志」否定に帰結するがためである。つまりこれは抽象的、思想的苦痛なのだ。ところが歯痛は身体に直接及ぼされる具体的、現実的な苦痛である。第二に苦痛から快楽に転化するにあたって、それを直接に歯痛から導くわけではない。そうではなくて歯痛からもたらされる無為なうめき声、それによって他者からの侮蔑を言わば意図的に引き出し、その侮蔑による苦しみを官能のよろこびとすると主張している。つまり、極端なことを言えば、当の歯痛そのものはこの理論においてたいした機能を果たしていないのだ。これら理論部に見られる二つの身体的苦痛の意味とはなんなのだろう。

回想部は筆者のコミュニケーション不全を示すものでは実はない。ここで彼は「他者から意図的に侮蔑を引き出し、その苦しみを快楽とする」という非合理的行動を正確に実行しているだけである。彼はそれにほぼ完璧に近く成功しており、その意味ではコミュニケーション不全であるどころか天才的なまでに他人の行為を読み、操作する能力を持っていると言ってもいいかもしれない。彼の計画を撹乱するのは他人ではなく、むしろ彼自身の思考なのだ。回想部の第5節において、小官吏は友人との決闘を決意し馬車に飛び乗る。しかしそのヒロイックな妄想に酔っているまさにその時に間欠泉のように羞恥心が襲ってくるのだ。彼は自分を舊いたたせるかのように馭者を殴りとばす。しかしこの時その怒りが向けられているのは、人付き合いの達者な友人たちや合理性ではない。そうではなくて、制御がままならない自らの思考の外部性なのである。その外部性は計画的に実行できる非合理的行動を超えてしまっていて、どこか歯痛の外部性に似ている。

合理性に対する非合理的行動が実はかりそめの外部性に過ぎないことを暴き、彼の理論を根本的に不能にしてしまうのは、思考の内的外部性のほかに、全き他者という外的外部性に出会うことで決定的となる。どこまでも制御可能な友人たちは他者ではないし、売春婦リーザもまたある程度まで他者ではない。彼女に対して凌辱行為に及んだとしても、その時の彼女の反応は、まだ彼にとってどこか予見可能なのである。しかし、その後のちょっとした彼女の行動によって、彼女は彼の制御能力を超えてしまうのである。

どうだろう?彼女がこうすることを予期できたろうか?予期できたろうか?いな。(p.201)

ピエール・クロソウスキーは『ニーチェと悪循環』において、ニーチェをほとんど文学的人物へと変貌させているが、そこで後の永遠回帰の思想に繋がる思考の圧倒的外部性の理論を彼を日常的に苦しめていた身体的苦痛から引き出したことを鮮やかに示している。

このような「生理学的」検討を経たあとでは、人間の行動には、もはや依拠すべきいかなる審級も残っていない、かろうじて残っているのは、一方では制度的な言語の外在性とそれが個人に対してひきおこす諸々の帰結であり、他方ではコントロール不可能な内在性、その思いがけない展開には制度的言語に含まれる限界以外の限界がないような、そうした内在性だけであるといえるだろう。(pp.112-3)

ニーチェとこの小官吏を結びつけるのは、理論部に見られる合理主義批判の部分にではなく、この深層においてでなくてはならない。結末に現われる恐らく非常に誤解を孕む《生きた生活》の意味するのは、この「コントロール不可能な内在性」という深淵である。その淵に立ち得たという意味において、彼は地下室にこもっているにも関わらず「ぼくのほうが諸君よりもずっと《生き生き》していることになるかもしれない。」と言えるのだ。

それに続く以下の部分は完全にクロソウスキーの主張と一致している。

ぼくらから書物を取り上げて、裸にしてみるがいい、ぼくらはすぐさままごついて、途方にくれてしまうだろう。どこにつけばよいか、何を指針としたらよいかも、何を愛し、何を憎むべきかも、何を尊敬し、何を軽蔑すべきかも、まるでわからなくなってしまうのじゃないだろうか?ぼくらは、人間であることをさえわずらわしく思っている。ほんものの、自分固有の肉体と血をもった人間であることをさえだ。それを恥ずかしく思い、それを恥辱だと考えて、何やらこれまで存在したことのない人間一般とやらになり変わろうとねらっている始末だ。ぼくらは死産児だ、しかも、もうとうの昔から、生きた父親から生れることをやめてしまい、それがいよいよ気に入ってきている始末だ。(p.205)

