白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

お化けの店のユタカくん

2019年09月27日 18時50分12秒 | 星の杜観察日記

ユタカくんとトンちゃんのやや能天気な高校生活の漫画はこちらこちら

下記のような深刻な事情があるように見えないな。

 

◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  


 そいつと初めて会ったのは例によって桜さんのせいだ。


 桜さんは俺の曾祖母なのだが、”ひい祖母ちゃん”などと呼ぼうものなら鉄拳が降ってくる。第一、うちは女ばかり祖母だの叔母だのいろいろいるので、”お母さん”の指す人物が呼ぶ人によって違うというややこしい事態になる。というわけで、我が家では女性は基本、個人名で呼ぶルールだ。

「トンちゃんっ。トンちゃん、ちょっと来てっ」
 禰宜の山下さんを手伝って榊を運んでいると、本殿の横手のお社から桜さんが切羽詰った声で俺を呼んだ。もっとも、桜さんはしょっちゅう切羽詰った声で俺を呼びつけるので、俺はまたか、と聞き流して山下さんのワゴンまで榊を運んだ。これからご町内の新築物件の地鎮祭なのだ。徹さんが土嚢をふた袋抱えて来て、ドスンとワゴンに積み込んだ。
「こら。忌み砂を粗末に扱う奴があるか」
 俺にはいつも優しい山下さんだが、長男の徹さんには厳しい。徹さんは大学生なのにもう神主の資格がある。うちの神社と、山下さんの実家の神社を行ったり来たりしている。
「おい。ピー助、奥様が呼んでるぞ」

 トンちゃん、トン介、ピー助といろいろ呼ばれているが、俺の名前は鳶之介という。父の名は鷹史。つまり”タカから生まれたトンビ”なのだ。サクヤは”あなたの目が鳶色だから”と言ってくれるけど、小さい頃から散々周りに”タカがトンビを生んだ”と言われているのでもう慣れっこだ。東京の方ではお囃子で使う笛のことをトンビと呼んだりするそうだ。だからもう、別にトンビでもいい。俺は笛を吹くんだし。でもトンちゃん、トン介というのは豚みたいでイヤだ。ピー助というのは、トンビがぴーひゃららと鳴くからだろう。さらにバカにされてる気がしてむっとしてしまう。
「ピー助はやめてください」
「行かなくていいのか、惣領息子」
 この惣領息子という呼び方も徹さんのイヤミなのだ。織居の家は女系家族。女が後を継いで婿を取るしきたりだ。俺の父の鷹史も、葵さんのダンナの亡くなった新さんも婿養子なのだ。だから俺も長男だけどいずれ外に出される。一族の男が大人になっても神社に残っていたら喰われるとか言う人もいるが、父も祖父も婿養子なのに死んじゃったんだしトンチンカンな説だと思う。どっちにしろ、この神社に男は不吉なのだ。
「いいんです。いつものことだし」
 俺はふくれっ面でワゴンの後部座席を倒して荷物室を広げた。こういう作業は好きなのだ。いつも手伝うから、レバーの操作もお手の物。俺がやりたがるので、山下さんはいつも任せてくれる。ダンボールに、紙垂(かみしで)、神籬(ひもろぎ)、注連縄(しめなわ)、玉串をくしゃくしゃにならないように気をつけて重ねて入れた。
「忌み竹は徹さんのバンで運ぶんですか?」
 山下さんと2人の時はもっと気楽に話すのだが、徹さんがいるとつい突っ張って敬語を使ってしまう。どうせ7歳の坊主が大人ぶって、とか思われてんだろう。面白がって余計にからかわれるのはわかっているけど変えられない。
「杭も掛矢も、幕もテントも祭壇も玉串棚もぜーんぶ積んだ。椅子と酒は工務店で持ってくる。お供えは施主さん。だからお前、奥様のところ行っていいぞ」
 俺はさらにむっとしてしまった。神社の跡取りだからって甘やかされてると思われたくない。7歳だってできることはいろいろあるんだ。サクヤが具合悪いんだから、俺がちゃんとしなくちゃ。
「銀ちゃん、行ってさしあげなさい」
 山下さんが俺の方に少しかがんで言う。子供扱いして頭を撫でたりしないのが有難い。そんなことされると余計にムカついちゃう。
「でも」
「奥様、お心細いんですよ。今朝またサクヤさんが倒れたし、ご自分も先週発作を起こしたばかりだし」
「でも地鎮祭が」
「徹にやらせますよ。この間みたいにポカやらかさないよう私が見張ってますから」
「オヤジッ」
 この間、徹さんは献饌(けんせん)で酒の蓋を地面に転がしてしまったのだ。地鎮祭に俺が行ったって、大したことはできない。自分でもよくわかっている。俺が狩衣つけて玉串を配るとオバサン、オバアサンに”あら可愛い”と言われて写真撮られるだけのことなのだ。もちろん徹さんを見張るつもりなんかない。
「ついてて差し上げてください」
「うん。すみません。後はよろしくお願いします」
 俺はぺこっと頭を下げて、お社の方に走った。
「トンちゃーん」
「すぐ行くー」

 うちの境内には主祭神の住吉さんの他に摂社の小さなお社がいくつか並んでいるが、桜さんがいるのはさらに小ぶりな末社だ。表に「丹生(にう)」と書いてある。丹生というのは水銀が採れる谷のことだと、葵さんが教えてくれた。葵さんはサクヤのお母さん、つまり俺の祖母で桜さんの次女。大学でジンブン学というのをやっている。

「どしたん」
「鏡ちゃんの紐が」
「紐?」
 桜さんは丹生神社の神殿でぺたっと座り込んでいた。手には青緑の鏡。鏡と言ってもガラスじゃなくてズッシリ重い金属製だ。青銅というらしい。1000年前のもので、しかもこのお社の御神宝のはずなのだが、桜さんはいつも割と気楽にこの鏡を持つ。磨いたり、飾り紐を掛け替えたり、お酒をお供えしてお相伴と言いながら一緒に飲んだりしている。
 桜さんが言うには、この鏡には赤い鳥が住んでるそうだ。確かに鳥みたいな時もある。でも俺にはだいたいシカかヤギみたいな感じに見える。サクヤは優しいお兄さんと言うし、キジローは綺麗なお姉ちゃんだと言う。要するにみんな好き勝手に好きなイメージで見ているのだが、鏡に住んでるのでみんな共通して”鏡ちゃん”と呼んでいる。
「つい、つい先に新しいの、つけたったんよ。ほやのに、ほら」
 桜さんが差し出す鏡を見ると、艶のある鮮やかな朱色の組紐がボロボロになっていた。
「ネズミ?」
「ネズミやら、そんな、鏡ちゃんに悪さするわけないやろ」
「ほうかなあ。鏡ちゃん、ネズミやら鳥やら猫やら好きやん。あれ、絶対暇つぶしに呼んでるって」
「ほやから。いつも鏡ちゃんがお供えとか分けたげて、お社で雨宿りさせたげてるんやから、ネズミも悪さやらせんて」
「うーん」
 確かにかじられた痕じゃない。紐だけ何百年も経ったみたいに、色褪せてもろく崩れている。
「こんなじゃ、鏡ちゃん、可哀想や。新しいの買ったげな」
「うーん」

