青柳しんじ

日本共産党前さいたま市議会議員 見沼区委員会委員長

私事ですが……。

2015年03月29日 | 日記
私事ですが……。
叔父(母親の弟)が88歳で他界し、通夜式に参列した。
母親の実家は広島で、今も親戚がいる。兄妹は4人で母親が長女だ。祖母が女手一人で子ども4人を育ててきた。
昭和17年ごろ、妹と二人、長野県塩尻市(当時は町)に縁故疎開してきた。二人の弟は、広島高等学校、予科練で祖母と広島に残り、高校生だった叔父と祖母は8月6日被爆した。
叔父は身体全体に小さな傷痕とケロイドが残っていた。祖母は、頭の真ん中が剥げていた。子どもの頃母親に「何でばあちゃんは頭に毛がないの?」と聞くと、「若いころ丸髷で真ん中の毛を思い切り引っ張っていたから」と聞かされ、信じていた。二人とも原爆のことは、私には、一切語らなかった。
叔父の従兄弟も参列していた。年が一つ違いで仲が良かったようだ。二人とも独身の時から我が家(父親の仕事の関係で東京豊島区に越してきていた)にちょくちょく来て、遊んでもらった。本もよく買ってもらった。
通夜式は、型どおりに進行し、導師退場で終わりかかり、「お浄めの席が用意してございますので…」と葬祭場スタッフの声がかかったが、「これから従兄弟が歌を歌いますのでもうちょっと」と喪主である義叔母が参列者に着座を求めた。
歌う前にその従兄弟が歌の由来を語ったが、心のこもった弔辞となった。その歌は、広島高等学校の寮歌で「惜別の歌」という。学徒出陣のときは必ず歌っていたらしい。
8月6日は、広校の学生も多数が犠牲となった。この時、生き残った学生が犠牲者の弔いで歌ったのもこの歌だったそうだ。従兄弟のほうは海軍兵学校に行き、8月6日は岩国いて難を逃れていた。
二人は最近、葬儀になったら、この「惜別の歌」で葬送することを相談していたらしい。
歌い終わると、小さく拍手が起きた、最初は一人、やがて全員に広がった。咳払いもはばかれる固い席だ。小さな拍手も万雷の拍手のように感じた。

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