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SPORTS! SPORTS! 寝てもさめても

16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

木内幸男、旅立つ! 決して忘れることのできない、数々の名勝負を残して。

2020年11月25日 | 高校野球

興味のわかないミスマッチな日本シリーズを眺めていたところ、
衝撃なニュースが飛び込んできました。

「元取手二、常総学院で全国制覇三度の名将、木内幸男氏が89歳で死去」

頭をガ~ンと殴られたような衝撃でした。
池田の蔦監督、箕島の尾藤監督が亡くなった時以来の、
何とも言えない大きな衝撃でした。

すでに89歳で、
数年前からがんを患っていることも知ってはいましたが、
木内監督のあの笑顔とひょうひょうとした語り口を思い出すたび、
なんだかいつまでも亡くならないのではないかなんて、
感覚としてそんなことを思っていました。
そんなこと、あるわけないのにね。

高校野球監督としては、
今風に言うならば本当にキャラの立った存在で、
蔦監督らと並んで昭和~平成にかけての高校野球には、
欠かせない人でした。

木内監督といえば、
西武ライオンズの古いファンであれば、
松沼兄弟を育てた監督として知られていました。

しかしながら、
その当時はまだ甲子園にコマを進めたことはありませんでした。
甲子園で出るまで長く苦労したということでは、
池田・蔦監督と本当によく似た経歴です。

ワタシが高校野球に”目覚めた”昭和40年代は、
高校野球で”取手”といえば取手一高のことで、
取手二高が甲子園に初登場するのは1977年、
昭和52年のことです。

「学生野球の父」飛田 穂洲を生んだ土地ながら、
昭和40年代では関東の中でも神奈川、千葉、栃木、東京などに頭を押さえつけられる存在だった茨城県の野球。

初出場した昭和52年のチームから、
木内監督率いる取手二高は少し従来の茨城県のチームとは毛色の経路の違った感じを醸し出していました。
画一的な「甲子園戦法」とはちょっと違った、
「打って、走って、かき回して」
そんな感じで点を取るチームを志向していたように思います。

初出場の時の木内監督、
写真で見るとホント、
若いです。

コメントもまだまだ「木内節」という感じではない画一的なもの。
というか、
まだネームバリューのなかった木内監督には、
記者たちもあまり突っ込んで話を聞くという感じではなかったのかもしれませんね。

ちなみにこの年、
初出場ながら開幕第2戦で初白星も飾っています。

次の年も連続出場を果たしますが、
この時は初戦敗退。

高校野球の神様は粋なことをするもので、
この時も前年と同じく開幕第2戦目での試合でした。

この試合、
岡山東商の下手投げエース、緩い球を駆使する投球に対して、
ガンガン打っていくスタイルの取手二高が完全に術中にはまってしまったという試合内容で、
手元の資料にも「墓穴を掘った、取手二打線の過信」とあります。

木内さん、
やっぱり金属バットの時代になって「打って勝スタイルでなければだめなんだ」と、
かなり強く思っていたのではないかと考えています。

ワタシが木内監督を最初に「面白いなあ」と思ったのは、
昭和58年の選抜を前にしたチームの特集番組の時でした。

初の選抜を前にして、
木内監督が自らグラウンドに水を撒いていて、
その時に記者がいろいろ話を伺っているというシーンです。

木内監督は独特の茨城弁で「わたしゃ教師じゃないから、練習が始まるまではやることないっぺよ。だからこうやって、水撒いていんだあ。。。。。」
なんていうことを言っていました。

その頃はまだ監督といえば「絶対権威」の象徴のこわもて系ばかりだったので、
こんなさばけた監督、
お目にかかったことがなくて、
「本当に面白い人だなあ」
なんて思いました。

この年の取手二高。
関東では最後の枠にようやく引っかかったという「あまり期待されない」初出場でしたが、
選抜の初戦では大阪の強豪、泉州(確か秋の近畿大会制覇校)に対して、
2年生を中心としたメンバーが溌溂と戦い追い込んでいき、
敗れたとはいえ翌年の大ブレークへの布石は、
がっちり打たれていました。

そして翌年。

この年の「木内監督の最高傑作」といわれるチームが、
ルーキーズさながらにのびのびと戦い、
当時最強の名をほしいままにした、
あの桑田、清原擁するPL学園を延長の激闘で破り、
見事に全国制覇を遂げたのでした。

そのことについては、
18年に書いた記事をどうぞ。

取手二高の物語 - SPORTS! SPORTS! 寝てもさめても (goo.ne.jp)


ここまでが、
木内監督の長い長い「高校野球監督人生 第1章」ですね。

「プロの高校野球監督」
として名を挙げた木内監督が次に選んだのが、
開校間もない常総学院。
そこで木内監督は、
一から野球部を立ち上げて強化することを自らの第2章としたんですね。