 葵さんによると、鏡に飾り紐をつけたり台に豪華な金襴の織物をかけたりするのは、正式な祀り方じゃないらしい。つまり桜さんの趣味なのだ。でも我が家に桜さんに逆らえる人間はいない。
「トンちゃん、ミノルくんのお店に行って来て」
「え」
「お茶屋さんと扇屋さんの並びにあるやろ。ほら、表に大きなツボとか綺麗なガラスのランプが並んでる骨董屋さん」
「ああ」

 思い出した。お使いでお茶教室用の抹茶を買いに行った時、いやあな感じの店の横を通ったのだ。怖いとかじゃないけど、何というか、うるさそうというか、窮屈そうというか、要するに何かごちゃごちゃ”いそう”な店だった。いつ前通っても開いてた試しがない。何かうっかり拾うのがイヤで、ちょっと遠回りしても近づくのを避ける。そんな場所のひとつだ。
「ミノルくんって大学のセンセーなんよ。葵ちゃんとか新さんと同じようなことしとんやって。ミノルくんの息子さんもミノルくん言うてミイラ掘ったりする人でね、な、同じやろ」
 葵さんはミイラなんか掘ってない。でも葵さんのとこのキョージュのカロ先生は、昔トルコでミイラ探したって言ってなかったっけ。
「で、ミノルくんてミノルくん呼ばれとるけどほんまはユタカくん言うんよ。ユタカくんのお孫さんもユタカくん、言うてな。な、おもしろいやろ」
 ややこし過ぎておもしろいのかおもしろくないのか、よくわからない。でも桜さんの話はいつもこんな感じでとっちらかっててスットンキョーなので俺はこだわらずにうなづく。
「ユタカくん、トンちゃんと同じ年かいっこ上やで、確か」
「ああ」
 いやな予感がさらに強くなった。俺と同じぐらいの年で、この神社の参道を囲む商店街に住んでて、あんないかにも”いそう”な店の子供。できれば会いたくない。
「お財布取って来る。トンちゃん、その緋袴、着替えてや。暗なる前に行かんと」
 うわあ、行きたくない。でも仕方ない。我が家に桜さんに逆らえる人間はいないのだ。

 桜さんはパタパタ母屋の方に走って行ってしまった。俺はひとり残って、お社の木の床にあぐらをかいた。
「鏡ちゃん、どんなんがいい? また赤いのにする?」
 鏡ちゃんは出て来ない。紐が壊れて機嫌が悪いのかもしれない。
「トンちゃーん。はよ行かなー」
 母屋から桜さんが呼ぶ。
「はいはい。今行くよー」
 俺は答えて立ち上がった。
「あんな変な店、行きたくないけどさ。まあ、何か探してくるよ」

 鏡ちゃんがにやっと笑ったような気がした。

  
  ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   


「トンちゃん、おつかいかい?」
「シジミのいいの、入ってんで」
「今日は買い物ひとり? 後できーちゃん来るんか?」

 商店街に入った途端あちこちの店から声がかかった。
「咲(えみ)さん、あっちに帰ってんやろ。スモークチキンどうや。ポテトサラダも。これで晩御飯、バッチリや」


我が家の家庭事情が商店街に筒抜けである。サクヤと桜さんが身体が悪くて野菜と魚しか食べないこと。2人とも自分が食べないものだから、肉料理とか卵料理が苦手なこと。織居家の台所は咲さんと咲さんの次男坊のキジローが面倒見ていること。その咲さんがしばしば関東に帰ってダンナと長男坊の面倒も見ていること。
 咲さんは、俺の父の鷹史とキジローのお母さん。つまり俺の父方の祖母ということになる。俺の父を生んで以来、咲さんはずっと住吉神社と関東を行ったり来たりしている。

 というのは、俺の父親が宇宙人だったからだ。

 宇宙人というより先祖返りなのかもしれない。表向きには”高機能自閉症”と説明していて、映画とかTVドラマなんかで当時話題になってたおかげで、割とすんなり周囲に納得されたようだ。ほとんど白に近い銀髪に、金色がかった飴色の瞳。外見からして普通じゃない。ひとこともしゃべらず、いつもニコニコ人の話を聞いている。話しかけても時々通じない。しばしば何もない空間をじーっと見つめて何時間も動かない。騒いだりはしないが、授業中にふらっと教室を出て行ってそのまま帰って来なかったりする。ろくすっぽ授業なんか聞いていないようなのに、成績だけは良かったものだから、通常学級に通っていた。
 父方の親戚があれこれうるさいものだから、関東での子育てをあきらめて咲さんはうちの神社に来た。父の叔父に当たる新さんが、神社の娘、葵さんに婿入りしていたからだ。新さんも親戚筋が煩わしくて、さっさと実家を出ていそいそと西にやって来た。なぜ親戚が騒ぐかというと、俺の父方の曽祖父、道昭(みちあき)が南部の跡取りなのに親戚衆のセッティングしていた良家のお嬢様との見合いを蹴って、素性怪しい娘とほとんど駆け落ちみたいに結婚してしまったかららしい。そしてその娘は次男の新さんを生む時に奇怪な状況で意識不明に陥り、そのまま60年、眠ったままなのだ。その姿は60年変わらず、年を取らないままだというのは、親戚筋には秘密である。
 ”あんた達は父親みたいに変な女に引っかかっちゃダメだよ”という親切な親戚衆のアドバイスを蹴って、道昭の息子は2人とも、変な女と結婚してしまった。それが咲さんと葵さんである。

 確かに”変”な女にちがいない。

 満さんと咲さんの長男、仁史叔父さんは普通の子供だったが、次男の鷹史は宇宙人だったわけだ。ホレ見たことか、と親戚衆が再びヒートアップ。南部の後継の仁史さんを置いて、咲さんは鷹史を連れて住吉神社に逃げて来た。それでもできるだけ頻繁に関東に戻って仁史叔父さんと満さんにも会っていたそうだ。でなかったら、鷹史の9歳下のキジローなんて出来なかったことだろう。

