義教は専制的な将軍として知られ、「万人恐怖の世」と呼ばれるほどの強権政治を行っていたけれど、貞成親王に対しては一見すると好意的な態度を見せていた。たとえば、御所の新造や贈り物の進呈などがその例です。
しかし、その一方で、貞成親王の周囲の人物──田向経良・長資父子や、貞成の弟たちの母である東御方──が義教の怒りに触れて譴責されたり打擲されたりしている。つまり、貞成親王に近い人物でも義教の怒りを買うことは珍しくなかった。
さらに興味深いのは、義教が貞成親王を「天皇の父」として位置づけようとした政治的意図があったこと。これは、後光厳流皇統を断絶させ、崇光院流を強化するための戦略だったと考えられている。義教は後小松院の遺言に反して、仙洞御所を貞成親王に進上するなど、かなり積極的に動いていた。
貞成親王自身も、義教からの贈り物が途絶えたことを気にしていたようで、義教の機嫌を伺う立場にあったことがうかがえる。つまり、義教の好意は一種の「政治的贈与」であり、貞成親王はそのバランスの上で慎重に振る舞っていた。
この関係、まるで水面下で流れる複雑な潮流のよう。表面は穏やかでも、深層では皇統の綱引きが繰り広げられていたんだ。