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大善人へ身魂磨き

生まれるということ

妹が病気の時の娘の話を少し前ブログで書いていました。実は、その日の前日同じような内容が頭に浮かびこのブログを書いていました。同日朝妹のを見てビックリ。あっ、またダブった!ってな感じで、妹と私は考えることはよくシンクロします。双子ってそんなことよくあります。暫く経ったからアップしますね。

妹が病で私の家で療養していた時、末娘はまだよちよち赤ちゃんでした。その娘が、身体が痛くて辛くてたまらない妹に乗っかったりするんじゃないかと、私は心配していました。


かなりギャン泣きバタバタ怪獣赤ちゃんだった娘でしたが、なんとなく妹の辛いことは解るらしく、妹のそばでバタバタする事もなく、ある時は、ちょこんと妹の横でお昼寝したり、妹がいうにはかなり癒しだったようです。


その時に、妹が赤ちゃんの娘に生まれてしまったねぇ、この世に、としみじみ言ったのを今も覚えています。


妹は、身体が辛すぎて、生きる事の試練に耐えていて、脱ぐことが出来ない辛い身体と共に生きている時だったので、その言葉に、生まれたら生きないとイケナイけど、生きることって辛いんだよーと言っているようでした。

だからか、赤ちゃんの娘に生まれてしまったねぇという言葉になったんだと思いました。私は妹を心底可哀想に思い、双子だからできれば痛みを半分分けて欲しいとさえ思っていました。


妹には幼い頃から生まれる時、あーあ、またやり直しかぁ、という感覚があったようです。病気には関係なく付き纏う感覚。生きることが楽な時も苦なときも。今も物心ついたころには既にあったその感覚が忘れられないと話します。私には、その感覚はありません。


魂が覚えているのか、第六感なのかわからないけど、人生で起こる避けられないことを、繰り込んで生まれてきたという潜在意識が少し顕在意識として残っているのかもです。

病はそのひとつで、たぶんこの病は避けられない試練のひとつだと思うとも言っていました。津野山のことも魂と神様との約束だったのだと思います。


誕生の誕には、ウソ、偽りの意味があるようです。つまり、命をもって生まれて生きているように見えてもそれは仮の世で、偽りの自分を生きてる人が多いかも。本当の自分に合うまで探求することが人それぞれに課された難題なのかもしれません。


反対に、亡くなる日は命日といいますから、亡くなると本当の自分の命の真価を初めてみせられ、あー生きている時なんで真価を出して生きなかったんだ、他人のいうことに振り回されてしまったんだ、なぜあんなことしたんだ、とか思うかもしれません。


なんだか、誕生と命日の漢字に隠された逆説のカラクリがこの世とあの世にあるように思います。


誕生して亡くなるまでは、人それぞれ長い人も短い人もいるし、環境も様々だけれど、自分の中にもいる神様は、本当のあなたはそんなもんじゃ終わらない、いつ真価を出せるかを待っているのかもしれません。


しかし、自分の真価って??とふと考えると私はこの歳になってもこれだ!!と言えるようなものがすぐ思いつく訳ではありません。特別な何かや、才能があるわけでもなく平凡に生きてきましたから。


だから、ブログのタイトル、夢で見た大善人を目指して、大雑把ではありますが、心が純粋に喜ぶことをし、心を汚すことはしないとまず決めました。


そして、神様大好きのわたしは、内神様に恥じないように、そして外神様も大切に思い、ご先祖様も大切にします。


せっかくこの世に生まれてきたのだから、命ある限り、出会えた周りの人を大切に思いながら命に感謝して、出会いに感謝して一生懸命に生きたいです。




【画像は赤ちゃん検索画像より】

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