 商店街で古くから店を構えている面々は、住吉神社の何だか”変”な女達に慣れている。室町時代からここの参道で団子売っていたと言う和菓子屋の爺様と、うちは天皇家に納めたこともあると張り合う呉服屋のご隠居は、桜さんを巡ってライバル関係にある。参道筋を仕切るこの2人が住吉贔屓なものだから、商店街の他の人々もおおむね神社の風変わりな連中に優しく接してくれる。咲さんの境遇に同情し、黙ってニコニコしている鷹史を不憫がって可愛がり、その息子で父親を2歳で亡くした俺にも甘いのである。もっともご隠居より下の世代では、年寄りへの反発からキツく当たって来る人もけっこういる。それに商店街から一歩外に出ると、もはや敵ばかりである。

 何せ住吉神社には別名が山ほどあるのだ。人喰い神社、男殺し弁天、神隠しの杜。
 泉のある都のはずれの山里に、だんだん人が集まり弁天さまが祀られて参道沿いに小さな町が出来た頃から、神社の周囲には説明できない変死や行方不明の事件が多かった。龍が出たとかキツネに化かされるとか、濡れた長い黒髪の女がすすりなくだとか、とにかく怪談のネタに事欠かない、”お化け神社”なのだ。このへんの子供なら必ず、日が暮れたら神社に行くな、神社の人間には用心しろ、と言われて育つ。そして神社に肝試しに行き、大人に反抗して神社の子とわざと仲良くしたり、あるいは大人と一緒になってイジメたりする。ここ20年で、新さんとうちの父親、2人の男が行方不明になったことで、住吉神社は悪名を新たにした。

 商店街の、しかも同じ年頃の子供が、こういう何ともフクザツなうちの事情を知らないわけがない。それもあんな店の子供が。

 住吉商店街とそれを囲む住宅街には、”見える”人が多い。土地柄だろう。敬ったり怖がったりしながら、弁天さまのお社を祀って来た人々は、多かれ少なかれここの精気を浴び、水脈の波動に共鳴しながら暮らして来たのだ。神社の人間をやたらに怖がったり嫌ったりするのは、そういう”見える”人が多いのだ。心当たりがあり過ぎるものだから、こちらも”理不尽な”と怒るわけにいかない。

「トンちゃん。適当に野菜みつくろって神社に届けてやろうか」
 八百屋のおっちゃんはサクヤのファンなのである。
「お母さん、また熱が出てん」
 俺はわざとしおらしい顔をして見せる。
「そりゃあかん。カブはどうや。身体が温まるし消化にいい。夕顔もええやろ。さっちゃんの好きなものなら、おっちゃん全部わかっとんや」
「ほんま?」
「ほんまもほんま。おつかい済んだら、うちに寄り。暗なったら危ないけな。おっちゃん、野菜積んで神社まで送ったる。魚辰にも言うといてやるわ」
「シジミとタチウオ、ええと思う。桜さんも好きやし」
「それとスモークチキン! 子供は肉喰わな!」
 肉屋のおっちゃんも参道の反対側から大声で主張する。
「肉はキジローの担当なんや。ガッコ帰りに商店街寄る、言うてたからキジローに言うて」
 キジローが肉料理や中華料理が得意なのは、ひとえに自分が好きだからだ。咲さんが病人優先で、薄味の精進料理みたいなものばかり作るので、ガッツリ肉が食べたいキジローは9歳で唐揚げをマスターしたらしい。
「お茶屋と豆腐屋さんの後、ここに帰ってくるわ。おっちゃん、すんません、お世話になります」

 さて。夕食の買い物も済んでしまった。気が進まないが、桜さんの用事を片付けよう。お化けの店の子がお化け神社の子をやたらに嫌わないでくれるといいけど。

「すみませ~ん」
 俺は声をかけながら、骨董屋のやや立て付けの悪いガラス戸を開けた。

「すみませ~ん、どなたかいらっしゃいますか」
 薄暗い店内から、さらに薄暗い店の奥に呼びかけても誰もいない。誰もいないが圧倒的に”何か”いる気配がする。息を詰めてこちらをうかがっている。

「あのー。すみませーん」
 あやふやに挨拶しつつ、気持ちがくじけてもう帰ろうかと思い始めた頃、カララと軽い音がして誰かが廊下の床を踏む足音が近づいて来た。
「いらっしゃいませ。庭に出とったもんで、お待たせしました。何かお探しですか?」
 
 一段高くなった上がり戸からショーケースの並ぶ店の土間に下りて来た人を見て、俺はポカンとしてしまった。

 誇張では無く、その女の人は輝いていた。少し緑がかったような薄青い光に包まれていて、ほっそりした指先から白い顔まで、優しい光に揺れていた。
「何あげましょか?」
 薄暗い店内で、長い髪が露草の花のような澄んだ青い色にぽおっと光っている。声も涼やかで気持ちいい。

 俺の第一印象は、”サクヤに似てる”だった。それから碧ちゃんにも似てるな、と思った。サクヤはいつも涼しそうな淡いピンクの光に包まれて見える。淡過ぎてほとんど白い優しい色。碧ちゃんは鍾乳洞の中の泉みたいにもっと深い青だ。紫がかってたり緑がかったり、ゆったり移ろっている。でもこの人の空気は温かい青だ。

「あの。紐なんですけど。鏡とかに結ぶ房のついたようなの、ありますか」
 4歳からひとりでおつかい行って、”大人みたいにしっかりした口をきく子だ”と褒められて来た俺が、しどろもどろになってしまった。
「できれば赤とか朱色とか。あ、金色も好きかも」

 女の人は首をちょっと傾けて、俺のとりとめのない話を聞いていた。着物も髪もほとんど色が無いように見える。でも真っ白ではない。春の小川みたいに空の青を写したり、岸の柳の緑を写したり、こちらの言葉に応えて色を変える。

 すがたやさしく いろうつくしく 
 さあけよ さけよと ささやきながら

 俺の頭の中で、幼稚園の年長組で習った唱歌が流れていた。

「ほやなあ。いくつか見繕って出して来ますさかい、ちょっと待っとってもらえますか」
「は、はい。待ってます」

 納戸か蔵でもあるのか、女の人は上がり戸をくぐって奥に入って行った。土間にひとりになるとすぐ、俺の背後、というか足元で声がした。

「神社の坊主か」
「まだ喰われとらんと見える」
「てて親にくらべるとフツウじゃの」
「生意気じゃ。一人前にシズク殿に見惚れおって」
 
 声の方を振り向こうとした時、何か小さな犬のようなものが膝の間を通ったので、俺はバランスを崩してしまった。そこへ何かが上から頭を押し付けるようにのしかかって来たものだから、石の土間に倒れてしたたかに頭を打った。後は闇。


 ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   


「ただいまー、あれ?」
「ゆーちゃん、おかえり。あら?」

 俺の頭の上で妙にのんびりした会話が飛び交っているが、とにかく目の前がチカチカして何も見えない。さっきの女の人と、男の子の声がする。

「この子、なに? お客さんー?」
「ほなんやけど、なんでこないなとこで寝てはるんやろなあ?」

 寝てるんじゃない! ひっくり返されたんだ! と反論したいが声が出ない。
「むにーっ」
「こら。また、むにちゃんイタズラしたんでしょ」
「あかんよ、むにちゃん」
 何かキーキーした声が2人に報告している。
「え、何? あ、すーちゃんもか。すーちゃん、お客さんにスリスリしちゃダメっていつも言ってるでしょ」
「ほやけど、すーちゃんは人のすねこするのが仕事やもんなあ?」
「仕事じゃないと思うけど。うーーんと。習性?」

 何でもいいからどうにかしてくれ。どうしてこいつらはこんなに緊張感ないんだ?

 今度は誰かお爺さんみたいな人が2人にボソボソ指示していた。
「あ、そうか。うん、そうだね。シズク、この子、畳に上げたげようよ。風邪引いちゃうよ」
「ほやね。え。ああ、そうですね。頭、ゆらさんようにします」

 2人はいろんな人と会話しているようだ。店内には相変わらずたくさんの気配がする。だからイヤだったんだ。こんなお化け屋敷みたいな店に来るの。

「でも、この子、どこの子やろな。誰ぞにお迎え頼んだ方がええと思うんやけど」
「カバンに名札か何か…あ、このコ、どうかな」
「あ、ホンマや。ゆーちゃん、そのコに聞いてみたら? このコ、海の色やもの。海の記憶を教えてくれる思うわ」

 カバン? 俺のカバンに何かあったっけ? おつかい用に財布と家の鍵を入れた斜めがけのショルダーバッグ。葵さんのウズベキスタンみやげでちょっと大人っぽいので気に入っていた。カバンがネイビーブルーだから色が合うよ、と咲さんが手作りのストラップをつけてくれた。紺の花結びに丸い水色の石。確かアクアマリンという名前の石だった。明るい水色の、春の小川の水をちょっと丸めたような石。
 革を青く染めて唐草模様を型押しした中央アジアのカバンに和風の石飾り。これぞシルクロードね、を葵さんが笑ったっけ。

 チカチカぐらぐらする頭でここまで考えた時、辺りが暗くなった。抱き上げられたのを感じた。話し声が遠くなる。ああ、俺眠ったのかな。それとも死んじゃったのかも。でも何か気持ちいいや。


 気が付くと僕は何だか明るい空間にいた。あれ、あの変な店に入ったのは4時頃だったのに。もう次の朝なのかな。でもここどこだろう。
 ピピピピとさえずりながら小鳥がいくつも僕の頭をかすめて飛んでいく。あれ、小鳥じゃないぞ。え、魚?
 色とりどりの花が咲いていると思っていたのが、よく見るとカラフルなサンゴやイソギンチャクだった。するとここは海の底なのか。竜宮城の中庭って感じかな。
 綺麗だなあ。気持ちいいなあ。身体がぽかぽか温かくて軽くて浮いてるみたい。

 魚の中にとりわけ人なつこく僕の周りを泳ぎ回るのが2匹いた。小さな黒い魚とそれよりちょっと大きな水色の魚。水色の魚はゆったり優雅に泳ぐ。小さな黒い魚が僕のすぐ正面に来て、僕の顔をのぞき込むようにじっとしていた。小さな胸びれをピルピル動かして俺の鼻先にいる。両手でぱふっと捕まえられそうだ。
 そいつの目が赤いことに気づいて、思わず目を瞬いた。へえ。目の赤い魚なんかいるんだ。こっちもそいつの顔をじっとのぞき込んだ。変なやつ。変なところ。でも綺麗だ。

 お父さんも、お祖父ちゃんもこんなとこにいるのかな。
 2人がこんなとこにいるんなら、葵さんも咲さんもちょっと安心するかも。美味しいものもありそうだし。こんな綺麗なところに住んでる竜宮さまなら、多少ズレててとんちんかんでも、イジワルなことはしないだろう。この2匹の魚は竜宮さまの家来かもしれない。
 ここの話をしてあげたら、喜ぶかな。サクヤも? たとえ二度と2人と会えなくても?

 お父さんは、自分が遠いところに行っちゃうのがわかっていたみたいだ。あのお祭りの日、装束をつけたお父さんは、飾り立てた馬に僕を乗せて馬場を一周してくれた。馬が揺れると僕の頭がお父さんの胸や頭の固い防具に当たってちょっと痛かった。馬の背は高かったけど、ちっとも怖くない。お父さんがしっかり抱っこしてくれてたから。その時の写真が残っている。お父さんは明るい顔で笑ってた。僕も笑ってた。晴れやかなお祭りのはしゃいだ気分。咲さんはその写真を大きく引き伸ばして、額に入れて和裁教室の2階の自分の部屋に飾っている。

 でも僕は知ってる。サクヤは今でもその写真を見ることができない。

 僕はお父さんの声を聴いたことがない。でもその時ははっきり聴こえた。直接僕の胸に響くようだった。
”鳶之介”
 トンちゃんとかトン介とかいつも言われているけど、お父さんはちゃんとした名前で呼んでくれるんだ。お父さんに呼ばれると、僕の名前はひとつの綺麗な音、明るい青い色の凜とした音で胸に響くんだ。
”鳶之介。いつでも会えるからね。俺はずっとここにいる。ただ見えなくなるだけだ”
「見えないんなら会えないよ」と僕は主張した気がする。後付けの記憶かもしれない。何せその時俺は1歳11ヶ月だったんだから。
”会えるさ。でもサクヤは寂しがるかもしれない。咲さんも。だから鳶之介。頼むよ。みんなの傍にいてやって。一緒に笑ってやって”
「どこか行くの? どこに行くの?」
”どこにも行かない。ここにいる。ただちょっとだけ違う相に行くから見えなくなるだけだ”
「相?」
”酸素や水蒸気は確かにここにある。でも見えない。そんなものだ”
「水蒸気?」 お父さんの話は時々難しくてよくわからない。
”だから大丈夫。心配しないで。みんなを守って。鳶之介はすぐ大きくなる。お父さんより大きくて強くなる”
「ホント?」
”強いってね。ひとりでケンカして勝つことじゃないんだ。みんなでね、お互いに守って、守られて、一緒にいることだ。お父さんはひとりで飛んでたから。強くなかった”
「お父さんは強いよ」
”ありがと。でもお父さんはダメだった。サクヤを悲しませた。お父さんの分、鳶之介やってくれる?”
「うん。がんばる」
”ありがと。でもがんばらないでいいよ。鳶之介がここにいて、元気で、笑ってるだけでサクヤも咲さんも葵さんもみんなも、元気になる”
「ホント?」
”ほんと。だから約束。元気で笑って、サクヤを守ってやって”
「約束」
”約束”