合理主義は書物風である。円滑なコミュニケーションも書物風である。しかし、それに反逆する非合理的行動もまた書物風に過ぎないのだ。こうして彼の理論は破綻し、もはや手記を書き続けることはできない。そしてその破綻をもたらしたのは、回想的反復というまたも思考の暴力そのものなのである。それでも・・・

とはいえ、この逆説家の『手記』は、まだここで終っているわけではない。彼は我慢できずに、さらに先を書きつづけた。(pp.205-6)

ニーチェと悪循環ニーチェと悪循環 (Amazon.co.jp)




非モテをサブカルに誘ってみる

2005-09-11 02:27:41 | その他

このエントリで、ちょびっと「なんで非モテの人達は内面を守ろうとしたり、自分を曲げなきゃモテないんならモテなくてもいいとか言うのかなぁ~」みたいなことを書いたのだけど、やはり熱にうかされた頭で思いついたことなんで、もうちょっと広げて考えてみた。

『オタクvsサブカル』を煽ってみる」で僕が出した仮説は、モテとオタクがファルス・・・ああ、もういいや簡単な言葉で言おう、チンコにそれぞれの仕方で捕らわれていて、サブカルはチンコから距離を置こうとするっていうもので、つまりは、一般に

モテ-サブカル | オタク

と思われてるのが、実は

モテ-オタク | サブカル

なんじゃないの?っていうこと。で、オタクの人っていうか非モテの人(って同一化するのはたぶんまずいんだろうけど、ここでは『電波男』的なラインで考えているのでそこは目をつぶってもらって)は、この壁の向こうは見えてないんじゃないかなぁ、と思う。というのがその『電波男』のシステム分類をあてはめるとこうなるじゃん。

あかほりシステム-ほんだシステム | システムの外

で、この論理でいくと、非モテからすれば女性はビッチか喪女のみ、ってことになるわけでしょ。『電波男』を眺める限り、そうでない女性の存在ってすっぽり抜けてるわけで、なんでこうなるのかなぁ、と思うわけ。非モテの人がそこから脱却して女性と付き合おうとするなら、どう考えたってこのすっぽり抜けてる層の女性じゃないのか。にもかかわらず、世間で言う脱ヲタって、目指す先は左側ヘの、モテ、あかほりシステムの方向になっちゃってる。これってかなりハードルの高いことなんじゃないかなぁ、と感じて、っていうのがオタクは趣味を目的として受容することを是としているのに、そこから趣味をモテるために手段へと切り換えなきゃいけないわけで、これはキツいでしょ。そりゃ自分を曲げたくない、って意固地になるのはよく分かる。そんでもって、その手段としての消費行動によってヲタ趣味を制限しなきゃならないとあっちゃ、なんでそんな禁欲的なことせにゃならんねん、てことになるよね。しかもあちら側は外面とコミュニケーション能力ばかりが重視される世界。自然、アドバイスも「外面に滲みだす自信を持て」だの「コミュニケーションスキルを磨け」だの、なんか曖昧模糊としたものばかりで、そんなもの一朝一夕に身につけれるわけないって。無理無理。んで、挙句の果てに「愛」か。こんな言葉の暴力ふりかざす奴に愛なんて語る資格ないって。

というわけで提案なんだけど、壁、越えてみませんか。つまり、さしあたりチンコだの性愛だのは忘れ、女性にモテるかどうかってことは脇に置いておいて、サブカルっぽい趣味を好きになってみようってことなんだけど。「趣味を目的として受容する」っていう点では通ずるわけだし。そうやってサブカルの方に移行して、女性と出会えば、そこでは共通の趣味を介して付き合えるようになるし、レストランに誘ったり、お金をつぎこんだり、つまんない会話に無理矢理合わせたりするより全然いいでしょ。

この提案は当然、「ヲタ趣味をやめるわけにはいかない」っていう反論を当然受けるわけだけど・・・結局暴言吐きますね。ヲタ趣味なんか趣味じゃねえよ!嘘、それはさすがに言い過ぎ。鉄道ヲタとかは立派な趣味だよね。でもアニヲタ、それも美少女アニメとかギャルゲーとか全然趣味じゃないって。「音楽ヲタは嫌われないのに、なんでアニヲタは女性から差別されるんだよ~」とか言うけど、そんなのあたりまえじゃん。「俺、AV鑑賞が趣味です」って言うのとたいして変わんない。そんなもんたいして守るべき自己じゃないでしょ。いくら美少女アニメに性欲以外の深みを見出していようが女性から見ればキモいに決ってる。だからその深みの部分は他の趣味に求めて、ヲタ趣味はこっそりやっておけばいいんじゃないかなぁ。

