土佐のアカメ釣り(1)
四万十 川漁師ものがたり(1993年.同時代社)
「四万十 川漁師物語」は故山崎武さんという四万十川で川漁師を生業とされた方が書いた私家本「大河のほとりにて(1983)」を書名を変えて,後に出版されたものです.
著者のあとがきに「大変苦労しながら遺書でも書くつもりでここまで書いてきた。 中略
学者は学者の立場で書いたものも多く、政治家は政治家の立場で書いてもいる。そんな中に、川の漁師が長い生涯の間に見聞きした生のままの記録が一つくらいあってもよいではないか。そんな横着も手伝ってまったく天衣無縫に書きなぐってきた。 後略 青文字は本文より引用」
この本の,「珍魚、希魚のこと」という章に山下喜代松さんというアカメ釣り師の話がでてきます.山下さんは60年ほど昔からアカメ釣りをしていると書かれています.1983年に私家本として出版されていますので,その年から逆算すると,山下さんは1921年(大正10年)当時からアカメを釣られていたということになります.徳島の海老ヶ池でアカメを釣っていた池田さんが大正9年ですから,奇しくも同じ時期から徳島と高知でアカメが釣られていたということになります.
「ミノウオ釣りはこの川の釣りの中ではもっとも豪快なものである。ミノウオ釣り六十年のキャリアを持ち、名人といわれる山下喜代松さんのお話を次に紹介しておこう。ちなみに先に述べた卵巣も同氏から頂戴したものである。まずエサは三十センチもあるようなコイや、フナやナマズなどを使う。このエサを五センチもある大きな釣りばりに活きたままつけて泳がせ、これを物干し竿大の竹の先端に取り付ける。この時釣り糸(二十号)を別の細糸でくくりつけるのであるが、これは獲物がかかった時、細糸の部分がひとりでに切れるように考案されたものである。百メートル近い釣り糸を大きな孟宗竹の節を抜いたものに巻き付け、これを船に取り付けて、一寝入りしながら相手のかかるのを待つ。これは納涼を兼ねた無精で悠長な釣り方である。もう一つの方法は道具は同じであるが、釣り糸を十五メートルほど延ばしてゆっくり櫓を漕ぎながら釣る方法で、少し骨は折れるが確率は高い。獲物が近づいてくると、まず活きたエサが騒ぎだす。そうなると相手はもうすぐそこまできているのである。
やがてぐっとくる。五、六十メートルやったところで、船端に足をかけてウンとばかり引きとめると完全にかかる。
それからは魚との格闘である。相手が大きいと舟を引っ張って数百メートルも走る。手繰りつ戻しつ数十分もすると、さすがの大物も弱ってくる。船端に引き寄せておいて鰓蓋に手をかけて舟の中に引き上げる。同氏によると鰓蓋を開かない魚に出会ったときには胸鰭のところを手でくすぐるとすぐ開くといわれた。度胸もいるし、スリルに富んだ話しであった。
釣りでは確率の低いミノウオ漁も水中に潜ってモリで仕止める漁法では結構生計がたてられたらしく、十数年前までは、それを専業とした人もあったが、いまではそれもなくなった。青文字は引用」
ここに書かれた釣りは,先の一寝入りしながら相手がかかるのを待つ釣り方を「ござれ釣り」とよぶようです.また,二十号(ナイロン糸?)の釣り糸とあることから,近年の釣りと思われます.大正9年(約93年前)には,いったいどんな道具でアカメを釣っていたのでしょう.わたしはPEの使われ始めたころ,アカメ釣りをやめましたので現在主流のタックルさえもよくは知りませんが,大正時代ともなるとどんな糸を使っていたのか想像すらできません.
四万十川でのアカメ釣りはフィッシング岡田(四万十川のほとりの釣具店)のご主人故岡田光紀さん(元全日本希少魚保護協議会会長)のお話ではかなり古くから行われていたようです.岡田さんのおじいさんもたしなまれていたそうで,その当時のラインは絹糸をよりあわせて使っていたとお聞きました.