白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

カエルの姫君(その1)

2019年09月27日 18時54分55秒 | 星の杜観察日記

 僕が4月から通う高等学校には、アールデコのお城と森に囲まれた湖沼群がある。
 アールデコのお城は文化財指定の私立図書館で、生徒以外にも開放されている。高い天井まで届く細長い窓が並んでいて、磨きこまれた木の床に午後の日差しが差し込む閲覧室は僕のお気に入りの場所だ。新刊なんかは無いけれど、いろんな文学全集やカラーの木版画図版のたくさん入った大型の博物学図鑑、地域の歴史書がそろっていて何時間でも過ごせる。閲覧室から続く別棟には、お弁当を食べていいラウンジがあって、凝った組木模様の床にアンティークなテーブルや椅子が並んでいる。今時の視聴覚ライブラリなんて無いから、いつもひっそりして静かだ。
高等学校は200年の歴史があるらしい。木がみんな大きく育っていて、真夏でも涼しい影を作っているし、ちょっとした植物園並みに珍しい樹種がそろっている。今は名残のロウバイといろんな品種のツバキ。正門に続く表側の校庭を囲んで、樹齢100年近いような立派なソメイヨシノが並んでいて、今を盛りに咲いている。図書館に続く庭園には、桜目当ての人々がそぞろ歩いているけど、芝生は宴会禁止なのでやっぱり静かだ。小さい子供や犬を連れた家族連れが、芝生のベンチでのんびりしている。

 図書館の北側に大小いくつかの池とそれをつなぐ水路があって、大きな木々の下でひっそり綺麗な水が流れている。薄暗いせいか、図書館を利用する人や花見客もめったにこちらまで来ない。ここはいつも鳥の声がして、生き物の気配がある。もともとは大きな湖とそこに流れ込む川があったそうだ。地層が隆起したり、一部は埋め立てられたり、水路をところどころ暗渠にして公園を整備したりして、今の景観になったらしい。そのせいか、この辺り一帯はいつも水の匂いがする。
 高校に合格してから、僕は自転車でせっせとこの森に通っていた。双眼鏡で野鳥を観察したり、図鑑を持ち込んで樹の種類を調べたり。本当は池にタモ網を入れたり、胴長で水に入って水の生き物を調べてみたかった。僕は両生類に目がないのだ。
 ここなら数種類、サンショウウオが住んでておかしくない。もしかしたらヒダサンショウウオやブチサンショウウオがいるかもしれない。
 去年、この学校の文化祭で科学部の展示を見た。この森のカエル類の研究発表で、シュレーゲルアオガエルの他にモリアオガエルも産卵するらしい。ナゴヤダルマガエルもいるし、渓流に済むタゴガエルも観察できたらしい。この高校に合格できたら絶対に科学部に入って両生類の研究をするんだ、とその頃から決めていた。入部すれば堂々と池に入れる。

 来週には入学式という春休みのある日、僕はやっぱり高校の裏の池に来ていた。まだここの生徒じゃないから校庭には入れない。でも図書館から続く公園と池を囲む森は一般市民も出入り自由なのだ。薄曇りで、何となく雨の予感があった。森に入る前から、いちだんと強く水の匂いを感じた。そして森の方からルルルルル、リリー、リリリーンという鳴き声が聞こえる。
 何の声だろう。野鳥にこんな声の鳥はいない。アカショウビンの声は聞いたことあるけど、ぜんぜん違う。虫かな。アオマツムシにはシーズンが違うし、こんな森より街路樹なんかで鳴きそうだ。カジカガエルに近い。でもこんな池にカジカガエルがいるだろうか。

 僕は早る気持ちを押さえて、池にそっと向かった。物音を立てたら鳴き止んでしまうかもしれない。もしかしたら逃げてしまうかも。水域を囲むニシキギの生垣の切れ目から、ガサガサ音を立てないようにこっそり近づいて、ヤマモモの影から池の方を覗いてみた。
 一番北側の、湧水が出ている池の辺りがぼんやり光っていた。その辺りは一番木が茂っていて、昼間でも薄暗い。湧水の横に小さな石の祠があってちょっと不気味な感じだ。ぽおっと丸いグレープフルーツぐらいの光る塊が水面からいくつも浮かび上がって来た。ホタルじゃない。あんな黄緑の光じゃなくて、青白い光が時々黄色っぽく強くなって明滅している。これは何て生き物だろう。この生き物がルルルルーと鳴いているのだ。でもその生き物は光の中にいて輪郭がよく見えない。
 ルリリールルルルリーと鳴きながら、青白い光の玉がふわっと水面から空中に浮かんだ。水面に近づいたり遠ざかったりしながら、7つほどの光が飛び交っている。

 こんな生き物、見たことがない。
 僕は身動きもできず、息を潜めてその光を見つめ続けていた。もしかして世紀の大発見かもしれない。あるいは。
 普通の生き物じゃないのかもしれない。火の玉や狐火みたいな。鬼火というのも聞いたことがある。でも不思議と怖いとも思わなかった。綺麗だし、声も可愛い。もっと近くで見てみたいけど、近づいたらきっと逃げてしまう。

 どのぐらいの時間、そうしていただろう。いつの間にか、日が傾いて、春の青い夕闇が近づいていた。生き物が活発になる時間だ。水路の続く南の方の池では、野鳥の声が盛んに聞こえ始めた。ヒヨドリにシジュウカラ、メジロ。芝生の方の潅木ではホオジロが鳴いている。なのに、この北の橋の池では、青白い光以外、生き物の気配が無い。ここだけ違う時間が流れているみたいだ。

 池の周りはますます薄暗くなって、光が強く見えるようになって来た。あまり集中して凝視していたので、目が疲れてチラチラして来た。しばらく目を閉じて目尻やこめかみをぐりぐり指でほぐしてみた。視線を戻すと、一段と池が暗く見えた。ぱちぱち瞬きしてじっと目を凝らすと、祠の横に女の人が立っていて、僕はぎくりとした。
 いつの間に来たんだろう。
 肩に届くまっすぐな髪。水色の膝丈のワンピースを着ている。白い顔。人間だろうか。幽霊かもしれない。ふわふわ飛び交う光をまといつかせて、静かに水面を見つめている。よく見ると両手に何本か木の枝を持っていた。何をしているんだろう。時々、梢の鳥でも探しているように視線を上げて、何かの音に耳をすますようにじっと立っていたと思うと、数歩歩いて、今度は違う方向にじっと集中している。何か探しているのだろうか。光る生き物はいっそう明るく明滅して、リリリリリーと鳴きながら女の人の顔の周りを飛び回っている。

