
私は3度、竜宮に下りたことがある。一度めは私が生まれた時。もちろん覚えていない。母が竜宮まで下りて、竜宮さまに頼んで私をもらって来た、と話してくれた。二度めもあまり覚えていない。やはり母が一緒だった。竜宮に落ちた2歳の私を、母が迎えに来てくれた。その後、なかなか昏睡から覚めない私を起こしてくれたのが鷹ちゃんだ。
三度めは、鷹ちゃんが連れて行ってくれた。この時の記憶はとても鮮明に残っている。私が11歳の時。何がきっかけだったか思い出せないが、その頃とても息苦しくてしんどかった。私は泣けない。怒れない。いつも飲み込んで、何もなかったフリをしないといけない。クラスで話の出来る子がいなかった。先生は“悩みがあるなら話しなさい”と言うけど、言えるはずがない。両親も叔父や叔母、従兄弟たちも気にかけてくれるけど、心配かけたくない。萎縮して、圧迫されて、息が出来ない。大きな声で叫んで、何もかも引き裂いてしまいたい。そう思っていた時、寺の宿舎の窓をコツコツ軽く叩く音がした。すぐにわかった。鷹ちゃんだ。こんな夜に、二階の窓を外からノックするなんて、鷹ちゃんかピーターパンしかいない。
“草刈りの手伝い、してくれない?”
こんな夜に? でももちろんOKだ。鷹ちゃんの誘いだったら、つまらないはずがない。きっと何か必要なことなのだ。
私が窓枠によじ登ると、鷹ちゃんが私の手を取った。本当にピーターパンみたい。鷹ちゃんと手をつないで、月夜の空を飛ぶ。これだけで、他に何もいらないと思えるくらい爽快だった。友達なんかひとりも要らない。鷹ちゃんさえ、私のことわかってくれているなら、それでいい。
“竜宮のこと、どのくらい覚えてる?”
空を浮きながら、鷹ちゃんに聞かれて首を傾げた。本当はけっこう気温が低いし、風も吹いている。でも鷹ちゃんがシールドで守ってくれているので、平気だ。初めて一緒に飛んだ時は、怖くて鷹ちゃんにしがみついてしまったが、もう慣れた。私の身体の空間ごとシールドで包んでくれているので、例え鷹ちゃんが手を離しても落ちることはない。
「あまり細かいことは覚えてない。すごく明るくて、色とりどりの花とか小鳥? 魚? たくさん飛んでて、それに星が見えてて」
“そうか”
鷹ちゃんがホッとしたように笑った。鷹ちゃんはいつも笑っているけれど、本当に心の中まで笑っているわけじゃない、と私はだんだんわかって来た。私と同じだ。鷹ちゃんは怒らない。泣かない。そして声を出さない。声に出してしまったら、竜宮さまが起きるから。
“じゃあ、入ったことのあるのは、入口だけなんだね、多分”
「そうなの?」
“うん。でも都は帰り道を覚えた方がいい。都は俺にすごく近い存在だから”
鷹ちゃんに近いと言われて、内心うれしかった。でもそれはとても危険なことなのだ、多分。
“都は小さい時に、立て続けに竜宮に下りたからね。あそこに馴染み過ぎるのはよくない。まだ小さくて、こちら側に道標を持っていなかったからね。でも、今は違うだろう?”
「道標?」
鷹ちゃんはいつも独特の話し方をする。でも私は鷹ちゃんの話のイメージをすぐ掴むことが出来た。鷹ちゃんは言葉を使っていない。直接に私に気持ちを伝えてくれるのだ。
“好きなもの。好きな友達。好きな風景”
道標−−−私をこちら側に繋ぐもの。帰り道を示すトレーサー。捨てたくないと思うもの。そんなもの、私にあるだろうか。両親の住む神奈川と、秩父の山里のお寺の行ったり来たり。街にも田舎にも居場所がない。友達なんかいない。どんな風景にも、私は融け込めない。私はどこに行っても、『異質』だ。私をわかってくれるのは鷹ちゃんだけだ。今の生活の全てを捨てたら、鷹ちゃんとずっといられると言われたら。私は迷わず何もかも捨てただろう。でもそんなこと出来ない。そんな風に鷹ちゃんに縋っても、困らせるだけなのはわかっている。
鷹ちゃんと私は近い。鷹ちゃんは銀色の髪に明るい鳶色の瞳。光りが射し込むと、眼が金色に見える。私は明るい栗色の髪に、金や銀のメッシュが入っている。眼は明るい褐色で、斑に薄い緑色。校則違反などしたことないし、成績もいつも上位をキープしているのに、この外見のせいで学校の先生から問題児扱いされている。実際、問題はこんな外見だけじゃないのだ。私は“視える”。そして“飛べる”。普通の子供たちにはない力を持っているのだ。感情に任せて怒りを露わにしてしまったら。何が起こるかわからない。学校の窓ガラスをすべて割り、校舎の壁を引き裂いて、黒板を突き破って妖魔を顕現させてしまうかもしれない。だから私は泣かない。怒らない。何をされても、何を言われても、へらっとやり過ごす。この私の態度に、級友たちがますますイラ立っているのはわかっている。でも、だからって、どうすればいい?
