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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

心躍らせる、名将同士の対決

2011年03月09日 | 高校野球名勝負

箕島・尾藤監督の訃報から数日。頭の中でぼうっと、
高校野球のことを考えていました。

箕島高校の素晴らしいシーンが浮かんでは消え、浮かんでは消えしていましたが、
ワタシは尾藤監督の姿を思い浮かべるたびに、
ほかの”名将”と言われる監督同士の戦いが、
鮮明に浮かび上がってくるんです。

もちろん最近の高校野球でも、
たくさんの”名将”と呼ばれる監督さんがいて、
毎年ぎりぎりのせめぎあいをしています。

しかし、
尾藤監督の箕島がピークを迎えていた1970年代後半から80年代にかけて、
忘れられない名将同士の試合がたくさんあったなあ、
というのがワタシの感想です。

個々の監督さんの強烈な個性が光った時代でした。

尾藤監督絡みで言えば、
まずは昭和53年のPLとの戦い。
春の選抜準々決勝での戦いで、
PLのベンチには、その年の夏に初優勝を遂げる鶴岡監督が陣取っていました。

近畿勢同士の緊張感あふれる試合でした。(箕島2-0PL)

54年には春夏連覇を達成しますが、
その中でも忘れられないのが春決勝の浪商戦。(箕島8-7浪商)
ベテラン・広瀬監督との対戦でしたが、
この試合は尾藤監督vs香川・牛島と言った方がいいかもしれません。

その夏には語り草になっている星稜戦もありました。(箕島4×-3星稜 *延長18回)
尾藤監督も山下監督も、
まだ30代で若かったですね。
決してベテランとは言えない青年監督の二人が、
ものすごい試合をしたのは忘れることができません。

決勝では池田高校の蔦監督とも対戦しました。
やや判官びいきで甲子園が”蔦監督に優勝させてやりたい”という空気だった中、
箕島が最後にウエストボールをスクイズして決勝点をもぎ取り、
春夏連覇を達成しました。

55年には横浜・渡辺監督との唯一の対戦もありました。(横浜3-2箕島)
愛甲を擁して優勝候補筆頭だった横浜に対し、
夏連覇を狙っていたものの戦力的にはかなり劣っているといわれた箕島。
しかし、3点を追っての中盤からの箕島の”圧力のかけ方”は半端じゃありませんでした。

横浜は最後、
本当にほうほうの体で何とか逃げ切ったものでした。

その年の2回戦では、
選抜優勝の高知商に対して、
完璧な試合運びで”球道クン”と言われた中西を攻略しました。(箕島5-0高知商)
この試合では、
尾藤-谷脇の対決でした。

57年センバツでは、
後々まで残る凄い戦いがありました。
センバツ史に残るといってもいいでしょう。
初出場の明徳(現明徳義塾)が王者・箕島に挑んだ戦いでした。

明徳の監督は高知商で長く監督を務めた老将・松田監督。
試合は0-0で延長に入り、
13回の表に明徳が2点を取ると、
すかさず箕島が2点を取り返すといった展開。
14回表にまた明徳が勝ち越すと、
その裏箕島はまたも同点に追いつき、そして逆転サヨナラ。

信じられないシーンの連続で、
『夏の箕島vs星稜戦に劣らない』と言われた激闘でした。
老少・松田監督は、
『武蔵が小次郎に敗れた』
との名言を残して甲子園を去り、
その年の秋にユニフォームのまま(現役のままという意味)この世を去ったのでした。

どっかりとベンチに腰を下ろして戦況を見守る松田監督に対して、
立ちながらにこやかな尾藤スマイルを終始浮かべていた尾藤監督。
二人の名将の姿が映るたびに、
ゾクゾクしたものでした。

昭和58年夏にも、
吉田高校に対して1点を追う9回1死3塁でスクイズを外され3塁ランナーがアウト。
その追い詰められた状況から硯選手が起死回生の同点HRを放つという試合がありました。(箕島4×ー3吉田 *延長13回)
あのころの箕島は、
何か神通力のようなものがあって、
『簡単には絶対に終わらない』というオーラを出しまくっているチームでしたね。

昭和59年には、
木内マジックで知られる木内監督との直接対決も。(箕島3-5取手二)
3-0とリードした箕島が、
8回に取手二の大反撃をくらって逆転負け。
これまでの箕島を見てきたものにとって、
信じられない試合展開でした。
そしてこの試合で一気にブレークしたのが木内監督。
波に乗って優勝を果たして、その名を満天下にとどろかせました。
その後の活躍はご承知の通り。

