昔の下田 2021年03月19日 | その他 先週歩いた東浦路の疑問を、郷土史に詳しいTさんに聞いたところ一冊の資料を頂きスキャンしてUP新田町の道軒橋はあるが、稲生沢川には橋はかかっていない。板を引いた簡素な橋はあったが、大雨ですぐ流されてしまっていたそう。この地図には渡し場と記載されている。渡し舟を扱う家は何軒かあり居合わせたものが船を出したそう。ちなみこちら、昔の画像満載です。 http://shimoda-history.net/ « 東浦路を歩く | トップ | 格安SIM・格安スマホ »
4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (dan) 2021-03-19 22:33:12 セイラー服の橋を興味深く拝見しました。その橋の場所付近で渡していた可能性がありますね。 返信する 渡し場 (kawa) 2021-03-20 05:39:22 今のみなと橋の所に渡し場があったそうです。岸壁が整備される前は、下へ降りる石段がありました。やはり渡し賃を節約するため着物をまくって渡ったり上流まで迂回したりしていたそうです。 返信する 経路変更します (dan) 2021-03-22 14:50:41 やはりみなと橋付近が渡し場でしたか。経路を変更します。 返信する 板垣賢一郎著・伊豆 天城路 (kawa) 2021-03-23 04:54:04 板垣賢一郎著・伊豆 天城路に松平定信公の伊豆沿岸の巡視(寛政五年 1792年)事が書かれていました。3月18日江戸発、22日に天城峠で休憩後梨本泊、約400名。そして23日(先行組は22日)に、了仙寺泊。26日6時に下田発、片瀬で一泊だったそうです。了仙寺までは何処を通ったんでしょう。了仙寺は地図には載ってませんでした。(-_-;) 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
その橋の場所付近で渡していた可能性がありますね。
岸壁が整備される前は、下へ降りる石段がありました。
やはり渡し賃を節約するため着物をまくって渡ったり
上流まで迂回したりしていたそうです。
経路を変更します。
3月18日江戸発、22日に天城峠で休憩後梨本泊、約400名。
そして23日(先行組は22日)に、了仙寺泊。26日6時に下田発、片瀬で一泊だったそうです。
了仙寺までは何処を通ったんでしょう。了仙寺は地図には載ってませんでした。(-_-;)