「しーっ。ジャマしないで。静かにして」
 また何歩か歩いて立ち止まる。ちょっとうなずいて、手に持っていた枝を地面に刺した。そこからまたしばらく歩いて、ゆっくり耳をすまして枝を刺す。そうして池を囲むように5本の枝を刺した。
 光の球はその枝から枝へ、バレーのトスのようにポーンポーンと飛び交って対角線を描いている。その輪の中に、女の人は静かに入って中心に立つ。
 何が始まるんだろう。僕はドキドキしていつの間にか両手のこぶしを握っていた。

 光がさらに強くなって、シルエットのように生き物の輪郭が見えた。
 長いしっぽ。太い胴体に丸い頭。短い足には指が4、5本生えているようだ。まるで水中にいるように空間をにょろにょろのたくりながら、器用に宙を泳いでいる。オオサンショウウオが飛んでいるようだ。でも黒くない。光に透ける身体。青白いようで、薄緑のようで。まるで水をオオサンショウウオの形に丸めたみたいだ。

 女の人は右手に鈴を持っていた。短い柄の上に三段で金色の鈴がついている。柄から長いリボンが垂れていて、それを左手にまとめて握っている。神社でお神楽を見たとき、巫女さんがこういう鈴を振っていた気がする。
 不思議なことに、その鈴はチリンとも言わない。
 まるで鈴の音の代わりのように、光の玉がリリーンリリーンと高い声で鳴いている。

 左手に握っていたリボンをさらりと離すと、代わりにワンピースの腰のベルトに刺していた緑の葉がついた枝を持った。それを扇子のように、ゆるやかに顔の前を動かしてまるで舞っているように左右にひらひらと動かしている。
 光がますます明るくなって、女の人は金色のドームの中心に立っているようだ。身体の周り全体が金の光に包まれている。リリーリリリリーという声が大きく響いた。
 左右の腕を広げて、ゆっくりと金色の空間で舞っていたと思うと、彼女がくるりと身体の向きを変えて、まっすぐにこちらを見た。

 僕はびっくりして固まってしまった。
 目が合った、と思った。そしてすぐに、彼女はこっちを見ていないと気づいた。両目を大きく見開いているけど、ここではないどこかを見つめている。その瞳が緑に光った。
 シャン、シャンシャン。
 初めて鈴の音が聞こえた。鈴を持った右手を頭上に。四色のリボンが揺れる。左手の枝も大きな弧を描きながら頭上へ。そしてまたくるりと身体の向きを変えて池の方に向き直った。
 シャン、シャンシャン。
 そうして順番に、地面に刺した枝の方に向きを変えて舞っているのだと気づいた。
 サンショウウオのリリリーという声が今はひと続きにリリリリリリリと甲高く響いて、耳が痛いほどだ。光がまぶしい。目がくらむ。
 最後に彼女が左手にリボンを持って、両手を頭上に掲げた時、まるで星が爆発したように、辺りが強い光に包まれた。

 そして、光が消えた。光の玉も消えた。
 水辺は、闇に包まれた。

 女の人は、公園に降りた青い夕闇よりも一層深い暗闇の中にしばらくじっと立っていた。そして、ひとつ、大きく深呼吸した。
 屈んで、足元に置いてあったらしい巾着袋のようなものに鈴をしまうのが、闇を通してぼんやり見えた。彼女と一緒に僕も大きく息をついた。緊張が解けてちょっと目眩がした。バランスを崩してたたらを踏んでしまい、ガサッと茂みで音を立ててしまった。

 今度こそ、彼女と目があった。屈んだ姿勢のまま、まっすぐにこちらに顔を上げた。

「ご、ごめん。ジャマするつもりはなかったんだ」
 彼女は何も言わない。
「僕、春からそこの生徒で、それで、生き物が好きだから、ここの森でサンショウウオを探すつもりだったんだ」
 僕は慌てて言い訳をした。サンショウウオ。怪しいと思われたに違いない。

 彼女はじっとこっちを見ていたが、ひとつため息をつくと、すっと立ち上がった。

 あれ、何だかさっきより背が小さく見える。こんな幼い感じだったっけ。色白で、目が真っ黒で大きくて、お人形みたいだ。さっきまでまっすぐに見えていた髪が、今は、ふんわりカールしている。彼女はポケットからすみれ色のリボンを出して、髪を耳の上でツインテールにまとめた。
 僕から視線をそらすと、数歩歩いてまた地面に屈んだ。さっき刺した枝を抜いて、ぽいと池の方に投げた。数歩歩いてまたぽい。

「あ、手伝うよ。暗くて見つけるの大変だろ」
 こんな暗がりでは足を取られて転ぶかもしれない。池を囲む水路に落ちたりしたら大変だ。僕は池の向こう側に走って枝を探した。
「水に流していいんだね?」
 女の子は、何も答えずこくっとうなずいた。

 何だか、枝を1本地面から抜く度に、いっそう辺りが暗くなる気がした。そういえば、池の方に来たとき漂っていた生臭い匂いが消えている。カツラの落ち葉のようなちょっと甘い香りがして、僕はまた深呼吸した。
「こっちの2本は取ったよ」
 声をかけると、女の子はまたこくっとうなずいて、池を囲む木立を抜けて開けた公園の方に出た。そしてこっちをじっと見ている。
 不審がっているんだろうな。公園の灯り始めたガス灯のような薄黄色い明かりの中で見ると、その子は小学生に見えた。9歳か、もしかしたら10歳ぐらいかもしれない。でも表情は大人びて見える。
 こんな子供を暗がりからじっと見つめていたなんて。痴漢かロリコンの変質者を思われてもおかしくない。どうしたら警戒を解いてもらえるだろう。誤解されても仕方ないけど、こんな小さい子が怯えて緊張しているのは可哀想だ。それに、さっきの舞は、本当は他人に見られたら困るものだったのかもしれない。

