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好きな和歌:落窪物語から(6)

2020年05月13日 | 和歌
 「つゆ」と聞いて連想するものは何でしょうか。

 古典、特に和歌に使われる「つゆ」は、儚く消えてしまうわずかなもの、頼りないものなどの象徴と考えられています。
 中でも、有名な例は《伊勢物語》に見られる芥川のエピソードです。

 身分違いの恋をして、駆け落ちを企てた男(在原業平)が、道すがら女に「あれは何?」と尋ねられます。
 見ると、道端の草に露がキラキラ輝いているところでした。
 しかし、男には答える余裕がなく、結果的に女は雷雨の中、鬼に食べられてしまいます。

 周囲に轟く雷鳴に気を取られて、そのことにまったく気がつかなかった男。
 一夜明けて、女を失ったことを知り、涙を流します。
 そして、女を守ることのできなかった悔しさと共に歌を詠みます。


  白玉か なにぞと人の 問ひし時
  露と答へて 消なましものを


 無事に逃げおおせることのみに気を取られて、女の問いに答えてやることができなかった自分。
 守ってやっているつもりで、女を守ることができなかった自分こそが、あの時、草の上で儚く輝いていた露そのものだと、男は自分の無力さ、未熟さを痛感したのかもしれません。

 「つゆ」という言葉が暗示するのは、その儚さや短い命だけでなく、「つゆ」そのものに自分の姿を投影せざるを得ない社会的な事情―例えば、職場での人間関係や地位、立場―をも含まれているように感じます。
 言葉で言い尽くせない憤りや、理不尽さ、深い悲しみを業平は「つゆ」という言葉に込めたのだと思います。


 《落窪物語》から話題が逸れましたが、好きな和歌を勝手にランキングするシリーズの第11位に選んだ和歌は、やはり「つゆ」という言葉が使われているものです。

 ☆第11位☆
    人しれず 思ふこころも いはでさは
    つゆとはかなく 消えぬべきかな

 《落窪物語》巻の二より 女君の歌


 この歌は、中納言家の北の方の策略によって、納屋に閉じ込められてしまった女君(落窪の君)が、会うことのできなくなった男君に送った歌です。
 納屋の戸には鍵がかけられ、人の出入りは北の方に監視されているという厳しい状況下で、針でようやく紙に書きつけたという、それこそ「つゆ」のように消えそうな歌です。

 女君は実母が他界しており、強力な後ろ盾がありません。そのため、継母の北の方から召使いのように扱われ、最終的には納屋に閉じ込められてしまいました。
 この歌に使われている「つゆ」という言葉には、そうした女君の自力ではどうすることもできない事情や、そのことを不甲斐なく思う気持ち、また現状を打破する力がないという絶望など、語り尽くせぬ思いが込められているのです。

 (ちなみに、「つゆ」は私の好きな古語トップ3に入る言葉です。)

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