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好きな和歌:落窪物語から(11)

2020年07月22日 | 和歌
 男女の仲が非常に睦まじい様子を「熱愛」と表現するように、人の気持ちの強弱(特に恋愛について)を温度に例えるという習慣があります。

 興味が高まっている時には「熱を帯び」、関心が薄れると「冷めていく」、もしくは「冷え切った」状態などと言います。

 そうした人の感情を温度で表現することは日本だけでなく、ヨーロッパの文学の中にも見つけることができます。

 ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)は《歌の本》(1827)の中に収録した『Lieder(歌草)』という詩集の中で、激しい恋心をエトナ山の噴き上げる溶岩に例えていますし、シューベルト(1797-1828)が作曲した《ミニヨンの歌》作品62-4(Goethe)では、内臓が燃える(brennen)という表現が使われたりします。

 一言に「火」と言っても、ごうごうと燃え盛る炎もあれば、線香花火のように飛び散る火花でもあったり、ろうそくに灯る暖かい火もあります。
 場所や状況によって、様々な表情を見せる火だからこそ、人の心を表現するに相応しいと昔から考えられてきたのかもしれません。

 火を使うことによって、人類は文明を持つことができたと考える人がいるくらい、火は人間の生活になくてはならないものである反面、一度その火が人の手に負えないくらい大きくなると、今度は人間の生活を破壊し、滅ぼしてしまうという危険性もあります。

 火はとても便利なものではありますがしかし、本当は怖いものでもあるという感謝と畏怖を、古来より人々は抱いていたようです。

 何でもあるのが当たり前という現代っ子には、この火の二面性など注目に値することではないかもしれませんが、言葉の中に今なお生きているそうした温度の変化を敏感に捉えて欲しいですし、昔から使われている火に関する言葉を死語にせずに、忘れずにいて欲しいと思います。

 和歌の中で詠まれる火は、人の気持ちを象徴する場合もありますが、人の生命そのものを表すこともあります。
 「風前の灯火」という言葉からも分かる通り、火が消えることは存在の消滅を意味し、短いろうそくに灯る火を死にゆく人の生命として表現したり、風に揺れるろうそくの炎が頼りない人生の象徴として詠まれたりします。

 今回、《落窪物語》から好きな和歌の第6位に選んだ歌では、「火」がポジティヴな表現で用いられています。


 ☆第6位☆
   埋火の きえでうれしと 思ふには
   わがふところに いだきてぞぬる

 《落窪物語》巻の二 男君の歌


 ここで、埋火に例えられているのは、女君の男君への愛情、もしくは女君自身の生命です。

 中納言家の納屋に閉じ込められて、一度は死を覚悟した女君を男君が励ました歌を第10位で取り上げましたが(本ブログ記事『好きな和歌:落窪物語から(7)』参照)、そうした苦難を乗り越え、女君が自分のそばにいるという嬉しさ。そして、目に見えて燃え盛る炎ではないけれど、温かい熱を失わずに長く火が宿り続ける炭の埋火のような女君、あるいは女君の愛情が消えてしまわないように、懐に抱いて温め続けたい。。。

 そんな男君の気持ちを表した歌です。
 まさに、アツアツの関係とはこのことですね。


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