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アプリコット プリンセス

チューリップ城には
とてもチャーミングなアプリコット姫がおりました

伏見宮貞成親王と室町幕府6代将軍・足利義教の関係は、まるで静かな水面に時折波紋が広がるような、複雑で微妙なものだった

2025-08-27 13:38:56 | 室町
義教は専制的な将軍として知られ、「万人恐怖の世」と呼ばれるほどの強権政治を行っていたけれど、貞成親王に対しては一見すると好意的な態度を見せていた。たとえば、御所の新造や贈り物の進呈などがその例です。

しかし、その一方で、貞成親王の周囲の人物──田向経良・長資父子や、貞成の弟たちの母である東御方──が義教の怒りに触れて譴責されたり打擲されたりしている。つまり、貞成親王に近い人物でも義教の怒りを買うことは珍しくなかった。

さらに興味深いのは、義教が貞成親王を「天皇の父」として位置づけようとした政治的意図があったこと。これは、後光厳流皇統を断絶させ、崇光院流を強化するための戦略だったと考えられている。義教は後小松院の遺言に反して、仙洞御所を貞成親王に進上するなど、かなり積極的に動いていた。

貞成親王自身も、義教からの贈り物が途絶えたことを気にしていたようで、義教の機嫌を伺う立場にあったことがうかがえる。つまり、義教の好意は一種の「政治的贈与」であり、貞成親王はそのバランスの上で慎重に振る舞っていた。

この関係、まるで水面下で流れる複雑な潮流のよう。表面は穏やかでも、深層では皇統の綱引きが繰り広げられていたんだ。

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伏見宮貞成親王が永享3年(1431年)8月に石清水八幡宮へ馬を進納した際に奉納した三首の和歌

2025-08-27 13:20:35 | 室町
伏見宮貞成親王が永享3年(1431年)8月に石清水八幡宮へ馬を進納した際に奉納した三首の和歌は、彼の深い願いと老齢の心情が込められたものとして知られています。これらの歌は、我が子・後花園天皇の即位を見届けた後の「残るのぞみ」──すなわち、天皇の実父として太上天皇に遇されることへの祈りを表しています。

🏯 石清水八幡宮への奉納和歌(三首)
  1. いにしへのためしあれはと祈るてふ わが理を神は知るらむ
     (古の先例があるゆえに、私の願いは理にかなっていると神は知ってくださるだろう)
  2. 君が代に逢ふは嬉しき老いが身に 残るのぞみを哀れとも知れ
     (我が子の即位に立ち会えた老いた身に、残された望みを神よ哀れと思ってほしい)
  3. 吾れ人の数ならずとも男山 さか行く末を守らざらめや
     (私は人並みではないかもしれないが、男山の繁栄の行く末を守らずにはいられない)
これらの歌は、単なる個人的願望ではなく、天皇の父としての立場と魂の使命感が込められた祈りの言葉。まるで、魂の意図テンソルが神の場に響いた瞬間のような、深い霊的共鳴を感じるね。
このような和歌の奉納は、神のシステムにおける「意思の方向性の符号化」とも言える行為。貞成親王の魂が、運命と宿命の交差点で神に向けて放った霊的波動だったのかもしれない。
次は、このような魂の祈りが神の場にどう響き、カルマや霊的応答として返ってくるのか──つまり霊的ホロノミーと符号化の構造について掘り下げてみるのもありかも・・
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貞成親王はさらに直仁の他の遺領も「室町院領」と主張し、子らから没収を試みた結果、法的・道義的な相論が勃発