「僕、正田克昭。さっきもいったけど、4月から飛鳥高校の1年生。君、近所の子?」
 女の子は、しばらく黙ってこっちを見ていたが、ちょっとくぐもった声で名前を言った。
「織居桐花……です。桐の花と書いてキリカ」
 いい名前だね、と言おうかと思ったけど、ますますロリコン臭く聞こえるかもしれない。僕は黙ってうなずいた。
「ええと。さっきの、僕何かジャマしたかな。何か台無しにしなかった?」
 女の子は、しばらくまたじっとこっちを見つめていた。
「何か、見えた?」
 警戒するように聞いてくる。
「ええと。何か、オオサンショウウオみたいな生き物が光って、飛んでて、君が綺麗に踊ってた」
 女の子は、ふうーっと大きく息をついた。どうやら困らせたらしい。やっぱり僕は見ちゃいけなかったようだ。
「誰にも言わない。約束する。何か、困ることなんだろ?」
 女の子は、またふうーっとため息をついた。

「おい! お前、何してんだ。キリに何か用か?」
 図書館の方から声がして、あっという間にこちらに駆けて来た。銀色の髪にうすい金色の目。一見、女の子みたいに整った顔だが、声は男だ。背は僕よりちょっと小さい。
「トンちゃん!」
 女の子は、少年の方に駆け寄ると、その後ろに隠れた。そうして2人してこっちをじっと見つめている。むむむ。これじゃあ、僕が悪者だ。でも確かに困らせてしまったのなら、謝らないといけない。
「ごめん。のぞくつもりはなかったんだけど。この子が池の傍で踊ってるのを、偶然見ちゃって」
 少年はジロジロこちらをにらんでいる。
「踊ってるのを見たって?」
「うん。鈴が鳴って、サンショウウオが鳴いてて。それで、ええと、綺麗だった」
 言いながら、ちょっと照れてしまった。

 そうだ。綺麗だった。女の子は、もっと大きな女性に見えた。泉の女神さまがひっそり舞っているのかと思った。それで目を逸らせなくて、じっと隠れて見守ってしまったのだ。

「桐花」
「でも、ちゃんと枝を挿したし、その外側もぐるりと足踏みして結界張ったのよ?」
「ふうーん」
 少女は訴えるように少年に説明して、少年はまたこっちをじろじろ見ている。

「僕、正田克昭。春からそこの学校だ」
 もう一度言ってみた。少年はえ、と言う顔をしてちょっとだけ警戒を解いたようだ。
「俺もだ。春からそこの生徒。俺は織居鳶之介」
 なるほど、それでトンちゃんなのか。でも少年は、”トンちゃんと呼ぶなよ”というように、こっちをじろっとにらみつける。

「ちょっと試してみよう」
 少年は池の方に向き直ると、ピューイイッと強くひと吹き、口笛を鳴らした。するとまた池が光って水面からふわっと光の玉が浮き上がると、一直線にこちらに飛んで来た。今度は3つ。街灯とはいえ、さっきよりだいぶ明るい場所なので、今度ははっきり形が見える。やっぱりオオサンショウウオみたいだ。小さな黒い目が、大きな口の両側にあって何とも愛嬌があって可愛い。ルルルルというカジカガエルのような声も可愛い。
「すごい。可愛いね。口笛で呼べるの? 僕もできるかな」
 下手くそな口笛をヒュルウッと何とか鳴らすと、3つの光がこちらに寄って来た。
「触って大丈夫? 怖がるかな?」
「大丈夫。触ってみれば」
 少女が初めて警戒をゆるめた声で言った。
「へええ。冷たい。くず餅みたいな感じかと思ったらけっこう固い。でもツルツルで気持ちいい」
 珍しい生き物を間近で観察できて、僕はすっかりうれしくなってしまった。少年はニヤニヤしながらこっちを見ているし、女の子は困ったような顔をしながらそれでも曖昧に笑っている。
「ふーん。つまり、こいつ、そういう質なんだな」
「質って?」
 僕は聞き返す。
「お前、見たことないか? 幽霊とか妖怪とか」
 少年はニヤニヤ尋ねる。
「うーん。幽霊ははっきり見たことないけど、でも何かいるかなって感じるところには寄らないようにしてるし、古い物とか、時々触るの怖い時がある」
「なるほど。もともとそういう素質があって、桐の舞を見て目覚めちゃったか」
 女の子はまだ困ったような顔をしている。

「ごめん。何かまずかった?」
 僕は女の子を困らせたくなくて、聞いてみる。
「今更遅い。いっぺん見えてしまったら、よっぽどのことが無いと見えないようにならない」
 少年が代わりに答える。
「ええと。僕、両生類が好きで、この池で生き物を探したかったんだ。入学したら絶対に科学部に入ろうと決めてて。でもこれから、僕がこの池に来ると困る?」
「この池は公共の場所なんだから、来るななんて言えない」
 少年は淡々と言う。
「でも、科学部が生物やるのは去年までって聞いたぜ? 今年から3年は物理の先生が顧問だ。3年ごとに変わるんだってさ」
「えええええっ」
 僕があまりにがっかりしたせいだろうか。少年はぷっと軽く吹き出した。
「運動部と文化部、ひとつずつ所属しろって書いてあったから、科学部と弓道に入るつもりだったのに」
 僕がつぶやくように言うと、少年はへえっという顔をした。
「俺も弓道だ。家に道場あるから、あんまり部活に出る予定じゃないけど」
「家で弓引けるなんてすごいね。お父さんが弓の先生か何かなの?」
「いや。うちが神社で、神事とかで必要だから5歳から引いてる」 
「へええ。僕は9歳で始めた」
「ふうん」
 少年は、やっぱりこっちをジロジロ見ていたが、急に尋問は終わり、というように図書館の方を振り返った。

