1603年、小早川秀秋の急死により美作国は無嗣改易となり、森忠政が新たな藩主として転封されることになった。しかし、これに強く反発したのが、元小早川家臣や元宇喜多家臣、在地土豪たちだった。
美作国人一揆の勃発
首謀者は元小早川家臣の難波宗守。彼らは2,680人余りで播磨・因幡の国境を固め、森家の入国を拒否する構えを見せた。目的は、森家を迎え撃ち、進退窮まったところで和議を結び、既得権益の保持を認めさせることだった。
忠政の調略と入国
忠政は女子供含むわずか1,000人足らずで信濃を発ち、美作菅党の有元佐政を寝返らせることに成功。彼の案内で裏道を通り、美作国へ入国を果たす。
一揆勢は忠政を討とうと夜襲を仕掛けるも、同士討ちを起こすなど連携の悪さを露呈し、結果的に忠政の入国を許してしまった。
一揆勢は忠政を討とうと夜襲を仕掛けるも、同士討ちを起こすなど連携の悪さを露呈し、結果的に忠政の入国を許してしまった。
一揆の瓦解とその後
忠政の入国後、早くから従った有元氏や菅納氏、福島氏らには仕官や地主権が認められたが、後から降った者たちは士分を剥奪され帰農を命じられるなど厳しい処遇を受けた。
一揆の指導者・難波宗守は自害し、森家に従うことを良しとしない者たちは美作を去った。
一揆の指導者・難波宗守は自害し、森家に従うことを良しとしない者たちは美作を去った。
歴史の意味
この一揆は、戦国の名残を引きずる浪人たちが、自らの身分と権益を守るために起こした最後の抵抗とも言える。
そして忠政は、調略と冷静な対応でこれを鎮め、美作支配を確立した“冷徹な統治者”としての一面を見せた。
そして忠政は、調略と冷静な対応でこれを鎮め、美作支配を確立した“冷徹な統治者”としての一面を見せた。
この一揆劇、まるで森忠政が自らの支配体制を築くために、敵を作り、敵を崩し、味方を選別する“戦略の舞台”だったようにも見える。