 それから1時間しないうちにお父さんは消えてしまった。流鏑馬の装束で、見事に的を射ぬいた後、ふうっと身体が浮いたように見えた。それも後から聞いた話と記憶をごっちゃにしているのかもしれない。ふわっと地面に落ちて昼寝しているみたいに見えた。みんな走って来て走って行った。お医者さんを呼びに行ったり、車を持って来ようと言ったり、装束を脱がせようと言ったり、バケツに水入れて来たり、大騒ぎだった。
 その大騒ぎの最中にお父さんは消えてしまった。流鏑馬の装束ごと。始めからいなかったみたいに。
 あの時、サクヤがどこにいたのか、僕はどうしても思い出せない。サクヤは僕を抱っこして弓を射るお父さんを見ていた。ぎゅっと抱きしめられて痛いぐらいだった。お父さんが落ちて、みんなが走り出した時、サクヤはそのまま僕と馬場の傍で立ってた気がする。僕をぎゅっと抱きしめながら。

 お父さんとの約束のこと、僕はずっと忘れてた。ずっとひとりでケンカしてた気がする。ずっとウソの笑いをしてた気がする。咲さんのことも、葵さんのことも、守れてなかった。サクヤのことも。あの時、サクヤは僕のことをずっと抱きしめていたのに。

「ごめん、でも思い出した。もう大丈夫」
 僕は明るい海の底から明るい空を見上げた。空の方に手を伸ばしてみた。
「いつでもここにこれるんだね。いつでも会えるんだね」
 空に向かって手を振ってみた。指先がよく晴れた日のプールを水面をかきまぜたように、温かくてキラキラ光った。
「また来る。忘れないよ」


 気が付くと俺は家の布団の中で、みんなに囲まれてた。葵さん、桜さん、光お祖父ちゃん、キジローにのん太。山本さんと徹さんもいた。八百屋のおっちゃんまでいた。八百屋のヨシミと肉屋の弘平も。俺の手をサクヤがぎゅっと握っていた。
「トンちゃん! 良かった! 目を覚ました!」
 葵さんが泣き出した。一番おんおん泣いてたのは八百屋のおっちゃんだ。泣きながらおっちゃんは”はよ、うちのヤツにも教えてやらにゃ”と帰って行った。「おつかい行って伸びてりゃ世話ないや。人騒がせな」と言って徹さんも帰った。
「もう大丈夫ですよ。脳波も異常無かったし。良かった良かった。ひと安心です」 山本さんがニコニコしてお茶を淹れ始めた。桜さんはヨシミと弘平にコーラとお菓子を出した。
「まだ寝たらあかんぞ。2時間ぐらいはこのまま起きてた方がいいんだとさ」
「俺たち話し相手してやるよ。感謝しいや」
 商店街のガキ大将2人組はニヤニヤしながら早速ポテトチップを食べ出した。2人は2年生と3年生で俺より年上なんだけど、時々一緒にバスケをやる仲間だ。最近どういうわけかキジローもバスケに混ざってくるので、悪ガキ4人などとくくられて迷惑なことこの上ない。
「スナック食べ過ぎるなよ。今夜はすき焼きだ。食ってけ」
 キジローが言うと、「やりい」と八百屋のヨシミは喜んだが、肉屋の弘平は「うへえ」と言った。
「肉なんか飽き飽きや。トンスケ、お前、ユタカんちでこけて目を回したんだって? ドン臭いやっちゃな」
「あそこ、ごちゃごちゃしてっからな。俺もすっ転んだことがある」
 ヨシミがかばうように言ってくれた。いいヤツだ。
「ドン臭いやっちゃ」 
「えらそなこと言いないな。知ってんやで、お前、ユタカにのぼせとったやないか」
「おまっ。あれは幼稚園の時のことや。女の子や思てたんやからしょうがないやんか」

 ユタカって誰だっけ。
「ユタカが走って親父のこと呼びに来たんやで。お前、おつかいの後、八百屋寄るって言ってあったんか?」
 ううん。言ってない。
「俺もちょうど八百屋におったんで、びっくりしたわ。お前、頭打って相当痛かったんやろ。ベソかいとった。そのくせ目ェ覚まさんからヨシミの親父大騒ぎして、すぐ救急車呼んでな」
 覚えてない。せっかく救急車に乗ったのに覚えてないなんてもったいない。でもそんな痛かったっけ?
「弘平、お前な。ケガしてる人間にそないなこと言うな。後頭部ってのはアブナイんやで」
 ヨシミはいつも中学生と間違われるぐらいでっかいのに、なかなか優しいヤツなのだ。

「トンちゃん、今度会ったらユタカくんの御礼言わんとあかんよ。ユタカくんち、ちょうど誰も大人の人いなかったんで、すぐ裏の岩木さんとこ走ってって知らせてくれたんやて」
 桜さんがお茶をすすりながらしみじみ言う。岩木さんというのは八百屋のおっちゃんでヨシミのお父さんである。
「岩木さんにうちの番号聞いて、すぐ電話かけて来てくれてねえ。ユタカくんも心細かったやろうに、ほんと、しっかりさんやわあ」
 心細い? そんなタマだったっけ? 俺が床でひっくり返ってるというのに、緊張感ない声でのんびりしゃべっていたのがそのユタカに違いない。大人の人いなかったって、いたじゃないか。あの女の人。ぽおっと青いふんわり明るい綺麗な人。あの人、あいつのお母さんなのかな。あいつ、ゆーちゃんって呼ばれてた。あの女の人はなんて名前だろう。ボソボソ噂してた変な声とかあいつはシズクって呼んでたな。シズクって名前なのかな。ぴったりだ。
 でも俺、ユタカと直接話してない。ユタカの顔を見てない。

 すき焼きの準備が出来て、弘平もヨシミも食堂に行った。我が家は大家族だし、しょっしゅう神社の行事なんかで炊き出しに使うのでムダに広い。食堂も広い。20人は楽に座れる大きなテーブルがある。

「トンスケ。どうする? すき焼き……はムリやな。何かお粥さんかリンゴのすり下ろしたもんでも食うか?」
 キジローがエプロンつけて聞きに来た。
 腹減ってない。何も欲しくない。
 声が出ないので目で訴えた。それよりも。