高校野球というものの人気がピークを迎え、
その社会的地位もものすごく高かった時代。
こうした名将を迎えて野球部を強化するという流れが、
加速度的に増えていった時期でした。

しかしながら、
長くその学校に携わり、
野球でも実績を上げるというのは並大抵のことではありません。

一時期花火のようにパッと上がってパッと散る・・・
そんな学校、監督は結構山のようにいましたが、
そんな時期は長続きせず、
後年、両者にとって不幸な結末を迎えるということも多かったようですね。

最後の最後まで「生涯常総」を通した木内監督、
そしてそれをバックアップした常総学院。
両者が見事にWinWinの関係で、
うらやましくなってしまいます。

木内監督が常総学院に移ったのが昭和60年。
そこから平成のすべて、
30年余りにわたり、
「木内常総」
は高校野球界にものすごく大きな影響を与えましたね。

センセーショナルなデビューは昭和62年春。

東海大浦安の選抜辞退があり、
補欠校となっていた常総学院が、
まさに「選抜開幕直前」に”まさかの出場校”となり、
初出場ながらバタバタでその余韻に浸る暇は全くなく、
出場→試合→敗退。

多分この間、1週間ぐらいじゃなかったのかな?

「気の毒だなあ」
なんて思っていたんですが、
どっこい木内常総、
この「得難い体験」を見事に夏に生かすんですよね。

選抜を見た限り、
「全国で通用するには、まだまだ」
な戦力という感じで、
今でいうと21世紀枠のような感じで眺めていた戦力が、
見事に夏見たときにはブラッシュアップされていました。。。。。

常総学院のこの夏初出場の時の快進撃は、
取手二高の”あの夏”そっくり……
というか、あの夏よりもセンセーショナルだったかも。
何せ、まさに「無印」のチームだったんですから。

初戦で名門の福井商を破り勢いに乗ると、
2回戦では優勝候補にしてプロ注目のエース上原を擁する沖縄水産と激突。
最初にして最後(?)の、
木内監督と裁監督の激突でした。

ワタシは当然沖縄水産が勝つだろうと思ってみていると、
常総が初回から上原を鋭く攻めて4点を先取。

驚いているとその後も得点を重ね、
エース島田は安定感抜群のピッチングであの沖縄水産に全く付け入るスキを与えず7-0の完勝。
「見事という言葉はこのチームのためにあるのか?」
なんて思いながら眺めた試合になりました。

そしてもっと驚いたのは、
この試合からわずか10数時間後に行われた3回戦で、
今度は大会屈指の剛腕・伊良部を攻略。
常総が尽誠学院に6-0と完勝したことでした。

伊良部はこの前の2回戦で、
同じ優勝候補で関東屈指の戦力と言われた浦和学院と激突。
豪打・鈴木健を力勝負で抑えきって逆転勝ちしてきていて、
この大会でも有力な優勝候補に躍り出た存在でした。

しかしこの伊良部に対して常総打線は臆することなく連日の二けた安打で6点、
エース島田も連投をものともせずに4安打完封で連日の完封勝利を上げました。

この優勝候補連破の2,3回戦を経て、
マスコミもにわかにざわざわとし始め、
「木内マジック再び」
という文字が紙面に踊り始めましたね。

ワタシも春の選抜の時と比べて、
これほどまでに戦力アップするなんて・・・・・と、
本当に驚きながら見ていました。

そしてその後も劇的な勝ち方が続き、
準々決勝では中京相手に0-4からの大逆転勝ち、
そして準決勝ではこの大会で一躍ドラ1有力にまで評価を上げた怪腕・川島の東亜学園に対してサヨナラ勝ち。
サヨナラのホームに滑り込んだエース島田の笑顔で、
翌日のすべての紙面が埋め尽くされました。

そしてそして。。。。
決勝の相手はあの因縁のPL学園。
木内監督VS最強PL。
3年ぶりの対戦でした。

まさに盤石な攻守で無人の野を行くがごとく春夏連覇に突き進んできた最強軍団のPL。
エースに野村、抑えに橋本、そして岩崎の超強力3本柱。
打線は立浪を中心に片岡、深瀬などそうそうたるメンバー、
控えに2000本安打のヤクルト・宮本がいるなんていうところにPLのすごさを感じる布陣でした。

あの決勝戦。

盤石な投手陣とある意味圧勝で勝ち上がってきたことで、
決勝を前に十分に余力を残してきたPLに対し、
一人しかいない投手陣でエース島田が投げて投げて投げまくり、
しかも激戦を制してきた常総学院の間に、
確かにコンディションの違いは明らかだったのではないかと思いますね。