そう、やめなくてもいいのよ、趣味は増やせばいい。禁欲なんかもっての他でどんどん広げていく。あ、チンコ関係は陰でこっそり自己処理しておいて。で、気付いたらそのうちサブカル趣味をもった女性に出会うことになるんじゃないだろうか。そういう女性となら何の共通基盤のないところから無理矢理話題を作りだすような高度なコミュニケーションスキルも別にいらないし、そもそも「あかほりシステム」的な女性なんかいないよ?っていうか僕はそういう女性身近にいたことないし・・・あ、いたわ、ウチの妹(汗。あれは無趣味な女性のためのシステムなんじゃないかなぁ。更科修一郎氏が『オタク vs サブカル』でサブカルは「典型的なF1層からの落伍者であるメルヘン系女性との共依存関係を結ぶことくらいしかない」と言ってるけど、それで全然結構。てか、なんで落伍者とか言うんだよ。つまんない所からはずれた素晴しい女性じゃん。(あとメルヘン系ってのもよく分からん。)F1層を獲得できなかったルサンチマンなんか微塵もないんだけど・・・。

まあ、この提案が受け入れられるとは実はあまり思っていないんだけど、じゃあ、なにがネックになってるの?という部分が聞いてみたいと思うわけです。以上。

(追記)

おっ、ほぼ同時期に似たようなことを書かれている方を発見。

多趣味化することで、あかほりシステムからもほんだシステムからも同時に降りちゃうスタイル。

[非モテに捧げる駄文]オタク・ライフスタイル

あ、でもこの方はそれで非モテを脱却しようとするんじゃなくて、むしろ非モテを追求しようとしてるのか。まぁ、非モテを究めて、つまらない煩悩を拭い去ればモテとか非モテとか勝ち組だの負け組だのどうでもよくなって、世の中楽しく生きれますもんね。あと、タモリはオタクっていうよりもサブカルど真ん中って感じがします。植草甚一のレコードを全部引き取ったりしてるし。Quick Japan の特集になったこともあるし(笑)


Jazztronik / Cannibal Rock

2005-09-10 19:03:38 | 音楽

CANNIBAL ROCK CANNIBAL ROCK (amazon.co.jp)

僕はあまり店頭で試聴して「いい!」と思ってもすぐさまレジに走ることのない人間で、なんかそういう即効性のある楽曲ってすぐに飽きちゃうんじゃないか、という不安があって、あともうちょっと情報を揃えてから手を出したいなぁ、という「石橋を叩いて渡る」体質が顕著なのだけど、たまにはもうどうしようも我慢できんっっっ!ってぐらい胸を鷲掴みにされることもあるのです。Jazztronikの『七色』というアルバムのタイトル曲がまさにそうで、普段この辺の音楽はそれほど聞かないくせに購入。Jazztronikこと野崎良太氏がキャッチーなボーカル曲を作ると、他の日本のクラブジャズの方々なら趣味の良さを優先して抑制しがちなラインを突き抜けて、どポップ、ほとんどJ-pop的になるんで、「俺的にいいのか?いいのか?」と煩悶しながらなんだけど。で、結局のところ飽きは早かったのか、っていうと全然そんなことはなくて、iPodの再生回数を稼ぎに稼ぎました。やっぱり、この下世話なところがたまらないんですね。しかしながら、他のインスト曲はあんまり好きになれず、それは音作りがちょっとチープな印象が拭えなかったからなのでした。んで、実際、野崎氏自身がこちらのラジオで「一音一音の説得力が大事なんだと最近感じてきた」みたいなことを語っていて、あぁ彼もそこをネックに感じてるのかなぁ、と思いながらも、まぁ、彼の場合そんなチープな電子音によるラテンテイストを個性にしてるんだろうなぁ、とも思ってて今後劇的に変化するとは予想してなかった。