この試合は、
箕島にとっても、そして木内監督(取手二・常総学院)にとっても完全にターニングポイントとなった試合となりました。

箕島はこの昭和57~59年の3年間、
本当に強いチームを作って甲子園に乗り込んできて、
全国制覇を狙ったもののその夢はかないませんでした。

57年は箕島史上最強と言われ、
58年はエース吉井に硯、勘佐のホームランバッターをそろえ、
59年はドラ1のエース二本柱(島田・杉本)という考えられないようなすごい戦力をそろえながら、
3年ともに優勝に届きませんでした。

やっぱり、
甲子園で優勝するためには【運】も味方につけなければならないのでしょう。

その後の和歌山県は智弁和歌山の時代となり、
尾藤監督が監督を辞めた後は、
夏の選手権出場は一度もありません。

『盛者必衰』という言葉がありますが、
まさにその通りの高校野球界です。

あの箕島も、
あのPLも、
あの池田も・・・・・
ず~っと強くいられるわけではありません。

智弁和歌山・高嶋監督は『一番チームが強い時期は、10年ぐらい』と10年説を唱えています。

だからこそ面白いのが高校野球。
次はどんな強い学校が出てくるのだろう。
それを考えただけでもゾクゾクします。

今年も様々な学校が選抜に集ってきます。

一気に栄光へと駆け上がるチーム。
一度の栄光で、また全国への扉を長く閉ざされるチームもあります。

『ただ高校生が野球をやっているだけではない』高校野球という世界。
【日本の文化】として語られる存在だと思います。


あ~~~~~
最初に書きたかったことと、
話が思いっきりずれてしまいましたね。

すみません。

でも、
尾藤監督の訃報に触れて、
さまざまな思いがよみがえってきているのが本当のところです。

2009年の選抜に箕島が久しぶりに出場したときは、
ワタシも訳もなくうれしかったなあ。
そんなことを思い出していました。
星稜もがんばってくれよ~。また甲子園に戻ってきてくれよな~。



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2 コメント

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Unknown (通りすがり)
2011-04-09 12:08:39
通りすがりの和歌山出身者です。

あの頃、箕島は和歌山の誇りでした。

吉井、硯、勘佐のとき、私は小学校5年生で、夏の予選、同級生とふたりで紀三井寺球場に準決勝も決勝も見に行きました。

準決勝、大飛球を相手チームのレフトが好捕。ファーストランナーだった勘佐が三塁を回ってしまっていたのですが、戻らずにそのまま全力でホームを経由して「順回り2周目」で1塁に駆け込み、レフトからの送球もまたギリギリのタイミングで審判も大ゼスチャーで「アウト!!」と宣告。ルール的にどうなのかわかりませんが、球場中が大爆笑に包まれたのを覚えています。

決勝では、レフト守ってたキャプテン田伏がフェンスに激突して腕を骨折した記憶があります。甲子園ではキャプテンが万全だったら!と思ったものです。

今や常連校の智辯和歌山も当時は箕島にまったく勝てず、夏に初出場したときも、箕島が先に負けたので対戦せずにすみ、初出場を決めたのを覚えています。

尾藤監督のご冥福を、いまさらですが、お祈りします。
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名将からはオーラが発せられている (まめちち)
2011-04-11 14:29:04
通りすがり様、コメントありがとうございます。
尾藤監督の訃報、いまさらながらに残念です。あのころの箕島、監督、選手、ユニフォーム・・・・すべてが【強豪校とは】ということを体現しているようなチームで、なぜこのチームはこんなに鍛えられているのだろう、と思ったものです。
横浜・渡辺監督が今回もコメントしていましたね。『尾藤監督の箕島は、潮の香りのするようなチームでした』
まさに私が感じた箕島高校を、そのまま言い当てたようなコメントでしたね。
私の古い友人も和歌山出身。よく高校野球談議に花を咲かせましたが、必ず最後は『箕島はすごかった』で締められました。私は上尾高校のファン。『野本監督もすごかったよ』これがお約束でした。
昭和57年の選抜で、その箕島と上尾が、東西の優勝候補同士として甲子園で対戦。私はスタンドで、『負けるはずがない』と思っていた上尾の日野投手を軽々と打ち込んでいく箕島野球のすごさに、あっけにとられたものでした。

今年の選抜でも小倉vs馬渕の対決など、楽しい
対戦がありました。ベンチだけ見ていても、高校野球は楽しいですよね。


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