Del Amanecer

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ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団レビュー(3回目)

2007-07-21 10:40:14 | Harry Potter
昨日7月20日は「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」初日。
でも初日とはいえ、先週3日間も先行を朝から晩までやっていたので初日という感じはしない。
すでに3回目なので今回は吹替版を観ることに。
もちろん原語(英語)の響きや俳優たちの本当の声に勝るものはないんだけど、字幕と吹替で翻訳がちがうことと、字幕のないスッキリとした画面が観られること、そして字幕を読んでいる間に見逃してしまう細かい部分や繊細な表情などに集中できること、なんていう利点がたくさんある。
案の定とても新鮮な気持ちで観ることが出来た。

そして・・・う~んやっぱりこっちの訳の方が自然な感じがしてしまう。
たとえば「校則を破るのっていい気分(だったかな?)」みたいなハーマイオニーの台詞にロンは「君性格変えた?(字幕)」「君、本当にハーマイオニー・グレンジャー?(吹替)」・・・これは明らかに後者の方がそのまま。意味するところは同じかもしれないけれど雰囲気がちがう。
そしてもうひとつ。これは明らかにちがうところ。
ハリーがネビルに言う台詞で「君は両親が誇れる人になれるよ。(字幕)」に対して「一緒にがんばろう(だったかな?)(吹替)」・・・。これって明らかに意味がちがうと思うんだけど。

でも演じる俳優が発する言葉のエネルギーや迫力はやっぱりちがう。
ハリーが校長室でウィズリー氏が蛇に襲われたと報告している場面で、一瞬ヴォルデモートに支配されダンブルドアに対して「Look me!!」と叫ぶ場面の迫力は吹き替え版の「僕を見て!」では伝わらない。
シリウスの渋い声も、アンブリッジの異様に甘ったるい声も、声優さんはがんばっているんだけど、やっぱりどうしてもちがうんだよね。
一番違和感があるのがハーマイオニーの声かな。ちょっと浮いているかも。

さて3回目を観た感想は・・・。
すでに回を重ねて慣れた(?)のか、観るたびに違和感が少なくなっていく。
場面のつなぎ(編集)がよくないと思われたのも気にならなくなってきたし、音楽も悪くないと思えるようになってきた。
クライマックスがあっけないと思うのはどうしても仕方がないけれど、あと15分、10分長くするだけでももう少し語れることがあっただろうにと思うと残念な気がする。唐突に終わる感じが否めないからね。

ハリーがシリウスを失ってどんなに喪失感と自責の念に苦しんでいるのかを語るには校長室の場面は短すぎる。
でも続く場面でルーナが「亡くなった人、あんたの名付け親だったんだってね。」といってハリーの手を一瞬キュッと握るところが好きだ。
ほかの誰になぐさめられるより母を亡くしたルーナのひとことが、ハリーには重く暖かくうれしかっただろう。
「なくしたものはきっと出てくるよ。意外なところからね。」というルーナ。
ハリーはシリウスを想って、はかないけれど一筋の希望をこの言葉の中にみつけたのだろうか。
ダニエルのかすかな笑顔がハリーのそんな想いを切なく伝えてくれる。



映画のルーナは原作よりもさらに素敵なキャラクターになっているね。
ふわふわと妖精のようなのにしっかり現実をみつめる深い洞察力がある。
ルーナはレイブンクローの生徒なのだ。賢くて軽やかで魅力的だ。可愛いしね♪

ハリーの中に愛情と友情があふれてヴォルデモートをいたたまれなくして彼の支配から逃れる場面も好きだ。
シリウスに抱きしめられるシーン、まだホグワーツにきたばかりだった頃のロンやハーマイオニーとのかわいいシーンの数々、ハリーの両親、ハリーを大切に思う人たち。
ダニエルの渾身の演技が胸を打つ。
ここは原作だと「この苦痛に比べれば死などなんでもない。そうすれば僕はまたシリウスに会える・・・ハリーの心に熱い感情が溢れた・・。」と簡潔な表現なのだ。
この文章があんなふうな映像になっていたのはとても感動的だった。
映像と言葉の表現のちがいは面白いよね。

いろいろな想いに浸りながら流れるクレジットをみつめて・・・。

立ち上がって後ろを見ると、あららもう誰もいない。
あの大きな10番スクリーンを独り占めした気分で余韻に浸りながら外へ。

窓の外はレインボーブリッジの夜景が広がり、ハリーが箒で飛んだロンドンの夜景を思い出す。
さてもう3回観て字幕に頼らなくても大丈夫になったので、次は字幕版でオリジナルの声と演技を楽しもうっと。





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