彼のニューアルバムの今作、ネットでちょっとだけ試聴できる「searching for love」、なんと今井美樹をゲストヴォーカルに向かえてるんだけど、これまた僕のハートを鷲掴み。この40秒間だけを聞きまくるほどのお気に入りで購入を即決。もう、すごい名曲ですよ。そして音作りがネット音源では、はっきりとは分からないけど向上してるような気がしました。さて、実際に購入して聞いてみると、すごい!野崎さん完全に自分の課題を克服してるじゃん!『七色』とは全然次元が違う、ものすごい本格的なラテンファンクの応酬。どの曲も腰が動いてどうにも止まらない。ちっとは休ませろってなもんです。お目当ての「searching for love」も、そんな強烈なトラックの上で今井美樹のヴォーカルが躍る躍る。絶対ライブに行こう。うん。


fennesz+sakamoto / sala santa cecilia

2005-09-10 18:00:27 | 音楽

Sala Santa Cecilia Sala Santa Cecilia (amazon.co.jp)

Fenneszは、僕の中で最も愛すべきエレクトロニカ・アーティストの一人。彼のサウンドのキャッチフレーズとして「おセンチノイズ」というのがあって、つまりは「ノイズなのに泣ける」ということ。これに魅かれて僕は彼の作品を聞きはじめたわけなんだけど、「ノイズなのに泣ける」というのが何故そんなに魅力的なことなのか。『ユリイカ 2005年3月号 特集 ポスト・ノイズ 越境するサウンド』において、佐々木敦が指摘しているように、ノイズは十二音平均律をはじめとするあらゆる決まり事から逃れた非音楽として登場し、しかしそれゆえにノイズがそれ自体で価値を獲得することなく、あくまで音楽に対するアンチ、「音楽ではないものとしての」ノイズという二次的な位置付けしか持ち得ず、またケージのテーゼ「聴取可能な「音」はすべて「音楽」でありうる」によって、最終的に音楽にとりこまれるしかなく、ノイズなるものは失効する。もしノイズがノイズとしてなおそこに叙情性を獲得しうるなら、その時ノイズそのものをそれ自体で肯定することになる。「音楽でしかない」ノイズ。それはおそらく圧倒的に未知のもの、絶対的なエクソダスであるはずで、そんな体験ができるなら僕のような音楽愛好者にとって一つの到達点といっても過言じゃない。

それでは、果たしてFenneszはそれを可能にしたか、と言われると実際のところ微妙だったりして、というのも彼の作品『Venice』に耳をすましてみれば、そこでは徹底的にノイズに塗れながらも調性的なドローンがかすかに存在していて、結局のところそれが叙情性を支えていることを否定できない。

翻って、坂本龍一の最近のエレクトロニカ・アーティストとのコラボ、とりわけAlva Notoとのヒット作『vrioon』『Insen』では、noto のクリック/グリッチ音は明らかに坂本のピアノの音色を極立たせるものとして機能し、それによって高度な聞き易さを得ていて、愛聴しながらもそのことをいらだたしく思う。

Fenneszと坂本龍一のコラボである本作『sala santa cecillia』もまた、非音楽としてのFenneszのノイズと音楽としての坂本のサウンドワークの組み合わせとして聞こえる。ノイズが音楽のもとに非音楽として犠牲になるくらいなら、このようなコラボはむしろ避けるべきなのかもしれない。ノイズがノイズそのものとして美しくあるためにはノイズの中にストイックに閉じこもるべきなのだ。それによって作品の外部から「非音楽」のレッテルを貼られる危険を伴うとしても。しかしながら、この19分のインプロヴィゼーションにはFenneszの音と坂本の音が階層性なしに並列する瞬間が確かに存在している。そしてその瞬間を可能にし得たことをもって、ノイズがもはや「音楽」に対抗することなく、「音楽でしかない」ノイズとなっているのだ。こういう手もある、と僕は思った。


