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17- 平安人の心 「絵合:わが世の盛りを実感する光源氏」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

 絵合:えあわせ 相互に絵を出し合って見識ある女房に意見を述べさせ勝負を決めるゲーム

  故六条御息所の娘の前斎宮は、藤壺入道宮の後押しで、二十二歳で冷泉帝に入内し、梅坪女房と呼ばれた。天皇はまだ十三歳だが、後宮にはすでに権中納言(かつての頭中将)の娘で十四歳になる弘徽殿女御がいて、慣れ親しんでいた。しかし梅坪女御が絵の上手と知ると、ことのほか絵を好む冷泉帝は忽ち梅坪女御に心惹かれた。危機感を抱いた弘徽殿側が自分たちも絵を集めだすと、光源氏も梅坪女御の後見人として対抗。後宮二勢力による絵画収集競争は過熱し、内裏女房たちの間では絵の批評が流行した。

  三月、この騒動でとかく勤行も怠りがちになっていた藤壺が内裏に居合わせた御前で、双方の物語絵の優劣を競う遊びが行われた。梅坪女御方からは「竹取物語」と「伊勢物語」、弘徽殿女御方からは「うつほ物語」と「正三位(しょうさんみ)物語」の絵が出され、心得のある内裏女房が優劣批評を闘わせるが、決着がつかない。光源氏の発案で、改めて帝の御前で大がかりな「絵合」の会を行うことになった。

  会は殿上人たちも参加して豪華に開催された。勝敗は伯仲したが、最後に光源氏が須磨蟄居中に描いた絵日記を出すと、誰もが感動し、梅坪女御方の圧倒的勝利となった。こうして、冷泉帝の御代はますます文化の香りも高く栄えてゆく。後見する光源氏も、我が世の盛りを実感していた。
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  「源氏物語」「絵合」の巻は、当時の物語ファンにとってたまらない巻だったことだろう。日常、自分たちが現実の世界で楽しんでいる物語が、「源氏物語」の中に登場して、喧々囂々と論じられるのだ。しかも舞台は内裏である。きっかけは冷泉帝の絵画好きだ。帝をめぐり対抗する女御たちは、あるいは自ら描き、あるいは絵師に描かせて、絵で帝を釣り上げようと競い合う。
  何が手段であれ、きさきが天皇の寵愛を得ることはその実家の政治権力に結びつくから、女御たちの戦いはそのまま実家同士の戦いとなる。かたや養女の梅坪女房(前斎宮)を擁する内大臣・光源氏、かたや弘徽殿女御を擁する権中納言は、それぞれに絵画をめぐりしのぎを削る。こうした後宮の戦い自体はよくあることなのだが、この巻の場合、絵は絵でもまずは物語絵が主戦場になるところがポイントだ。つまり、実質競い合わされるのは、絵よりも物語のほうなのだ。

  現実の宮廷での「物語合(あわせ)」は、紫式部の時代にはまだ行われていないが、紫式部は自作の中でそれを先取りし、物語というジャンルに市民権を与えてみせたのだ。なお、二度目に帝の御前で開催される絵合は、物語というより四季絵などが中心の正統派である。ここには村上朝で実際に行われた「天徳内裏歌合」を思わせる描写があり、催しの後は光源氏の才芸論になっている。同じ絵でもサブカル寄りとそうでないものを、作者は描き分けているのだ。

  「源氏物語」が世に流布していたと、「紫式部日記」の記述からはっきり知られるのが寛弘五(1008)年。それから十三年後の治安元(1021)年、後に「更級日記」作者となる菅原孝標女(たかすえのむすめ)は、おばから木箱入りの「源氏物語」五十余巻を贈られた。太秦(うずまさ)広隆寺に願掛けしてまで読みたかったものだ。几帳の内に一人で伏し、第一巻から次々引っ張り出して読む心地ときたら、これに比べたら后の位も何になろうという最高の気分だ。物語に心を奪われて、思うのはただそのことばかり。没頭のあまり、気がつけば文章を暗記してしまっている。昼は日がな一日、夜は目の開いている限り、灯りを近く灯して読みふける。
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