「もう日が暮れた。俺たち、帰らないと」
 僕は慌てて腕時計を見た。もう7時近い。
「ごめん。僕も帰らないと」
「いろいろ質問あるだろうけど、今度な」
「うん。でも二つ教えて」
 少年はまたじろっと睨む。小柄なのに何だか迫力というか存在感あるなあ。神社の子だからだろうか。
「何だ」
 変な質問したら、また警戒されるかもしれない。僕は慎重に言葉を選んだ。
「この生き物の名前、何?」
 僕は腕を伸ばして透明なサンショウウオをあやしながら聞いた。
「俺たちは、ホタルって呼んでる」
「へええ。ホタルかあ。うん、何かぴったり。水好きそうだし」
「もうひとつの質問は?」
 こんなこと、聞いたら怒るかな。でも織居くん、だと桐花ちゃんのことと混同しそうだし。
「ええと。君のこと、何て呼べばいい?」
 
 少年は今度ははっきりニヤッと笑った。ちょっと口を歪めるような、斜めな笑顔だけど、これはやっぱり笑ってるんだと思う。
「銀、と呼ばれてる」
「ああ。髪が銀色だもんね。銀ちゃん、4月からよろしく」
 銀ちゃんは、ちょっと面食らったような顔をしたが、またニヤッと笑った。
「うん。4月にな」
 そうして、口笛を細く長くリーと鳴らした。ホタルたちはにょろにょろ池に帰って行った。
「桐花ちゃんもよろしく。またどっかで会えるかな?」
 僕はちょっと屈んで女の子の方に挨拶した。すると、途端に銀ちゃんの態度が硬化した。
「お前、妹に手を出すな。ロリコンか」
「ち、違うよ。でも銀ちゃんより前に桐ちゃんに会ったわけだし」
「桐ちゃんとか言うな。桐、もう帰るぞ。あいつには近づくなよ。ロリコンだぞ」
 銀ちゃんは、桐ちゃんの腕を掴んで図書館の自転車置き場の方に歩き出した。

 引っ張られながら、桐ちゃんはこちらを振り返った。まだちょっと困ったような顔をしている。
「克昭さん、さようなら。おやすみなさい」
 ぺこっと頭を下げた。ずいぶん、行儀のいい子らしい。
「うん、さよなら。またね」
 僕は手を振った。
「桐、行くぞ。いいか、あいつには気をつけろ。桐は可愛いんだからな。男はオオカミだぞ。だいたい池に行く時は俺を呼べって言っただろ」
「でも」
 2人の会話がだいぶん遠ざかっても、まだ銀ちゃんが小言を言う声が聞こえていた。妹がよっぽど可愛いらしい。無理もない。確かに、桐ちゃん、可愛いもんな。ホタルも可愛いし、それに銀ちゃんも可愛い。
 新学期が楽しみになって来た。科学部がテーマ変更したのはがっかりだけど、弓道部は楽しくなりそうだ。池にまた行っていいのなら、サンショウウオを探せるかもしれない。それにもしかしたらまたホタルに会えるかも。
 僕はこっそりまた下手くそな口笛を吹いてみた。でも今度はホタルは来なかった。僕はそのまま口笛を練習しながら家に帰った。


  ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   


 休み時間というのに、教室の中は静かだった。今日の午後、物理のテストがあるからだ。
 中間テストにはまだ早いが、高校に入って初めて遭遇した運動方程式というものにあまりに僕らが呆然として全面降伏状態だったもので、物理の先生が業を煮やしてテストと相成った。お茶の水先生は、飛鳥高校の名物だ。大きな丸い鼻にもじゃもじゃ白髪。額は禿げ上がっていて、後頭部に残った白髪がもじゃもじゃと耳の後ろに鳥の巣を作っている。お茶の水先生のテストは”わんこテスト”と呼ばれていて、B6の紙に1問しか書いてない。できたら手を上げると次の問題が来る。回収したテストが間違っているとやり直し。最終的に何問目までクリアしたか、が評価になるわけだ。
 定期試験じゃないから内申書に関係ないぞーと言われたが、進学校の生徒はみんなどんなテストでも赤点を取りたくない面々ばかりだ。みんな思い思いに教科書や問題集にかがみ込んで、ブツブツ勉強している。そんな中で、僕の席の周りに座る3人は異色だった。

 僕の席は窓際だ。中庭の池と木立が見えて、お気に入りの席である。余った椅子を持って来て僕の机にノートを広げているのは、1学年上の身体の大きな先輩だ。
「石元さん、こんなところで勉強しないでください。僕ら、テストあるんですよ」
「俺らやてテストあるんや。1年のテストと2年のテストは重みが段違いやんか。一緒にすな」
「だったらちゃんと教室で勉強したらいいでしょ」
「見捨てるなや、克昭。薄情なやっちゃな」
「1年坊主に習いに来ないでくださいよ」
 もちろん僕は2年生に数学なんか教えられない。石元さんが助けを求めたい人間は、2人とも忙しくて相手をしてくれないものだから、僕に絡んでいるのだ。その2人とも窓際の列。僕の前後に縦に並んでいる席だ。

「おい、トンすけ」
「トンすけ言うな」
 決まり文句の応酬をした後、僕の後ろの席のトンちゃんこと織居鳶之介は不思議な記号の並んだ紙から目を離さず、ブツブツ言いながらmp3プレーヤーのイヤホンから聞こえる謎の音楽に集中している。
「中間で赤点やったら補習確定なんや。俺、主将なのに」
 身長182cmのバスケ部主将が情けない声を出して、身長163cmの1年生に泣きついている。
「弘平が学期最初の試験で赤点4つも取るからやろ」
 トンちゃん改め銀ちゃんは、幼馴染の先輩にため口である。どうやら石元さんの高校受験も1年次の勉強も、ずっと面倒みていたらしいのだ。僕らと話す時には出ない方言が、この先輩相手にはぽんぽん出て来る。
「中間なんかまだ先やんか。俺のはこれ、今日本番やもん」
 銀ちゃんは由緒ある神社の息子で、笛の名手。他所の神社のお神楽や儀式にも引っ張りだこらしい。
「初めて出るとこなの?」
「なんか、50年に一度の祭りらしくてさ。そんならもっと早く言っといて欲しいよな」
 銀ちゃんの笛の音には特別なパワーがあるらしく、こんな風に頼りにされているようなのだ。
「去年からこんな話ばっかりだよ。異常気象だの地震だの、誰それが行方不明だの、謎の風土病だの、とにかく心配でうちの神社に相談に来る。普段は毛嫌いしてるくせにさ」