ベッドから這い出て

2005-09-09 10:17:31 | その他

ここ数日夏風邪に苦しんでいる。体温は37度9分ばかり。外出することもできず、することもないので、とりあえず借りていたティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』を見ることにし、もちろんこれを借りていたのは週末辺りに『チャーリーとチョコレート工場』を見に行くための予習がてらだったのだけど、英語のセリフが全く頭に入ってこないことはもちろん、字幕すら追うのがおっくうな有り様で、特に感想を持たないまま終わってしまい、最近の自分にとって映画を見ることが一番頭を使うことなのかもしらん、とペーパーバックを読むことにするが、これまた理解ははかばかしくなく、そのまま寝てしまい、朝をむかえ、のそのそと起き出してインターネットに興ずると、自分同様に夏風邪を引いているブロガーを見つけ、社会や文化によるような繋がりではない別のレイヤーの存在に思い至り、小松左京の『復活の日』を開いてインフルエンザによって日本が一月たらずで人口が2000万にまで減少するありさまが書かれた所を腫れぼったい眼で追っている内に昼時になり、ともかく食べるだけ食べなければ、ということで家から最も近い食料摂取所であるという理由から漫画喫茶に向うことにしてカレーランチを食しながら、これまたウィルスものである外薗昌也の『エマージング』を読み、ウィルスによってコラーゲンが壊れぼろぼろに溶けた体が回復したとしてまたもとの同じ形に戻るのかなぁ、などと溶けた頭でバカなことを考えながら帰宅し、以前の『オタクvsサブカルを煽ってみる』のエントリに対する反応によって、初めてその存在を知った「はてなブックマーク」をつらつらと眺め、非モテ談議を追ったりするのだが、その非モテの方々が僕のこれまでに見知っている隣の非モテさんたちとことごとく同じ思考回路に追い込まれるのを見ているとまたも不可避的なレイヤーの存在に思い至るのだが、そのような非モテたちがかえって自己だの内面だのを後生大事にすることのアイロニーに苦笑し、こうした議論の貧しさを思いながらも、今の自分の頭ではこの貧しさが丁度良く、そのままベッドに潜り舞城王太郎の『暗闇の中で子供』を開くのだが、実はこの1ヶ月ほど阿部和重を読むのと並行して熱心に舞城の作品群は読んでおり、そのくせいつもなんとも掴みがたい感覚がつきまとい、ブログで感想を書くのを躊躇していたのであって、そんな折、石川忠司の『現代文学のレッスン』で、舞城作品の登場人物の全能感から帰結する現実とのコンフリクトのなさとしての貧しさの指摘を読み、そのあっさりとした切り捨て方にとまどっていたのだけど、今や頭が「貧しい」モードと化している自分にとって舞城の貧しさを肯定することはいとも簡単になっており、とは言いつつもその全能感は内言に閉じこもることによって成立しているというよりも、密室と見立て殺人というシステムによって支えられているのではと眈むのだが、この『暗闇の中で子供』の他の作品とは異なりあまり全能的ではない主人公が、見立て殺人の解決を一種のイニシエーションとする場面でそれが決定的となったと感じ、これをもって佐々木敦が舞城を評価しているのなら、それはいかんやろと思いつつも、断定は出版準備中と聞く彼の舞城論を待つことにして、本当は間接的にこの夏風邪の原因となったところの、愛・地球博への強行軍についてでも書くべきなのだが、とりあえず駄文をブログにしたため、思いつきも毒吐きも全て夏風邪のせいにするという無責任振りを呈しながら、再びベッドへと戻ることにする。


ジル・ドゥルーズ「バートルビー、または決まり文句」

2005-09-02 07:47:10 | 書籍

批評と臨床批評と臨床 (Amazon.co.jp)

前回の続き。『批評と臨床』に収録されているドゥルーズの「バートルビー、または決まり文句」を読んでみます。ドゥルーズのバートルビー論は、アガンベンほど小説そのものを無視しているわけではないんだけど、「バートルビー」自体の重要性は相対的に低い。むしろメルヴィル論と呼ぶべきだと思うんだけど、そこはやっぱり今までのフランス思想家達のバートルビー論に連なりたかったのかなぁ、と邪推してます。

ドゥルーズは"I prefer not to." という表現の非文法的性格を指摘する。いや、これ自体は文法的に間違っているわけではないんだけれども、この to がどこへ向けられるともなく放置されたまま繰り返されることによって、言語の相互参照や言語行為を混乱させ、「言語活動全体を沈黙に向き合わせ、沈黙のなかへと転倒させる」決まり文句として機能することになる。この一つの決まり文句だけで一足跳びにアガンベンの示したあの宙吊り状態へと移行することになるんだけど、さらに僕が前回のエントリの最後で示したような言語によって明示される「存在するか存在しないか」という選択肢すら、この言語の全面破壊によって失なわれることになる。