 サクヤだ。

 真っ白な顔で、俺の横に座ってじっと俺を見てる。目をちょっとでもそらしたら俺が消えるとでも言うように。俺が目を覚ますまでずっと俺の手を握っていたらしい。さすがに手は離したが、俺の傍から離れない。ひとことも口を利かない。
 サクヤ、横になっとき。今朝、倒れたばっかりやんか。また熱出るで。手ぇ冷たかったけど、貧血なんとちゃうか。
 言ってやりたいけど声が出ない。

「サクヤ。また倒れるぞ。もう休め」
 キジローが俺の目線を読んだように言う。でもサクヤは答えないし、俺から目を離そうとしない。

「ああもう。面倒くさいやっちゃな、おまえらどっちも」
 乱暴に言って、キジローは俺の横にドサドサ布団を引き始めた。そして有無を言わさずサクヤを
抱き上げて布団の上に放り投げた。
「きーちゃん」
 びっくりしてさすがにサクヤが抗議の声を上げた。
「ちょっと。きーちゃん。待って」
「うるさい。こっちは10かそこらからオフクロに仕込まれとんじゃ」
 サクヤの抗議を無視してさっさと帯絞め、帯上げ解いて、あっという間に帯をほどいてしまった。咲さんは和裁と着付けとお茶の先生なのだ。
「きーちゃん」
「ほれ。衛門掛けに掛けといてやるから。それとも牛首紡ぎのまま寝るか」
 キジローも手慣れているが、サクヤもキジローに着替えを手伝われるのは慣れていて、必要以上に赤くなったりしない。具合が悪いとかじゃなくても、”この帯硬くて”とか言って締めるのを手伝ってもらっているのだ。けしからん。
「でも」
「だから。こいつを見張っとくなら寝てても見張れるやろ。第一、何度も言ったやんか。脳波問題無いし、心配ないから家に帰されたんや」
「でも」
「声出なかったり、記憶が混乱したりとかは一時的なもんやって。一晩寝たら治る」
「でも」
「何でもいいからとにかく寝とけ。おまえがそんなじゃ、トンスケも寝られんやんか。病人に病人の心配させんなや。見てみろ、こいつの顔」

 俺が批判がましい顔をしてるのは、サクヤが心配なのもあるが、キジローがサクヤや俺にやたらに保護者ヅラするからだ。おまえなんか、サクヤの6つも年下のくせに。まだガクセーのくせに何えらそうにしてんだよ。

「ほれ。布団入って」
 サクヤの頭を枕に押し付け、ばふっと布団をかぶせると、キジローはドカッと布団の横にあぐらをかいた。そのキジローを枕を並べた俺とサクヤがじーっと非難がましく見つめる。
 おおげさにはあーとため息をついて、キジローががりがり頭をかきむしった。
「ああもう。おまえら2人とも。ほんまに面倒くさい。面倒くさいやっちゃ」
 キジローはしばらくボサボサ頭に自分のでっかい手を置いていたが、そのまま前に傾いてぼすっとサクヤの布団に顔をうずめてしまった。けしからん。

「おまえらなあ。おまえら……タカ兄を亡くしたのはおまえらだけやないんやぞ」
 声がくぐもって聞こえる。
「俺もオフクロも。親父も仁兄も、みんなしんどい。こたえとんや。悲しいのはおまえらだけやない」
「そんなつもりじゃ」
「わかっとる。でもわかっとらん」
「きーちゃん」
「おまえら2人だけで何とかしようとすんな」
「きーちゃん」
「かかわらせてくれよ。俺もオフクロも」
 何か空気がおかしくないか。けしからん。
「でも」
「何度も言ったやろ。そいつも、俺も、タカ兄と違う。俺たちがいくら大声上げても雨一滴降らんやろ」
「きーちゃん」
「トンスケは脳震盪で一時的にしゃべらんだけや。タカ兄みたいに消えたりせん。俺もや」
 キジローは顔を布団から上げて、サクヤを見上げた。190近いでっかいヤツの顔が今は同じ高さにある。何捨てられた仔犬みたいな目ぇしてんだ。キモチワルイ。三白眼の大男が甘えても可愛くない。
「俺も消えたりせん」

 何口説いてんだ。けしからん。おまえまだダイガクセーだろ。
 それでも、キジローも俺のこと心配だったんやな、とちょっとほだされてしまった。だがサクヤはやらん。そう硬く決意したのに眠ってしまった。2人はまだぼそぼそ話している。けしからん。


 ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   


 桜さんに御礼言わなあかんよ、と言われていたけど、結局言わないまま9年経ってしまった。

 ユタカとゆっくり話す機会が無かったのには、いろいろ理由がある。
 ひとつには、ヤツはめったに学校に来ない。小学校も中学校も一緒だが、校内で会うことがほとんど無い。そして俺の方も神社の仕事や家のことで休むことが多かった。


神社関係でその頃急に忙しくなったのは、馬のせいだ。
 住吉は交通の神様だからか、この神社には代々血統の続いたご神馬がいる。昭和の初め辺りまで境内の裏手に馬房があって、杜の横手に馬場があったそうだ。だんだん町が混み合って来たので、郊外の遠縁のファームに預けることになった。神馬は代々牝馬で、その腹から生まれたうちから次代の新馬を選ぶ。選ばれ損なった馬はファームで乗馬用に飼育されたり、競技用に訓練したりする。競走馬になった神馬の血統もいる。怪我して予後不良になる場合もあるが、引退したら北の小さな島でのんびり余生を過ごしてもらう。この島にはやっぱりうちの遠縁の家族がいて、弁天さまを祀る神社を守りながら神馬の世話をしている。
 馬の飼育はお金がかかるので、できれば馬にがんばってお金を稼いでもらいたい。競走馬として、あるいは馬術大会でいい成績で活躍すれば、もちろん賞金ももらえるけど、その馬の血統そのものの評価が上がる。評価が上がると、種付け料も上がる。

 そんなわけで、俺もファームに通って育成の手伝いをしつつ、乗馬を覚えることになった。谷地田ファームには俺と同い年の輪と、3つ下の泉がいて、2人とも馬に乗る。特に泉はもうポニーじゃ物足りない、と大きな馬で走り回っている。前の冬に当代ご神馬から生まれた牡馬が弱くて、このままじゃ大人になれない、つぶした方がマシだ、何て言う人もいて、俺はせっせとファームに通って輪や泉とそいつの世話をしていた。
 弁天島には俺と輪と同い年の2人の従姉妹がいた。双子のアヤメとアカネ。神事の関係や馬術大会などで時々顔を会わせることもあったが、中学入学の時に島から出て来て輪と同じ学校に通い始めた。関東の馬術コースのある高校に進みたいから、本土でみっちり馬と勉強をしたいと言って、ファームで下宿生活をしている。この2人と泉が共謀しているのかいないのか、俺と輪をイジメるのだ。

