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21- 平安人の心 「少女:夕霧(光源氏の息子)の幼い恋」

2021-07-12 14:02:49 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏三十三歳の年、故葵の上の遺児で光源氏には表向き長男にあたる十二歳の夕霧が、祖母大宮の希望によって、母(故葵の上)方の故左大臣邸で、元服した。官位は、父・光源氏の血統や権勢からすれば四位(しい)が順当だったが、光源氏は夕霧を六位とした。またしばらくは職に就かせず、大学で勉強させることとした。光源氏は自分の亡き後に政治家として独り立ちできるよう、敢えて厳しい方針を取ったのだ。光源氏は二条東院で、夕霧に字(あざな)をつける儀式を大々的に行い、そのまま光源氏の監督下で学ばせた。夕霧は父を恨めしくも思うが、生来のまじめさから勉学に励み、文章道(もんじょうどう)の試験を次々と突破。これに刺激されて、世では漢学始め諸道が尊重されるようになった。

  光源氏は太政大臣、かつての頭中将は内大臣となった。その娘で十四歳の雲居雁(くもいのかり)と夕霧は、祖母・大宮のもと同じ三条宮で育ち幼い恋を育んでいた。だがそれを知った内大臣は雲居雁を東宮に差し上げる考えなので激怒し、雲居雁を自邸に引き取る。別れの時、二人は涙ながらに心を確かめ合う。しかし雲居雁をさがしに来た乳母の「六位ふぜい」との言葉に冷や水を浴びせられ、夕霧は出世して恋を実らせると決意、努力し始める。

  その頃、光源氏は五節(ごせち)の舞姫(十一月中旬の宮中節会(せちえ)に公卿、殿上人、受領から舞姫を出す)に惟光(これみつ:光源氏の乳母兄弟)の娘が出る準備に忙しかった。たまたま舞姫の控えの間を覗いていた夕霧は、惟光の娘のあまりの可愛らしさに心動かされていた。

  翌々年八月、光源氏は豪壮な六条院を完成させた。通常の四倍の広さの御殿は四季の風情に分かれ、東北の夏の町には花散里、東南の春の町には光源氏と紫の上、西南の秋の町には冷泉帝の中宮となった梅坪(秋好中宮:六条御息所の娘)が入った。十月には明石の君も西北の冬の町に合流。栄華の極みの六条院世界がここに始動した。
  光源氏はやがて夕霧を花散里にあずける。
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  京都は平安神宮の近くにある藤井有鄰館(ゆうりんかん)は、驚きの美術館だ。中国の美術品や遺物の、それも目をみはるようなコレクションが、全くさりげなく並べられている。中でも特に息をのむのが、「科挙カンニング下着」である。一見ただの白い衣だが、よく見るとルーペがなければ読めないほど細かい字で、びっしりと「論語」など四書五経が記されているのだ。

  中国の官界への登竜門「科挙」は、厳正な試験による人材登用制度だった。合格するのに十年以上の歳月がかかったという例も珍しくない。そのため、合格したい一心からこうしたカンニンググッズを作った輩も、中にはいたのである。
  科挙の制度はなぜ作られたのか。それはもちろん、有能な人材を抜擢するためだ。無能な者が、賄賂や縁故だけで高い地位に就くことを阻止するためだ。

  日本は、官僚制度を中国のそれに倣った。だが科挙は取り入れなかった。逆に日本は、まさに「親の七光り」ともいえるような制度を敷いた。その名も「蔭位(おんい)の制」。貴族の親を持つ子が親の位に応じて優遇される制度である。
  日本の朝廷にも、人材登用のための制度はあり、それが大学だった。人気が集中したのは、中国の歴史と文学を学ぶ「文章道」だ。だが更衣の貴族のお坊ちゃまは、勉学に励まずとも親の縁故で出世できる。いきおい、大学で学ぶのはコネのない貧乏人ばかりとなった。

  紫式部の父も、漢学者で、門閥出身ではなかった。夕霧の家庭教師は門閥でない学者で、夕霧を大学に合格させ、光源氏の庇護を得てこれから出世間違いなし・・とは、父の背中を見つつ育った娘心が作らせた話だろう。実際には、紫式部の父は一条天皇の文士十傑に入ると言われながら十年も官職を得られないなど、出世できない貧しい文人だった。

  ところで「字(あざな)」とは、本名以外の名を日常の通り名とする中国の風習を取り入れて、文人たちが自らにつけたものだ。つけ方にはいろいろあるが、本名の姓から一文字か二文字を拾って、音読みにする。藤原李英(きえ)は藤英(とうえい)。紫式部の父・藤原為時は藤為時(とうゐじ)だ。


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