ところで文学的言語によって言語に混乱をもたらすにあたって、バートルビーの「決まり文句」による全面破壊だけでなく、もう一つの方法があってそれはドゥルーズが「手法」と呼ぶもので、それは言語の中に様々な仕方で「一種の外国語を穿ち」、ゲリラ的に、不断に侵入することで、迂路を経ながら言語活動を沈黙へともたらす。それがメルヴィルの他の作品で見られるもので『白鯨』の鯨の言語、『ピエール』の呟きの言語、『ビリー・バッド』の吃りの言語である、と。

さて、この言語の破壊と同時に目指されているのは「特性」の破壊である(バートルビーの" I am not particular"の重要性)。『バートルビー』に登場するほとんど戯画化された特性的人物(午前午後で気性が入れ換わる二人の同僚)に対して、バートルビーは「決まり文句」により言語破壊と共に言語的に決定されような固着的な諸特徴を拭い去り、流動性を獲得し特性のない人間となる。しかしそれゆえに特性へと分化する前の差異の段階へと生成し、かえってそれは独創人と呼ばれるべき文学的人物になってしまう。これに対応して、「手法」によって言語と特性を不断に崩落させ生成しつづける別のタイプの独創人として『白鯨』のエイハブがいる。「意志の虚無」によって絶対的停止を志向するバートルビーと「虚無への意志」によって絶対速度を獲得しようとするエイハブ。映画的タームを使えば、キャメラの非焦点的視点によって対象へのアパシーを示す「パン」と対象から対象への急速な移動によって画面を光の縞模様へと変える「トラヴェリング」によって、可視性と言表性を超えた領野に到達すること。この二人の全く異なった独創人を共存させること、これこそメルヴィル、アメリカ文学の目指すことであり、同時にプラグマティズムが獲得しようとするパースペクティブ、群島的、パッチワーク的パースペクティブであり、そこでは互いに相入れないものが超越的な父性なしに共存し、独創性を保ったまま流動的になることが問われる・・・う~ん、話が拡がりすぎですね。

アガンベンとの相違は明らかで、アガンベンはバートルビー一人をもって、この相入れないものの共存を目指すのだけど、それによって絶対的に無力という印象が拭いがたかったりする。そこにドゥルーズはエイハブという相補的な人物を導入するわけで、何だか物事が動きだした感じがします。ところで、こちら(『〈帝国〉』から『ホモ・サケル』へ )で、バートルビーに対する、ドゥルーズの二人の弟子(と言ってもいいのかな?)アガンベンとネグリの見解の違いが述べられていて、そこではネグリがバートルビーの拒否に重要性を感じず、むしろ「既成権力が支配する政治圏から外に出ること」エクソダスを目指さなければならないと主張していることが示される。そう、ネグリはエイハブ側の人間ってことだよね。これはすごく元気が出そうな感じだ。でも、このエイハブ路線だけを取るというのは非常に危うくて、それはネグリの盟友ハートが『ドゥルーズの哲学』でドゥーズの思想発展をすっきりと「理論から実践へ」とまとめる時、「理論」において執拗に批判されていたヘーゲル的漸進が「実践」で無邪気に戻ってきてしまう感があって、そこらへんをジジェクが『身体なき器官』で(ドゥルーズに対する批判としては全く的はずれだけど)揶揄するのは、まあ当たってるな、とは思います。

そんなわけでアガンベンのバートルビー論を読んで立ちすくんでしまうのもやだし、ネグリ的にぐいぐい行くのもどうか、と思いながら、ドゥルーズの論は、二人の独創人の融合という姿、今は具体的には掴まえられないけど、いつかその有り様に達することができるんじゃないかなぁ、という希望と共に最も読後感は良いのだけど、自分的に、問題を先送ってるだけ、というそしりは、まあ免れまい。


今回とりあげた二人はどちらも『バートルビー』自体を熱心に読み込むというタイプではないのだけど、作品を細かく読み込むことでメルヴィルに近付こうとするなら、「バートルビー萌え協会長」(笑)である ishmael さんの「モウビィ・ディック日和」(バートルビーを読む 第1回第2回)が非常に参考になります。ドゥルーズの論を読む時にも大変助けられました。ということで現在『白鯨』を読書中です。


ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』

2005-09-01 07:21:22 | 書籍

バートルビー?偶然性についてバートルビー―偶然性について(amazon.co.jp)