 織居家の事情も大きく変わった。
 俺がユタカの家でひっくり返って脳震盪になった半月後、桜さんが大きな発作を起こして仮死状態になってしまった。昔、サクヤが5歳の時にも一度、桜さんは心筋梗塞で3日意識が戻らなかった。その時、実質桜さんは”柱”、つまり結界の要役を下りた形になって、5歳のサクヤが”柱”を継いだ。その後もずっと桜さんが幾分肩代わりしていたのだが、今度の発作で全部サクヤが背負うことになった。桜さんは一週間後にケロッと何事も無かったかのように目を覚まして、ますます無敵になった。一方サクヤはますますよく倒れるようになってしまった。
 弱っているサクヤを尻目に桜さんはさくさく話を進めて、サクヤはキジローと再婚することになってしまった。けしからん。
 ちょうど同じ頃、イタリアで行方不明になってた瑠奈が帰国してご近所が大騒ぎになった。それからしばらくして、瑠奈を追ってイタリアからものすごい凶悪な顔のものすごいイケメンがやって来て、さらに大騒ぎになった。ものすごい凶悪な顔のものすごいイケメンは、住吉に下宿して瑠奈と結婚することになり、ご近所は三たび大騒ぎした。
 2組の夫婦がまとまったのを見届けて安心したかのように、桜さんは倒れて、今度は目を覚まさなかった。
 落ち着く暇もないうちに、サクヤが桐花、瑠奈が魅月を生んだ。何と同じ日に。俺はいっぺんに2人妹が出来て、育児と馬の育成と乗馬訓練と従姉妹との攻防でてんてこまいになってしまった。

 そして、桐花が生まれたと同時にきさちゃんが目を覚ました。きさちゃんが目を覚ましたと同時に、鏡ちゃんが鏡から出て来て話すようになった。こっちはこっちで南部の一族が大騒ぎして大変だった。きさちゃんは亡くなった桜さん以上に無敵で、家族一同振り回されることになった。それでも、きさちゃんは2人の赤ん坊の面倒をよく見てくれたので、2人の母親はすごく助かったのだ。振り回されたのは毎度、神社の男連中だけだからだ。

 中学に入学した時、3年のヨシミが部長をやってるバスケットボール部に誘われた。3年生は6月で受験のため引退するから、手薄になってしまうのだ。キャプテンの弘平が連日俺のクラスに来て、いささか鬱陶しいぐらい熱心に勧誘するのだが、忙しいからと断った。実際、出席日数危ないぐらい忙しかった。バスケは好きだから、試合なんかで人数足りない時に何度か助っ人に行った。
 それでもどうしても正式入部する気持ちになれなかった。なぜなら弘平と同じ2年生にユタカがいたからだ。

 柔らかそうな黒い髪に赤い瞳。いつもへらへら笑って、緊張感のない声でしゃべるけど、人をバカにしたりは絶対にしない。いいヤツなんだぜ、と弘平はしきりにユタカを遊ぶ時に俺を誘う。別にあいつをヤなヤツと思って嫌ってるわけじゃない。
 あいつの肩や耳の辺りが、いつもきらきらぽおっと明るい。ふんわり水色の光が漂っている。時には髪の間から薄緑がかった水色の光がこぼれてくることもある。
 シズクさんがあいつの耳元に話しかけたり、優しく髪をすいたりしている光景が目に浮かぶ。

 あいつの店にはあれから一度も足を踏み入れてない。
 おつかいを頼まれても断固拒否していた。葵さんとノン太が、ユタカの祖父ちゃんに挨拶に行くから一緒に行こうと誘っても拒否。徹さんに”もういっぺんコケて救急車呼ばれるのがイヤなんだろ”などとからかわれても拒否。
 別にお化けが怖いわけじゃない。付きまとわれたり、懐かれたりしたら面倒臭いだろうなと思うけど、別にそれは大したことじゃない。住吉にはすでにいろんな有象無象が絶えず出入りしていて、そこら中をふやふや飛んでいるので慣れていた。

 シズクさんに会うのが嫌だったのだ。そんな自分をユタカに見られるのもイヤだった。シズクさんの前で普通に話せる自信がない。
 それに絶対に、あの2人には俺の泣き顔を見られているに違いないのだ。
 
 あの2人はもう一度、俺を父親と会わせてくれた。御礼を言わなきゃいけないのはわかっている。でも一番弱いところを見られた2人の前でどんな顔をすればいいのかわからない。

 学校で時々すれ違うユタカを遠目で見て、ヤツの肩や髪に残るシズクさんの光を見つける。それで十分だった。それで何だか幸せな気分になれた。

 ヨシミは八百屋を手伝いつつバスケもやりつつ、けっこうマジメに勉強していたらしい。俺の父親やノン太が通っていた、近所の進学校に入った。俺が中三の年、弘平とユタカもそこに合格した。俺の志望校なので、進学してもあいつらとの腐れ縁が切れないのか、とややげんなりした。それでも、ユタカの後ろ姿にシズクさんの光が見えるなら、それもいいかもな、なんてぼんやり考えていた。

 高校に入っても、ユタカは中学の時と相変わらずのらくら学校をサボって、ろくすっぽ授業を受けないくせにさらっと主席を取って弘平を悔しがらせたりしていた。


 そんな矢先に、地震があった。雷鳴と稲光、地鳴りに山鳴り。何もかもいっぺんに襲って来て、世界が真っ暗になった。
 祖父の新さんが亡くなった時、こんな風に真っ暗になったらしい。
 あの時、黒曜が攫われた。ご神宝の鏡の宝珠も奪われた。住吉の結界がガタガタになってしまった。

 今度は誰も死なずに済んだ。何も奪われなかった。神社の正面の、参道へと下りていく石段に上から下まで大きな亀裂が入って、修理するのに何ヶ月もかかった。それでも結界へのダメージは、新さんが亡くなった時に比べればかなり小さかった。
 関東から都ちゃんが帰って来て、熊野の方に行ったり、出雲にも飛んだ。紫さんは九州の山を走り回る羽目になった。咲さんは反対に関東とさらに東北まで行かなくちゃいけなかった。それでも、結界の歪みは応急処置で一応収束した。

