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好きな和歌:落窪物語から(9)

2020年06月24日 | 和歌
 最近、心に響いた言葉があります。
 それは、「家族は替えがきかない」ということです。

 自分の気に入らない親(あるいは、子供)だとしても「取り替えて下さい!」と願うことはできませんし、願ったとしても叶えられるものではありません。
 夫婦であれば、離婚という選択肢を選んで、他人になることはできますが、それでも、もし二人の間に子供がいれば、その子の両親としての関係は残ります。一度、家族として絆を結ぶと、切っても切れない縁が生じるのでしょうか。

 「家族」という人間関係は、世の中で一番ややこしく、面倒なものだと私は思います。
 しかも、それぞれの家庭で、固有の力関係があり、一般論では語れない複雑さがあります。

 例えば、私の父は若い頃、毎日のように大声で怒鳴り散らし、「親は親だからエライ」という独自の理論を振りかざし、家族に対して過干渉で理不尽な存在でした。
 ところが、学校の友人のお父さんは、家ではほとんど発言をせず、毎晩お酒を飲んで居間のソファで寝てしまい、お母さんに叱られているとのことでした。
 また、お父さんの帰りが遅く、通学時間にも会わないので、あまり顔を合わせることがないという友人もいました。

 夫婦の関係も様々です。
 私の父のように、自分の言いたいことはまくしたて、母の言うことには耳を傾けず、あげく「黙れ」と一喝する夫もいれば、友人の両親のように夫を叱る妻もいます。

 互いの親族への態度も様々で、細やかに配慮する場合もあれば、反対に自分の身内には手厚くしても、相手の親族のことなどどうでもいいという態度でいる人もいるようです。

 一概に、どうすればいいということも言えないのが、人間社会の厄介なところです。

 妻の立場からしてみれば、夫が自分の親族にいろいろと心を砕いてくれるのは、嬉しいことなのではないでしょうか。
 中には、それが当然だと思う方もいるかもしれませんが、もし私が妻の立場なら、素直に嬉しいですし、そういう人と結婚出来てよかったと感じると思います、

 妻(あるいは、夫)の親族とは他人なのだから、自分には関係ないという態度でいられたら、残念でガッカリするでしょうし、悲しいのではないでしょうか。

 《落窪物語》というお話は、恵まれない環境で育った女君が、白馬の王子様である男君に助けられて、幸せな人生を送るという、いわゆるシンデレラストーリーなのですが、単なる恋物語ではなく、二人が当時の社会や人間関係をどのように生き抜いたのかという、人生ドラマを描いたものでもある点が、最大の魅力の一つだと思います。

 意地悪な継母の手から、女君を救い出し、二人は仲良く末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、と終わる話ではないのです。

 むしろ、その後の男君による復讐劇こそが、物語の本題のような印象を受けます。
 もちろん、女君を愛するがゆえの復讐計画なのですが、それらを通して描かれる人間の性分や、一筋縄ではいかない家族関係のややこしさ、煩わしさは現代にも通ずるものがあり、変わらない人間の本質のようなものをさえ感じます。

 可哀想な扱いをされてきた女君のために、あの手この手で中納言家の人々に復讐してきた男君でしたが、最終的には和解することを選びます。

 かつて、北の方が女君にしていた仕打ちを知っていながら、見て見ぬふりをしていたとはいえ、女君にとって中納言(この時は大納言)は実の父親です。
 人生の終盤には、親孝行をしたいという女君の心を汲み取っての和解でした。

 その頃には、女君との間に子供もいたので、男君にも親としての気持ちが芽生えていたのかもしれません。
 男君は、少将から大将まで出世しており、その奥方として立派になった女君に看取られて、大納言は大往生します。

 喪に服し、日々精進する女君は、四十九日の法要が済むまで、男君や子供たちのいる屋敷には帰らず、父親の邸で過ごします。
 葬儀や埋葬などの手配、準備を整えつつも、悲しみにくれる女君に男君はそっと寄り添います。


 ☆第8位☆
    なみだ河 わが涙さへ 落ちそひて
    君がたもとぞ ふちと見えける

 《落窪物語》巻の四より 男君の歌


 この歌は、父親の死に際して、悲しみに沈んでいる女君に送った男君の歌です。
 こういう時、「人は誰でもいつかは死ぬものだ」とか「そんなに悲しんではいけない」とか、「君に冷たくした人なんだから、悲しんでやることなんてないよ」と言ってしまいがちですが、男君はそうは言いません。

 女君と一緒に涙を流し、自分も悲しむ気持ちは同じだと伝えるのです。
 「分かち合う悲しみは半分」というお手本のようです。


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