いつも「しない方がいいのですが(I would prefer not to)」と答えるだけであらゆる労働を拒否し死んでいく一人の筆生についてのメルヴィルの小説『バートルビー』を巡るアガンベンの考察。本書について何がしかの感想を述べようとしても、何もはっきりとした何かを提示できるわけでもなく、いきおい「今は述べないほうがいいのですが」とずるずると感想を先延しにしそうだし、この本自体、読者をそのような場所へ追い込もうとしているのだから、とりあえずその宙ぶらりんな感じを書いておくことにとどめて、後はドゥルーズに助けを求めることにしてみます。

本書は一応『バートルビー』についての批評という形をとっているにしても、最初の1ページ目からその謎を「文学的な星座」ではなく「哲学的な星座」でしか解くことができないだろう、と述べてさっさと哲学議論へと移っていく。そこでまずもって持ちだされるのが、アリストテレスによる「潜勢力」というものの定義、「何らかのものとして存在したり何らかの事柄を為したりすることができるという潜勢力はすべて、つねに、存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力でもある。」という定義の重要性。というのも、この後者の潜勢力いわば「非の潜勢力」というものが存在しなければ、全ては時の経過に従って実現、現勢化するだけに過ぎず、そもそもの潜勢力の必要性がなくなってしまうから。潜勢力の意義を保存するためには、それが現勢化するにあたって「非の潜勢力という状態にあるものが何もなくなる」という事態なければならない。となると、このようにある可能性を破棄して他の可能性を現実化するような力をどこに求めるべきかということになる。

この時、僕たちの常識に最も近しいものとして挙げられるのが「意志」ということになるんだけど、この意志という独立した第三項がくせもので、たちまち大問題が発生してしまう。というのも意志とは他の可能性を絶対的に廃絶することによってのみその力を行使し、かつそれが独立的なものである以上、絶対的に無根拠であり、そうであれば意志はその暴挙を行使しすることによって瞬間瞬間に奇跡的な偶発事として出来事を生産することが可能であり、よって潜勢力はあってもなくてもどうでもいいものとして、またも存在意義を失なうことになるわけ。こうした意志の無根拠さに対して理由ないし条件的必然性を導入しようとするのがライプニッツなのだけど、それによって、神の聰明な計算によってより多くの存在が共に可能であるような世界が選択されるという最善観へと導かれるのだけど、その時にその選択にあぶれた他の可能世界はその存在する力を認めらることなく放棄され、事実上全き必然性へと移行し、はたまた非の潜勢力は無力のままに終わってしまう。

というわけで、潜勢力という力を認めるためには、そもそもその力を現勢力へ向かうものとして考えることに問題があって、そうではなく為すことも為さないことも共にできるという宙吊り状態を維持する力こそが潜勢力であると考えなければだめで、その力を体験するための定式こそ、あのバートルビーによる「しないほうがいいのですが」である・・・というのがアガンベンの結論。多分にまとめすぎな感もあるけど、まあこんなところで。さて、確かに物事をどんどん現実化してすっきりするとか、考えを文章にしてすっきりするとかっていう気持ち良さも分かりつつ、ぐずぐずと悩んで呆けている気持ち良さっていうのも大切にしたいよね、って感じでのろのろと生きている僕としてはこの議論に多いに賛同するのだけれども、ここで問われてるのはそんなに甘っちょろい話ではなくて、あらゆるものを現勢化せずに神の創造をすら遡って潜勢力の「全的回復」を目指すという極限状態なわけで、じゃあどうするのかってことになるとほんとに途方に暮れてしまう。それとつけ加えたいのは、「存在すると同程度に存在しないことの権利」として表現される潜勢力に真に留まりうることが出来た時、実はこの表現自体成立しないのではないか、って思う。というのが、現勢的なものを考慮に入れない以上、「存在すること」と「存在しないこと」という二つの選択肢を保持することすら無理で、なにしろこれは「存在」そのものを問うことの手前にまで撤退することなのだから。

・・・というところでとりあえずこのエントリは留めます。次回は、このアガンベンのバートルビー論のイタリア語版では同時収録されている、ドゥルーズの「バートルビー、あるいは決まり文句」について考えてみることにします。ま、それでもすっきりすることはなくて、別の形で呆けることになるのだけど。