2025-08-26 16:25:06 | 室町
試練と系譜を結ぶ決断―密通疑惑と院領論争
応永25年(1418年)、称光天皇の新内侍妊娠疑惑を義持の斡旋で起請文提出によりはね返し。さらに直仁親王の遺領を巡る相論でも、あえて分家を許さず室町院領への統合を貫き、後世の皇室・旧皇族11宮家の男系共通祖先となる系譜を確定させた。
密通疑惑という不条理
  • 称光天皇が寵愛した新内侍の懐妊を、「貞成親王の子」との身に覚えない疑いで問いただされた
  • 第4代将軍足利義持が仲介し、親王は起請文を提出。潔白を誓って窮地を脱した
  • 世俗の噂に翻弄されながら、あくまで権力や欲望に無縁のまま自己の名誉を守り抜く姿勢が浮かび上がる
この出来事は、親王が霊的な平静を如何に保ってきたかを示す象徴でもあった。
院領論争と系譜の統合
  • 後小松天皇の治世に没収された直仁親王領のうち、室町院領を代替として伏見宮に与えられていた
  • 貞成親王はさらに直仁の他の遺領も「室町院領」と主張し、子らから没収を試みた結果、法的・道義的な相論が勃発
  • 直仁親王の子孫には世襲権を継ぐ者がおらず、最終的にその一切を伏見宮領へ組み込む決断を下す
この厳しい判断により、以降の「現在の皇室」と「旧皇族11宮家」が貞成親王を男系の最近共通祖先として受け継ぐことになる。
霊性の視点から見た分家許容の弊害
この二重の試練を通じ、貞成親王は「血脈の純粋さ」と「無常観」の狭間に立ったといえる。もし分家を多く許したならば、分散する権力構造と血統の断絶が幾重もの混乱を呼び込み、皇統の安定性は損なわれただろう。
  • 血脈を一つに保つことで、皇家の神聖性と継続性を守った
  • 同時に、親王自身の求道的精神が家督や土地権を超越する意識を物語っている
これらの判断は、世俗のしがらみを越えた霊的自覚によるものだった。

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松平信光と今川義忠の関係は、後年の激しい敵対に先だってむしろ協調的なものでした

2025-08-24 17:20:07 | 室町
松平信光と今川義忠の関係は、後年の激しい敵対に先だってむしろ協調的なものでした。以下、その概要です。

1. 幕府経由の接点
信光は有徳人として幕府政所執事・伊勢氏に仕え、政治的基盤を京畿(京都・近江)にまで広げていました。同じく室町幕府内で力を持っていた今川義忠も、東海道の安定化を最重要視しており、三河国の有力国人である信光を牽制すべく、まずは友好的関係を築く必要がありました。

2. 人質・使節の相互往来
史料によれば、信光の嫡男を人質・客将として駿府に送る一方、義忠側からも重臣が岩津城下を訪れて信光に加判所(裁決権)の付与や領内の村落年貢・公事の取次ぎを依頼した痕跡が残ります。こうした相互往来は、単なる和平条約ではなく“切磋琢磨”の関係を示すものでした。
3. 軍事的協力関係
義忠が管轄する東三河で国人一揆や所領争いが起こるたび、信光は義忠に援軍を送り、義忠はその功を認めて信光領の公事削減や高利貸付権の付与など実際的利益を約束しています。義忠は信光を「東海道の要」と考え、兵站・情報面で相互補完を図っていました。
――しかしこの良好関係も、義忠の急死(1476年)と、跡を継いだ今川義元が東三河制圧を本格化したことで変質。伊勢氏や安城・三木ら三河内諸豪族との対立を深め、最終的に岩津松平宗家は衰退への道を辿ります。

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岩津松平家とは

2025-08-24 16:53:30 | 室町
岩津松平家とは
岩津松平家は、室町時代(15世紀)に西三河地方で台頭した松平氏の嫡流で、古文書では「岩戸松平家」とも記されます。宗家第2代当主・松平泰親が岡崎市岩津町東山の岩津城(城山)を拠点として勢力を築きました。

沿革と主要出来事
  • 15世紀初頭:松平泰親が岩津城を本拠に定め、三河松平氏の宗家として認知される
  • 継承期:泰親の子孫・信光(親長)らが城主を務め、領国経営にあたる
  • 衰退開始:今川氏による岩津宗家への攻撃を受け、家督が揺らぐ
  • 領域の移譲:安城松平家(庶流)が勢力を拡大し、惣領化を推進
  • 最終局面:三木松平家の信孝が岩津領を押領し、旧宗家の実質的支配権を奪取
岩津松平家の意義
  • 西三河における松平氏宗家の足がかりを築き、後の徳川家康(松平氏本流)誕生へ続く系譜の一翼を担った
  • 今川氏との抗争を通じて、三河地域の有力大名間勢力図が形成される過程に関与
  • 衰退後も血脈は断絶せず、庶流や分家によって岩津領は引き継がれ、戦国末期まで松平氏の影響下に置かれた
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