木内監督としては、
先手を取る、あるいは先手をとれなくとも中盤まで競っていく・・・・・
そうなれば「マジック炸裂」の手はいろいろ考えていたのではないかと思いますが、
何しろチームのコンディションが違いすぎて初回から押されまくり、
勝負に持ち込めないという、手を打つことすらできないという、かなり悔しい試合だったのではないでしょうかね。

常総が先手を取れば、
かなり面白い試合になっていたような気が今でもしています。


この試合は2-5で敗れPLにリベンジされてしまいましたが、
まだ始まったばかりの常総野球部の歴史には、
本当に大きな足跡を残した大会だったと思います。

そして木内監督にとっても、
自身のチーム作りに本当に自信を持った大会だったのではないでしょうか。

その後の活躍については、
今ここで語る必要もないぐらい、
高校野球ファンならだれでも知っているきらきら光る足跡です。

ワタシが「木内監督、スゲ~な」と思ったのは3度。

まずは94年春の選抜での準優勝。

これは前年である93年の、
エース倉、打の中心が金子(日ハム)、根本とまさにキラ星がそろった「最強軍団」が前年全国制覇できずに、
その2年次から試合に出続けていた黄金世代の選手がすべて卒業した「ポスト年のチーム」で、
選抜準優勝という偉業を成し遂げたからです。

ホントに前年のチームと比べると、
投打に小粒でとても甲子園で勝ち進めないだろうと思っていたところ、
1試合1試合を「丁寧に」戦って気が付いたら決勝まで進出していました。
ワタシは「これぞ木内マジック」なんて、
結構思ったりしましたね。

そしてその思いは、
2002,2003年のチームの時も感じました。

2001年に選抜で初制覇を成し遂げた常総。
このチームは戦前から優勝候補の筆頭にあげられていたほど、
なかなかの選手たちがそろう精鋭軍団でしたが、
春勝ったものの夏は甲子園で結果を残せませんでした。

その翌年の2002年のチームは、
94年のチームの時と同じく「前年と比べると、戦力的にさほど強くない」と思われていましたが、
3回戦でその当時最も強かった明徳義塾を相手に8回まで奮闘。
その戦いぶりは、
「これが甲子園で勝つ戦い方なんだなあ」
と木内采配にうならされました。

最後は明徳の「このチームで絶対優勝する」という気迫の前に連続弾で敗れましたが、
今度は翌年、03年のチームが見事にリベンジを果たします。

この年のチームも決して前評判は高くなかったものの、
これまた1戦1戦を丁寧に戦い、
巧みな継投と機を逃さない攻撃で快進撃。
決勝では東北のダルビッシュを攻略して、
常総学院として悲願の夏の選手権初制覇を達成しました。

01年、02年、03年の3年間の戦い方は、
まさに「木内野球」の集大成で、
「甲子園で勝つための戦い方」を駆使して、
「圧倒的な力は持たないチームを甲子園で勝たせていく」すごさを感じさせてくれました。

そしてこの年で、
いったん木内監督は、
監督生活に区切りをつけるんですね。

その後は大所高所から常総の野球を見守っていましたが、
「お家の大事に駆けつける」という感じで、
いろいろチームがうまくいかなかったときに、
学校に請われる形で何回か監督に復帰しましたが、
まあピークの時のような戦績は残すことができませんでした。
そりゃあもう齢70を超えての復帰だったので、
期待するほうが間違いですよね。

でも「お家の大事には、大御所が駆けつけてくれる」という、
そんなところにも、
常総学院と木内幸男の、
幸せな関係を垣間見ることができましたね。


ワタシが木内監督の野球人生を振り返ってみるならば。。。。

若さとともに、甲子園への情熱で甲子園という大きな存在に自ら戦いを挑んででいった取手二高時代の「第1章」。
そして自分を表現する十分な”場”を与えられ、
今度は甲子園の神様に愛され、
「甲子園野球」を深く探求していった常総学院時代の「第2章」。
それぞれが味わい深く、
振り返るやに「やっぱり稀有な、今後もそうは現れないであろう稀代の名将」だと思います。


ワタシにとって池田の蔦監督、そして常総の木内監督は、
50代になってから初めて甲子園で活躍の場を与えられた・・・・という、
実に味わい深い存在です。

決して「通算勝利数」とか「通算優勝回数」などでは語りつくせない、
『甲子園に歴史を刻んだ存在』
でした。

木内監督の逝去の報を受けて、
あの笑顔と茨城なまりのコメント、
そして、
その裏に隠されたすさまじいばかりの闘志と冷徹なまでに計算されつくした甲子園戦略。
そんな「親しみと凄み」を、
思い出しました。

甲子園が本当に人気があった頃の「青春時代」を駆け抜けていった名将に、
心からの哀悼の意を表します。

ありがとうございました。
どうか安らかに。



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