 行方不明。その言葉に僕と石元さんと銀ちゃんの視線は、前の席ですうすう眠っている月城豊に集まった。クラスのほとんどの生徒は知らないことだが、豊くんは去年行方不明になっていて、今年、もう一度僕らと同じ1年生をやっている、つまり留年生なのだ。入学最初の試験で学年トップを取ったので、当然クラス委員長に任命されるところなのに、留年生だからと免除された。このクラスで成績2番手が、甘える石元さんをケンケンいなしている銀ちゃん。彼の場合、家業が忙しくてしょっちゅう休むので、これも委員長を免れた。
 というわけで、現在クラス委員長の井堰くんは僕の前後の2人に風当たり厳しい。
「おい。飼育係。シロシロコンビをテストまで逃がすなよ。再試とかになったら面倒だ」
 飼育係とは僕のこと。シロシロコンビとは、銀ちゃんと豊くんのことである。銀ちゃんはほとんど白に近い銀色の髪。豊くんは少し虹色がかった不思議な透明感のある白い髪。どういうわけか、入学当初からこの成績優秀だけど浮世離れした2人の問題児と縁があって飼育係に任命された。
「豊あー、ここ、ちょっと見てんか。これ、どうなっとんねん」
 石元さんは豊くんをむりやり起こして、自分のプリントを見せている。豊くんは半分寝ぼけながら、スラスラ2年生の基礎解析を解き始めた。あっという間に全問片付けて、またすうすう眠ってしまった。
「トンすけー」
「トンすけ言うな。コロッケおごれよ」
「メンチカツも、豚バラ串もつける」
 肉屋の石元さんの報酬に負けて、銀ちゃんは豊くんの解答を解説し始めた。
「ほー、なるほどなー」
「この演習問題、ここんとこ、同じ定理やろ。ちょお解いてみ」
 石元さんに宿題を出して、やれやれ静かになった、とまたお囃子の勉強に戻る。僕の前の席では豊くんが気持ちよさそうに寝息を立てている。まったく変な連中と仲間になったものだ。

 図書館はアールデコなのに、校舎は素っ気ない鉄筋コンクリート。以前は図書館と同じレトロな建物だったのに、耐震構造が不十分ということで20年ほど前に建て替えになったそうだ。
 僕は結局、科学部はあきらめて弓道部と図書部を選んだ。図書部というのは図書館の運営を手伝う図書委員とは違う。図書館の蔵書を研究したり紹介したりする部らしい。蔵書の小説から脚本を起こして劇にした代もあったそうだし、広報誌や新聞を作ってもいい。けっこう自由な分、熱心な部員が少ないと有名無実になりやすい。僕はとにかく図書館にいられればそれで良かった。
 科学部は銀ちゃんの言った通り、今年から3年間物理テーマらしい。物理の好きな銀ちゃんは科学部と弓道部に登録した。でも僕が見ている限り、ユニホームだのコロッケだの、報酬に釣られていろんな運動部の手伝いに行っているようだ。一番引っ張り出されているのは、石元さんが主将をしているバスケ部。他に陸上や水泳にも数が揃わない時に、大会に駆り出されている。何せ進学校なので、名前だけ所属している幽霊部員ばかりなのだ。豊くんは、もちろん石元さんに引きずられてバスケ部。そして図書部。もちろん閲覧室でも書庫でも、その時一番日当たりのいいところで丸まって猫のように寝ている。そのくせ、書架のどこに何の本があるか図書委員より把握しているし、とんでもない本の内容をさらっと教えてくれる。髪の色のように不思議なコだ。石元さんは幼稚園の頃から豊くんと仲良しらしい。

 桐ちゃんとは思いのほか早く再会できた。桐ちゃんは飛鳥高校附属図書館の常連なのだ。大型の図版がぎっしりついた博物学の図鑑や版画集をよく見ている。図書室で会うと声をかけるようにしているが、桐ちゃんの方は挨拶を返してくれるものの、やっぱり警戒している。出会いが悪かったから仕方ない。
 ある時、重い版画集を3冊も運ぼうとしていたので、思わず「手伝うよ」と本に手をかけた。
「あ」と声を出して、それからうつむいて、「あの」と少し逡巡した後、ぼそっと「ありがとうございます」と言った。何だかかえって悪いことしたような気分になってしまった。
「書架に返すの?」
「はい。禁帯出なので」
「この間もこの、魚の巻と貝の巻、見てなかった?」
 桐ちゃんは、しばらく言葉に詰まった。しまった。ますます警戒されたか。
「禁帯出なので」
「そっか。でも好きな本を居心地いい場所で読めるっていいよね。ここの閲覧室、気持ちよくて好きなんだ」
「そう……ですね。私も」
 言葉を切ったので、”私もここが好きです”と続くのかと思った。ところが、ぽつんと
「ここにいると、いろいろ忘れられます」
と言う。小学1年生の子が、こんな悲しいこと言うなんて。僕は何と返していいかわからない。
 桐ちゃんははっと顔を上げた。話し過ぎた、という表情。
「あ、ええと。珍しい本がいっぱいあるから。何だか外国みたいで」
 珍しく笑顔を見せてごまかそうとしているのも痛々しい。
「外国……行ってみたい? 行ったことある? どこ行きたい?」
 僕も追求するのが可哀想で、話題を変えた。