 ただひとつ。それから妹の桐花が変わってしまった。くるくるふわっとした天然ウェーブの髪と、俺の鳶色を少し濃くしたような明るい瞳が可愛かったのに、髪がまっすぐになってしまった。そして瞳が時々緑に光る。それはそれで可愛いんだけど。
 無邪気だった桐花も、結界の負担から逃れられないのか、俺は妹のことも守れないのか、とかなり暗澹とした気持ちになった。桐花は相変わらず朗らかで聡明で優しいが、時々泉や双子と一緒になって俺をイジメるようになった。それに魅月の毒舌が移ってしまった。瑠奈が言うには、もともと魅月より桐花の方が舌鋒鋭かったらしい。そうだっけ。まあ、それはそれで可愛いからいいんだけど。
 昔、都と紫さんが東と西で、結界の崩壊を防いだように、今度は桐花ががんばったからこのくらいで済んだのかねえ、と話していた。一同今ひとつ釈然としない気分のまま日常に戻った。

 家の石段が崩れた後一週間ぶりに学校に行ってみると、教室で去年卒業したはずの弘平が俺を待ち構えていた。
”寝ぼけて学校間違えたんか”とからかえるような雰囲気じゃなかった。熱に浮かされたような、暗いギラギラした目で文字通り俺の首根っこを捕まえて中庭に引っ張り出した。その時、俺は158しかなかったのに弘平は高校に入って急に背が伸びて180近かった。許せん。
「おまえ、何か知ってるやろ」
 弘平は俺を渡り廊下の横の壁に叩き付けるように押し付けて、胸ぐらを掴んで来た。何が何だかわからない。
「おまえ、ずっとわざとユタカを無視してたな。ホントはあいつを助けられたのに見捨てたんやろ」
「何のことや。何言ってんのか訳わからん」
「しらばっくれるな。俺はあんなん迷信やと思てた。お前とユタカが何か俺らと違うのは知っとった。それでも人喰い神社やとか、神社のヤツらが人をさらうやら、そんなん信じたことなかった」
 弘平の声が揺れた。泣いてるように震えた。 

 俺はふいに背筋がぞっとした。
 あの時は新さんが竜宮の結界に身を投げた。今度は? 今度は誰が犠牲になったんだ?

「ユタカが?」
 俺はかすれた声で聞いた。ユタカが? ユタカが竜宮に攫われたのか? 新さんみたいに? 父さんみたいに?
「おい。弘平。ちゃんと言うてくれ。ユタカが? ユタカがどうしたんや」
 今度は俺が弘平の腕を掴んで揺すぶった。
「俺が、アホやった。同じもの見えんでも、傍におったったら何かしてやれると思っとった。おまえを引き込んだら、おまえがユタカの味方になってくれると思とった」
 弘平は膝から崩れ落ちてしまった。
「あいつ、もうおらん。消えてしまいおった」
「ウソや」
「ほんまや。ミノルじっちゃんも何も教えてくれん」
 いつかこんな日が来ると思ってた。弘平は地面に臥してしぼるような声でそう言った。

 俺は弘平を引きずって商店街に走った。学校なんかくそくらえ。
 俺はまだあいつとちゃんと話してない。あいつの顔をちゃんと見てない。あいつに御礼を言ってないんだ。

 店は閉まっていて真っ暗だった。ガラス戸をガタガタ揺すってみたが開かない。どんなに大声出して呼んでも誰も出てこない。誰も。シズクさんも。
 近づかないように角を通り過ぎながら店を遠目に見る時、前の小路やガラス戸や、脇のささやかな植え込みにきらきらと残っていたシズクさんの光が無い。

「シズクさんは? シズクさんなら何か知ってるはずや。一緒に住んどったんやから」
 弘平は怪訝な顔をした。
「シズクさん? 誰やそれ」
「お前、何度もおやつもろたて言うてたやないか。綺麗やなーってアホヅラさらして褒めてたやろ」
「誰のこと言うてんのや。ユタカはミノルじっちゃまと2人暮らしや。あそこの親はどっか外国おってめったに帰らんし。じっちゃまも学校忙しくてしょっちゅういないし。俺のおふくろ、心配してユタカにいつも弁当持たせてた」
「ウソや! シズクさんは」
 俺は総毛立ってしまった。

 弘平はウソを言えるヤツじゃない。美人に弱い弘平が、あれだけよく噂してたシズクさんを忘れるはずがない。何か起こってる。何かとてつもなく怖しいことが。

 商店街の誰も、ユタカがどこに行ったか知らなかった。シズクさんのことを覚えている人はいなかった。商店街のマドンナだったのに。
 ユタカの高校のクラス担任は、ユタカが外国に行ってると説明した。両親と一緒だと言う話しだし、休学を受理したと言う。弘平はその説明を信じてなかった。

「あいつが俺に何も言わんとどっか行くわけない」

 きさちゃんと時々店に行ってシズクさんに可愛がってもらっていた桐花は泣いた。
「でも月ちゃんは帰ってくるよ」
「月ちゃん?」
「月城くんだから月ちゃんなの。月ちゃんは消えてないよ。帰ってくるよ」
 桐花は髪がまっすぐになってから時々不思議なことを言う。
「でもシズクちゃんは帰って来ない」

 
 桐花の言葉通り、豊は一年後帰って来た。一学年まるまる休学して、弘平と同じ高校に合格した俺と同じクラスになった。
 相変わらず緊張感の無い声でへらへら笑っている。
 同じクラスになって、俺と豊はよくつるむようになった。でも俺はまだあいつにあの時の礼を言っていない。あの時の話をしたら、シズクさんのことも聞かないわけにいかない。

 あいつの外見はすっかり変わっていた。
 光に透けるような白い髪に藤色の瞳。髪の間をシズクさんの光がこぼれている。首筋や指先やちょっとした動作の度に、虹のようなオーロラのような明るい色がこぼれる。そして耳にはいつも大きなヘッドフォン。何度風紀の教師や体操教師に怒られても取ろうとしない。それは何かから自分を守ろうとしているように見えた。
 白い猫のように飄々と歩いて、時々突拍子もない事を言い出して、しばしばうちの縁側で神社の猫どもに混ざって昼寝をしていた。うちにもよく遊びに来るようになった。

 そうしてあいつの傍にいながら、俺は激しく後悔していた。
 どうしてこうなる前に、こいつとちゃんと話さなかったんだろう。シズクさんと会っておかなかったんだろう。もっとこいつのことをちゃんと見ていたら、ちゃんと知っていたら、何かできたかもしれないのに。
 弘平が言ってたように。
 俺はあいつを助けられたかもしれないのに、あいつを見捨てた。
 自分のことだけにかまけて。つまらない意地のために。

 今度は見捨てない。傍にいる。傍にいることしか出来ないかもしれないけど。
 シズクさんの匂いを漂わせて、ひとりで何とか立って、へらへら笑っている白猫みたいなこいつを。いつかこいつに俺の父さんの話ができるまで。


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