鷹ちゃんと私は手をつないで、月に照らされた河畔公園に下り立った。木立のせいで、土手の上から私たちの姿は隠されている。それに木立がなかったとしても、私たちはシールドに包まれているから、人から見られることはない。
鷹ちゃんは、私の手をつないだまま月を仰ぎ見た。
“約束して欲しいんだ”
「何を?」
“これから、竜宮の入口を教える。でも絶対に一人で下りないって、約束して”
「でも」
“今日はいい。俺が一緒だから。俺や希が一緒だったら、帰って来れる。最悪、俺とか希が竜宮を墜ちて、何としても都をこちらに帰すから”
「でも!」
“今にきっと、これから都の世界が広がって、友人や大事な人間が出来る。失いたくない景色が見つかる。それが帰って来る道標になる。だから”
「でも!」
“今にきっと、見つかる。そうあって欲しい。そうなった都を見たい。今の都は……辛そうだ”
「……」
私は反論する気持ちが失せてしまった。私の負けだ。
“ドンちゃん、持って来てる?”
「うん。ここに」
私は首から紐を引っ張り出して、服の下の胸元に下げていた勾玉を鷹ちゃんに渡した。鷹ちゃんはひらりと飛んで、渓流の水面上に軽々と浮かんだ。左手に勾玉を持ち、右手をすっと横に伸ばすと顔の前まで手を運び、何かつぶやいた。そして手を足の方まで下ろすと、またすうっと身体の横まで弧を描いた。綺麗。なんて優雅なんだろう。銀色の髪がシールド内の反重力でふわっと浮き上がって、月光に照らされてキラキラ輝いている。腕の動きに招かれて、渓流の澄んだ水が大きな弧となって、鷹ちゃんを包んでいる。その水を浴びて、勾玉からドンちゃんが現れた。
ドンちゃんは本当はドナウと言う。水の精霊、ホタルの一個体だ。ホタルは彼岸と此岸を繋ぐ両棲類。淡く光り、綺麗な水を好み、水辺を飛ぶ。水が濁ったり、彼岸へと続く裂け目が歪んだりすると、ホタルは弱る。弱ったホタルが自身を守るための繭が、勾玉だ。力のある綺麗な石を見つけられなかった場合は、樹木に宿ったり、一時的に動物の身体に避難したりすることもあるそうだ。宿主や“付いた”主の調子が悪いと、さらに弱って繭から出て来られなくなる。そのまま数百年、眠りに落ちることも稀ではない。寿命の長いホタルにとって、数百年など一瞬の瞬きに過ぎない。なのにホタルはけっこう親身に人間に付き合ってくれる。基本的に好奇心の強い存在なのだろう。最近ドンちゃんが不調で石に引き籠もっていたのは、もちろん私のせいだったのだ。
月光を受けてキラキラ輝く水の雫が描く大きな弧の中で、鷹ちゃんとドンちゃんが両手を繋いでいる。鷹ちゃんがちょっと屈んでおでこをコツンとドンちゃんのおでこにくっつけると、ドンちゃんが目を覚ました。鷹ちゃんは気づいただろうか。ドンちゃんは髪が水色で腰に届くほど長いことを除くと、鷹ちゃんとそっくりなのだ。ホタルの姿形は、主の好みのイメージに従う。他の人間は、主と握手すると主のイメージを共有出来る。鷹ちゃんは私と握手したこと、あったっけ。握手かどうかわからないけど、手を繋いだことはたくさんある。今さっきも、この河畔まで手を繋いで飛んで来たのだ。第一、もし握手なんかしなくったって、鷹ちゃんには私のイメージなど筒抜けだろう。鷹ちゃんとは、私が生まれた時からの付き合いだ。私がそれが鷹ちゃんだと認識したのは2歳の、2度めの竜宮から戻って来てからだけど。私は鷹ちゃんに順応して、人格を組み立てた。だから、鷹ちゃんに心を読まれることを怖れない。だからこそ、私には鷹ちゃんの言葉がわかると知っているからだ。