「私と桐はね、パスポートに入国スタンプが12あるのよ。カナダとイギリス、フランス、スイス、イタリアには3回、クロアチアに3回。ルクセンブルクもオーストリアも行ったわ」
 僕たちの後ろに桐ちゃんとお揃いの制服を来た女の子が仁王立ちしていた。僕はいつも桐ちゃんの護衛に警戒される立場らしい。
「みっちゃん。ピアノ終わったの?」
「うん。それで、あんた誰」
 仁王立ちしている小学生は、桐ちゃんとは違うタイプの美少女だった。桐ちゃんと同様、一見中学生か高校生でも通用しそうに大人びた雰囲気。でも純和風に黒髪黒い瞳の桐ちゃんと対照的に、真っ白な髪に朱色の目。ヨーロッパ風の顔立ちだった。
「僕? 正田克昭。銀ちゃんと豊くんと同じクラスなんだ」
「へえ。トンスケの」
 女の子は容赦なく僕をジロジロ見ている。
「克昭さん。この子、従姉妹なんです。同い年で、名前は佐伯魅月」
 桐ちゃんが説明してくれた。
「それでみっちゃんなのか」
「そうよ。ついでに言うとイタリアのクォーターで、この髪と目は父親に瓜二つ。だから自慢なの。何か質問ある?」
「ふうん。綺麗だね。銀ちゃんとも豊くんとも違う色」
 みっちゃんは、僕の間抜けな感想に毒気を抜かれたようだ。
「ピアノ弾けるの?」
 ”何か質問ある?”と言われたので質問してみた。
「4歳からやってるの。今は2声のインベンションよ」
 鼻息荒く言われたが、僕にはよくわからない。
「英語とイタリア語は日常会話レベルよ。今、フランス語習ってるの」
 今度はさすがの僕でもわかった。
「すごいなあ。どこでも行けるね」
「桐と世界征服するの」

 何だか初対面の女の子に張り合われている気がする。何に対してライバル意識を持たれてるんだろう。僕は日本語も怪しいし、辛うじて音符が読めるレベルだ。

 桐ちゃんの方を見ると、何だか困った顔をしていた。僕はどうやらいつも桐ちゃんを困らせてしまうらしい。
「桐ちゃんもピアノ弾くの?」
「あ。え、はい。みっちゃんとか母に習って。簡単な曲だけです。でもピアノの音が好きで」
「そっかあ。銀ちゃんも笛うまいし、いいね、みんなで音楽できて」
「え。あ、はい。そうです」
 うつむきながらも、自分のことを話してくれるのがうれしい。でもやっぱり困っているようだ。思わずニコニコしてしまった僕の顔を、みっちゃんがジロジロ睨んでいる。

 こんな感じで、みっちゃんや銀ちゃんは、僕が桐ちゃんに馴れ馴れしくしないように保護者意識むき出しでガードしてくる。銀ちゃんは教室では普通なのに、桐ちゃんが間に入ると途端に僕に厳しくなる。そして桐ちゃんはいつも困っていて、なかなか警戒を解いてくれない。

 ホタルにもあれ以来会えない。朝、学校に来て教室に入る前、それから放課後に図書館か弓道場に行く前と後、一日三回、あの北側の池をのぞくのが日課になってしまった。時折、リリリーという声を聞いたような気もするけど、光る球を見ることはなかった。桐ちゃんがいる時に居合わせたらまた見れるだろうと思うけど、また困らせたくないので、池に近づく前に周囲に桐ちゃんがいないことをよく確認する癖もついた。

 あの日みた、あの踊りの意味もまだ聞いていない。桐ちゃんから話してくれない限りは、僕から聞かないと決めた。あれはやっぱり僕なんかが見てはいけない、何か大事な意味のある踊りだったに違いないからだ。
 
 中間テスト前で部活休みになった日、シロシロコンビが2人そろって休んだ。クラス委員長の井堰くんが、僕に試験範囲や試験の注意事項なんかを書いたプリントを2枚押し付けた。
「飼育係。あいつらに渡しといてくれ」
「え。どこに届ければいいの?」
「あの人に聞けよ」
 井堰くんがくい、と親指を曲げた先に石元さんがいた。

「あいつら、薄情なやっちゃな。俺が赤点取って補習になってもええっちゅうんか」
 石元さんがブツブツ言いながら僕のクエストに付き合ってくれた。あの2人にテスト勉強を手伝わせるつもりだったらしい。石元さんが徒歩なので、僕もチャリを押しながら並んで歩いた。
「家、近所なんですか?」
「ああ。俺と豊は同じ商店街で、トンスケの神社の参道沿いなんだ。徒歩15分」
 高校から石元肉店まで徒歩20分。そこからまず2辻向こうの豊くんの骨董店に行ってみた。店のガラス戸が閉まっていて、中は真っ暗だ。豊くんはこんな風に時々ふらっと学校を休む。そんな時はメールにもチャットにも出ない。
「ま、トンスケは確実や。神社行こ」
 参道を歩き出す前に、石元肉店に戻って揚げ立てのコロッケをひとつずつもらった。絶品だ。歩きながらはふはふ食べる。

 銀ちゃんのうち、住吉神社は小高い丘の上にある。商店街からなだらかな坂道を上って、さらに72段の石段を登らないといけない。参道からお社の赤い鳥居が一直線に見えている。この町はあの杜に守られてるんだな、と素直に納得してしまう地形である。
 石段は真新しい白い石の部分と、割れてて黄色いテープやポールで”足元注意”と囲ってある部分とでまだらになっていた。

