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大善人へ身魂磨き

文字や言葉の先

文字や言葉がなかったら、コミュニケーション出来ないかというとそんな事もなく言葉の壁を越えたカップルとかもいますし、赤ちゃんは喋れませんが、周りの皆を幸せにしますから、愛は言葉を越えるを体現していますね。




拈華微笑という話があります。釈尊が霊鷲山で弟子の迦葉(かしょう)に仏法を伝授した話です。



釈尊は、説法を毎日霊鷲山でしていましたが、ある日、何も言わず蓮華(れんげ)をかざして大衆に示しました。大衆はみな黙って何だろうと思いましたが、ただ迦葉だけはにっこりほほえみます。




そこで釈尊は「正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)、実相無相微妙法門(じっそうむそうみみょうほうもん)」の仏教の真理を迦葉にのみ伝えたとする話です。




日本語では、以心伝心、不立文字にあたり、言葉によらないで意図する事をわかる感じです。



テレパシーかもですが、相手のことを感じとる力、自分の心の鏡に相手の心を映す力。


そういう力は、非常に微妙な心の機微を感じる力とも言えそうです。


はじめに言葉ありきという言葉があります。


言葉や文字を通して知ることが出来る事はたしかに多いですね。海外の古い書も翻訳により、今では読むことができます。


良い書は行間から滲み出る何とも言えない味わいがあり何度も読み返したくなります。



お釈迦様やキリストや、老子のお言葉を

時代を超えて知ることができるのは素晴らしいことです。そういうお言葉は含蓄があり、言葉の奥は感じとるしかないです。訳文も訳す人の受ける印象により変わりますし。




情報化社会、何がホントで何が間違いなのかわからない情報がポンポン飛び交い、言葉や文字は沢山溢れて軽く運ばれます。



そんな時代、言葉や文字では表す事が出来ないものを感じとったり、それを盲信することもなく、自分でなんとなく掬い取ったり、



日常生活では、相手の様子を感じとり、辛そうかも、声かけてみようかな、とか


あの子最近元気ないな、うつむき加減だな、目に輝きがないな、とかを目と耳で感じとる。



社会におこる様々な事件、悲しい虐待死や、いじめを苦に命を絶つとかも、おかしいと感じたら手を差し伸べるヒトが溢れていけば無くなっていくと思います。




ニュースが流れるたびに、自分の無力さを痛感します。



情報も知識も分別も説明もいらない、自分の心がただそれを感じとり即動く、その力があればあるほど人は優しく慈しみ深くなれるのかもしれないですね。










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