ドンちゃんにも、くどくど説明しなくても鷹ちゃんの気持ちが伝わるようだ。河畔公園の少し周囲より盛り土した小高い丘の中心に、こんもり丸い樹冠を広げる榎の木を選んで、梢の枝にドンちゃんを座らせた。
“そんなに遅くならないから。ここで道標になってくれる? 都が帰って来れるように”
ドンちゃんは何か言いかけたように見えたけど、大人しく梢に腰を落ち着けた。
「ドンちゃん、ごめんね。ここで待ってて。ちゃんと帰って来るから」
今度もドンちゃんは何か言いかけた。でも何も言わず、ニコッと笑った。鷹ちゃんそっくりの笑顔で。
鷹ちゃんはふわっと私の手を取った。
“行こう。行くのは簡単だ。ほら、1、2、3”
本当に簡単だった。瞬きして気づくと、私は鷹ちゃんと手を繋いで花畑の上に浮かんでいた。花のように見えるけど、本当はサンゴ虫やイソギンチャクで、透明な水に射し込む日光を受けてゆらゆら蠢いている。そしてサンゴ礁の複雑な地形をすり抜けて泳ぐ、色とりどりの花のような魚たち。これらは明らかに太陽の光を受けていて、見上げると水面の向こうに青空や白い雲が見えているのに、不思議なことに頭上の天頂部分には天の川が輝いているのだ。
この不思議な景色は何となく覚えていた。2歳の私が、母に抱き上げられて、この星空や魚たちを見て笑った記憶があるのだ。母も私と一緒になって、星を見上げ、魚やサンゴを見回して、『そうね、綺麗ね。良かった。ここに帰って来れて』と微笑んで、私をぎゅうっと抱き締めた。その目に涙が溢れていた。2歳の記憶がそんなに鮮明なはずがない。母の話から想像した部分もあっただろう。それにしても、その想像の通りだった。
“ここは竜宮のオリエンテーションだからね”
鷹ちゃんが、私の驚きを察したように説明してくれた。
“人間は自分の想像を越えたものは認識できない。だからわかりやすいイメージに変換してるわけ”
「わかりやすい?」
“わかりやすい天国のイメージ”
確かに綺麗だ。綺麗で平和で夢みたい。でも、これがすり替えられたイメージなら、『本当の』竜宮は、この向こうにあるのだ。
“そう。よくわかったな。都はかしこい”
鷹ちゃんは、私の頭にぱふ、と手のひらを置いて、そのままぽんぽんと頭をなでた。私を励ますように。
11歳の私は鷹ちゃんと手を繋いで、オリエンテーションの向こうにある竜宮に足を踏み入れた。そして、ちゃんとドンちゃんの待っている月夜の河畔に帰って来た。あれから何年? 私は大人になった? 友人は出来た。世界が拡がった。知識も増えた。私は、こちら側に道標を持っているだろうか。私は世界を愛している?
今、また、ドンちゃんをマーカーに残して、竜宮に下りてゆく。今、私が竜宮に行っても、鷹ちゃんとの約束を破ったことには、ならないだろうか。鷹ちゃんは私を叱る? それとも褒めてくれる?
私は今、少なくとも澪さんの赤ちゃんを、こちら側に取り戻したいと思っている。だって、あの子はまだ何も見ていない。何も味わっていない。虹を見たことも、海のしょっぱい水に顔をつけたことも、鯛焼きのカリッとしたしっぽに噛りついたことも、日向ぼっこしているトラ猫の温まった毛皮を撫でたこともないのだ。そんなの、絶対にダメだ。
鷹ちゃん、私、行くわ。あなたとの約束を果たすために。あなたを見つけるために。
私はトレッキングシューズを脱ぎ散らかして、登山用靴下を足からむしり取って、明るいサンゴ礁の海に裸足で下りて行った。
帰って来るために。
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