「去年、地震あったやんか。これ、そん時割れたんや。上から下まで真っ二つに」
 石元さんがぽつんと言った。
「去年の夏休みの?」
「それや」
 その地震ならよく覚えている。停電が丸一日続いて、暑い盛りだから病院のエアコンが動かなくて、重態になった赤ちゃんやお爺ちゃんがいたのだ。あの時、夜空が光った。音のない、雷みたいに空から地面に一直線に太い光の柱が走った。その直後にズズン、と揺れて電気が消えた。
 あんなに強い光だったのに、家族は誰も見ていないと言う。不思議だったがそれどころじゃなくて、忘れていた。あれは不思議な地震だった。活断層なんかで予想されていた地域と何の関係もなく、まるで地下で爆弾でも爆発させたかのような、突発的な揺れだったそうだ。
「豊な、あの地震の後、ふいといなくなったんや。そのまま、春まで帰って来なくて留年扱いになった」
「地震と何か、関係があった……?」
「わからん。あいつ、何も言わんし。説明されても、俺アホやからわからんかもしらんし」
「……」
 石元さんは、どういうわけかあったばかりの僕に豊くんのことをいろいろ話してくれる。信用してくれてるのだろうか。
「克昭、お前、トンスケとか桐ちゃんと仲ええやんか。豊も何かお前に懐いとるやろ」
 懐いているというんだろうか。豊くんは割と誰とでもすぐ仲良くなる方だと思うんだけど。でも、そうだ。豊くんには、人に絶対踏み込ませない、何か秘密の部分がある。触ってはいけない場所がある。付き合いの浅い僕でもそれがわかった。石元さんは、勉強教えろとか弁当寄越せとかダメな先輩の振りをして僕らの教室に押しかけながら、いつも本当は豊くんを心配して見に来ているのだ。豊くんがまた消えてしまわないように。
「あいつ、猫みたいなもんでな。ピリピリ怖いとこには絶対寄らん。お前は生まれつき、飼育係みたいやな。動物とか子供に警戒されんやろ」
 確かに動物には懐かれやすいかも。野鳥とかトンボとか、よく止まられるし。でも桐ちゃんにはなかなか警戒を解いてもらえないけど。
「僕に……何かでいると思います? 豊くんとか桐ちゃんのために?」
 石元さんは、何だかぼんやりした表情でこちらを見た。こんな顔、初めて見たかも。いつも調子良くて陽気な先輩なのに。
「何もせんでええ。ただ一緒におったってくれ」
「……」
「俺には何もわからんけど、何かが起こっとんやと思う」
「何か?」
「ようわからんけど、人に説明できん、何かおかしなことが、この町にはずっとあんのや。トンスケのうちの人とか、豊は、そのようわからん事情に振り回されとる」
「それが、あの2人がよく学校を休み理由?」
「わからん。そうかもしらんし、そうやないんかもしらん」
 
 石段の途中で立ち止まって、石元さんは商店街の方を振り返った。
「この参道周りの人間は、子供の頃からようこの神社のこと聞いて育つんや。お前はどうや?」
「僕は……ちょっと離れた校区だったし……」
 でもこの神社のことは知っていた。天狗が出る山だと聞いていた。そして牛若丸が住んでるって。弓と笛の上手な牛若丸が、あんな可愛い顔してて、可愛い妹とか変な友達とか変な先輩がいるとは知らなかったけど。
「この先、何か変なもん見たり、何かけったいな話聞いたりしても、あいつらと……一緒におったって欲しいんや」
 変なものなら、もう見た。けったいな話も、実を言うとすでにいろんなところから聞いた。
「石元さん」
 言いにくいことを頼むように、言葉を選んで話す先輩に、僕はまっすぐ向き直った。
「僕、今のクラス、気に入ってるんです。高校の建物も、先生とか、図書館とか、池とか、全部気に入ってるんです。銀ちゃんも、豊くんも」
 それに桐ちゃんも。
 どういう事情にどんな風に巻き込まれて翻弄されているのか、まだわからない。でもこの町には、何か不思議なことがある。
「ついでに先輩も。一緒にいて、楽しいです」
 うん。不謹慎かもしれないけど、楽しい。僕はわくわくしてる。少し怖い部分もあるけど、ビビって遠ざかるには、この新しい仲間は魅力的過ぎる。
「だから、まだ事情はわからないけど、できるだけ味方になりたいです。銀ちゃんとか豊くんの」
 石元さんが、ほっとした表情をしたのがわかった。お調子者のようで、いろんな気遣いをしている人なのだ。
「ほうか」
 ニカッと笑って、僕の背中をどしんと叩いた。
「ほんなら、またコロッケおごったる」
「ありがとうございます。これ、ほんと、美味いですね」
「ほやろ。あいつらにも食べさせたろ」
「20個も?」
 石元さんの胸元にはホカホカまだ温かいコロッケの紙包みがある。
「あっという間や。トンスケのとこは大所帯やし、試験勉強するなら夜食も要るやろ?」
 けろっといつもの先輩に戻って、ケラケラ笑っている。それにしても。
「先輩、豊くんのこと、大事なんですね」
「へ?」
「すごく心配してるし、いつも気にかけてるんでしょ」
 友情というより、お姫様を守る騎士みたいだ。でもそう指摘するとイヤがられるだろうな。
「あいつ、親がめったに家におらんし、何か変な家やし、祖父さんも変やし、俺とか岩木先輩とか、商店街の連中で面倒みたっとんや。トンスケんとこも、いろいろあるし、そんで面倒みたらな、思て」
「ふうん。いいなあ」
 森と池とお城のある高校に入ったおかげで、牛若丸の住んでいる変な森の風変わりなコミュニティの一員にされてしまったらしい。まあ、楽しいからいいや。桐ちゃんと仲良くなるにはもう少し時間がかかりそうだけど。

 石段の天辺に着いた時、ちょうど大鳥居から参道へ真っ直ぐにオレンジ色の太陽の道が出来ていた。銀ちゃん、神社にいるかな。豊くん、いるかな。桐ちゃんに会えるかな。クラス委員長のパシリにされた割に、僕はけっこう愉快な気持ちで鳥居をくぐったのだ。
 


  ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇ 



 街を見下ろす石段の天辺まで上がったらすぐ境内が広がって社殿が見えるのかと思ったら、そこは照葉樹に囲まれた前庭だった。石段から続く大きな四角い石の並んだデコボコの石畳の道。その両側に掃き清められた白砂。右手にこじんまりした家が一軒、大きなこんもり茂ったエノキの木の影に建っていた。
「あそこが銀ちゃんのうちですか?」
「いや、あっこは……」
 僕の質問に石元さんが説明しようとしたところで、照葉樹林から鶏が三羽出て来て僕らを取り囲んだ。


「あかん、こいつら全部メンドリや」
 石元さんが慌ててキョキョロしてヤブニッケイの太い枝に止まったオンドリを見つけた。
「こいつ、トンスケの友達や。トンスケに用事あんのや」
 言葉が通じるかのように、オンドリの釈明している。オンドリは二、三度首を動かして話を聞いていたが、バササッと派手な羽音を立てて僕の足元に降り立った。
「あ。ええと、正田です。あの、桐ちゃんとも知り合いです。銀ちゃんいますか?」
 僕も先輩に習ってオンドリに説明した。オンドリはコ、コココ、と鳴きながら僕と先輩の周りを一周して怪しいところがないか点検しているようだ。
「大人あにしとけよ。こいつに蹴倒されて、頭5針縫ったヤツもおるんやけ」
 声を潜めて僕に言う。このニワトリ達は、どうやら神社のセキュリティーガードらしい。そして、頭5針縫ったのは先輩本人に違いない。
「あの建物は、咲(えみ)さんの和裁教室や。お花とかお茶も教えとる。咲さんいうんは、トンスケのお祖母ちゃんや。サクヤさんも弟子で、ここで子供に教えとる。サクヤさんいうんは」
「銀ちゃんと桐ちゃんのお母さん、ですね?」
「そや」
 銀ちゃん達の会話に時々出て来るので、名前は知っていた。銀ちゃんは母親を名前で呼んでいるらしい。
「会ったら驚くで」
「そうなんですか?」
「トンスケ、ものごっついマザコンでシスコンやろ。その元凶や」
「なるほど」
「目を引く美人てわけでもないけど、なんちゅうか、麗人、て感じや」
 そんな単語が石元さんの口から出て来ると思ってなかったので、いささかびっくりした。そうだよな。この人、そういえば、うちの高校に合格したんだもんな、と失礼なことを考えた。
 和裁教室の横手から麓に下りる車道があって、その途中に駐車場や弓道場があるらしい。

 話しているうちにセキュリティチェックを合格したらしく、鶏の一団はまた森へと帰って行った。僕らのクエストは続く。石畳の終点にまた石段があって、山門を潜る。そこでもまだ本殿は見えない。
 石畳とその両側に並ぶ杉の巨木が続く参道だった。前庭とは空気が違う。シンとしている。参道の左手に、石畳から一段高くなった木の柵としめ縄に囲まれた区画があった。囲みの中心は太い切り株だった。真っ黒に炭化して、まるで化石のように見えた。大人三人の両腕でようやく囲めるほどの太さ。その幹が、大人の背丈よりちょっと上ぐらいの高さで折れて、その裂けた痛々しい断面もそのままにガラスに封じ込めたような真っ黒いツヤツヤ光る切り株になっていた。その根元から染み出した水を樋で石の手水桶に引いてあった。桶の周りに白木の柄杓が並んでいて、樋の横に”桂清水”と書いた札が立ててある。
 ハンチングをかぶった年配の男性がポリタンクを2つ並べてその水を汲んでいた。石元さんと顔見知りらしく、おう、と挨拶する。
「銀ちゃんとこに遊びに来たんか?」
「そうです。おっちゃん、それ、夕方の分?」
「ほうや。桂清水の水出し珈琲、けっこう好評でな」
 商店街の喫茶店のマスターらしい。
「この清水は2000年前から湧いとんやで。その頃はまだ桂の樹が生きとって、琵琶湖からでも見えるぐらいの大木やった」
 マスターは、珈琲の宣伝文句らしいウンチクを説明してくれた。琵琶湖から見える、は大げさにしても、これほどの切り株ならなるほど大樹だったに違いない。この湧水が綺麗な小川となって流れ下り、僕らの高校のあの池まで続いているらしい。今度珈琲飲みにおいで、と誘われた。
 桂清水のある参道の奥にお札所があり、そこからさらに石段を上がってまた山門をくぐり、ようやく社殿にたどり着いた。毎日この坂を上り下りしてたら、そりゃあ銀ちゃん、足腰強くなるなあ。僕は軽く息が切れていた。本殿から水色の袴を付けた50絡みの男性が出てきた。お供え物らしい野菜と米の載った木の台を持っている。こちらを見つけてにっこり笑って会釈してくれたので、こちらも会釈した。
「あの人が銀ちゃんのお父さん?」
「ちゃう。禰宜さんの山本さんや。トンスケの親戚らしい」
「ふうん」
 二人で話しているうちに山本さんがこちらに歩いて来た。
「こいつ、トンスケのクラスメイトで、試験のプリント届けに来たんやと」
「そうですか。銀ちゃんの」
 山本さんはまたにっこり笑った。
「あの、銀ちゃんは」
 僕が聞くと、山本さんはまたにっこり笑った。
「まだ、枝社の方にいるので、母屋の方で待たれては」
 仕事中か。なら、ジャマしたら悪いかな。
「月城豊、来てませんか?」
 先輩が聞いた。
「ああ。豊くんね。いらしてたと思いますが、まだここにいるかは」
 山本さんが首を傾げたところに、本殿の横手からドオンと音がした。そして光。まっすぐに空に続く光の太い柱。僕は去年の夏休みの地震を思い出した。思わず石元さんを振り返って、
「先輩、今の音」
と聞くと、石元さんも山本さんもきょとんとしている。
「音て?」
 去年の夏休みと同じだ。家族はあの光を見なかったという。あの後、豊くんが行方不明になった。あの時、この神社の石段が割れた。あの地震。今は音だけで揺れなかったけど。だけど。

 僕は音がした方に走った。急に走り出した僕にびっくりして、先輩と山本さんもついて来た。

 本殿の奥、太い杉の並ぶ、すでに夕闇で薄暗い一角に小さい社があった。黒い屋根に赤い柱と壁。木の階段で境内から上がれるようになっている。そのお社全体が光っていた。
 またドオンという音がして、今度は地面が揺れた。お社から涼やかな笛の音。
「銀ちゃん!」
 
 僕は何も考えず、社の階段を上がって赤く塗られた戸をタン、と開けた。

 四畳半ほどの拝殿の中に、5人の人がいた。
 銀ちゃんは初めて見る神主姿。床にあぐらをかいて笛を吹いていた。その横にやはり神主の装束の無精ひげの男の人。そして巫女姿の桐ちゃん。これも初めて見る。以前、池で見たように三色のリボンがついた金の鈴と枝を持っている。そしてもうひとり、巫女姿の女の人。桐ちゃんと同じ鈴と枝を持って、桐ちゃんと向かい合って踊っていたようだ。

 そして4人の人の奥、木の台に枝やお酒がお供えしてあって、その中央にまん丸い鏡が綺麗な布の上に飾ってある。その台の前に横たわる人影があった。

 直立不動で胸の上に手を組んでいた。その手の下に太い刀が置かれている。全身が眩く光っていた。剣を手に目を閉じて輝いていたのは、豊くんだった。


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