13/7/13 第5回アカメフォーラムで土佐レッドアイ(2名)と元スワックの辻本 隆さんの3人で,「アカメ釣りの歴史 そして今 あした」というテーマの講演をしました.
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講演要旨
日本のアカメがはじめて文献にあらわれたのは1922年(大正11年)です.魚類分類学の草分けとして知られる,高知出身の田中茂穂先生が記載しました.
いつ頃からアカメは釣られていたのでしょうか.
1980年,週刊釣りサンデーに,徳島の浅川にある海老ヶ池でアカメを60年間も専門に釣ってきたという,池田さんという老人の話しがでてきます.逆算すると1920年(大正9年)からアカメを釣っていたことになります.四万十川では1921年(大正10年)から記録があります.この大正9年前後が最も早い記録だと思われます.
ルアーフィッシングの初記録は,南日本新聞のルポルタージュ記事「マルカよ!お前は」に1981年にでます.釣り雑誌に最初に登場したのが1983年,大坪氏の巨大な写真と記事です.同じく84年には「アカメ軍団白書」でルアーの世界にセンセーションを巻き起こします.
こうした初期の時代,土佐レッドアイは新たなフィールドを開拓し,情報を発信してきました.スワックの辻本氏は遠征組での最初のアカメを釣りました.
長野は釣り人と研究者が協力してアカメの生態を解明するという活動を1993年から始めます.当時,アカメの生態は研究者にもあまり知られていなかったため大きな誤解が広まり,それが常識になっていました.「アカメの主な棲息域は汽水域だ」「大淀川と四万十川にしかいない」「絶滅が危惧される」などです.
高知県版レッドデータブック(2002年)のアカメはたいへん誤った評価になっていました.絶滅危惧IA類だとされたのです.此を基に県条例の保護種候補にされます.長野と町田吉彦高知大教授(当時)は捕獲データ542個体分をもとに検証を行いアカメは絶滅危惧種に該当しないという結果を得て県当局に届けます.
釣り人や研究者などが集まり,アカメと自然を豊かにする会を結成(2007年)し,釣り大会,アカメフォーラムの開催,標識放流調査やアカメの生態調査を行なってきました.
こうした取り組みにより,アカメを保護種候補から除外することができました.今後も,アカメの生態を明らかにし,広く知っていただく活動が重要です.
このフォーラムもその一環です.それがアカメを正当に評価することに繋がります.
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話しの内容とそれに加筆修正を加えながらお伝えしていきます.
土佐レッドアイはアカメのルアーフィッシングを日本に広めた張本人たち。土佐レッドアイを立ち上げて以来,3人だけで行動してきました.元スワックの辻本 隆氏はアカメ遠征組として初めてアカメを釣り,スワックのメンバーの多くもアカメを釣獲しルアーの世界に話題を提供してきました.
土佐レッドアイ:左から 内川昭二 長野博光 大坪保成
ここでメンバーのご紹介.
左からリーダーの内川昭二.安芸市で1955年に生まれます.ハウス園芸農家でナスと水晶ブンタンをつくっています.釣りは何でもこい.父親譲りの漁船に乗って土佐湾を走り回っています.
中央,長野博光.安芸市で1950年生まれ.ミカン農家でプロの猟師でもあります.1970年代からアカメとつきあっています.2003年にアカメのデータ収集のため釣りを止めました.それでも夢の中でアカメに挑戦する,現役の釣り人だと主張しています.
右,大坪保成.安芸市で1955年生まれ.内川とは同級生.ハウス園芸農家でナスをつくっています.釣りは何でもやりますが,それぞれ名人級.特にアユ釣りでは高知県で名人と呼ばれてから久しい腕前.シーズン中はアユ命.フォーラム当日,アユの全国大会に出場が決まっていて県外に遠征中でした.
大坪の初アカメ 1983年(アングリング誌No.2より)
内川・長野の初アカメ 1984年
辻本 隆さんの初アカメ 1986年
写真はそれぞれ初めてアカメを釣ったときのものです.初めて手にしたあかめには各人各様の物語があります.
土佐レッドアイは伝説のチームになって久しくなります.顔を合わせると腰が痛いの膝が痛いの頭が薄くなったぞ,物覚えが悪くなったなどとあちこちの故障の自慢で盛り上がります.それでもそれぞれの分野でぼつぼつやっているというのが現状です.
今回は,アカメ釣りの初期からの話と,土佐レッドアイが誕生してからスワックとの交流時代の話しをします.そしてあしたはどうするかというふうにつなげていけたらと思います.
こうして3人が並んでお話をするいうのは初体験でして,みなさんにお渡ししたレジュメの内容をお伝えできるだろうか,時間はだいじょうぶかと不安でいっぱいでした.
それでは,アカメと釣りを紹介した本からアカメ釣りの歴史をみていきます.
日本のアカメがはじめて文献にあらわれたのは1922年(大正11年)です.田中茂穂先生が記載しています.田中先生は魚類分類学の草分けとして著名なかたで高知県出身です.その後,1940年(昭和15年)に発行された,この「魚」という本は,同じく田中先生が書かれたもので,アカメ釣りについてふれられているので紹介します.
田中茂穂著
昭和15年7月13日 創元社発行
売価 1円60銭
アカメは35pに
「鱸,アカメ、𩺊,この三種はすこぶる近いものであるが,鱸と𩺊とは温帯性のもので,アカメは熱帯魚である.それ故,まったく東京付近にはいないので,高知県及びその西南方,例えば宮崎などに多い.」とあります.
またアカメ釣りについて37pに
「アカメは高知でアカメ,宮崎でマルカと云う.中々勇壮な魚で,釣り師の喜ぶものである.鱸と同様に遡河するが,鱸と違って塩分のない所までは遡り得ないようである.」と書かれています.
「アカメは,それと接触した人たちに何かを感じさせる〝偉魚〟のようだ」
「小さな大物 釣れ釣れ週記 第2集」という本は週刊つりサンデーの社長だった故小西和人さんが書いていた,釣れ釣れ週記という連載をまとめたものです.
週刊つりサンデー1980年10月26日号より
小西さんはアカメを釣ってやろうと高知の浦戸湾へ来るのですが,最初に桂浜水族館に行きます. 「桂浜水族館の堀内誠さんという青年がせっせとアカメを釣ってきては,水族館でアカメを飼っているというので,なにはともあれ,堀内さんに会ってからである.」
小西さんは2日間の取材で10人ほどのアカメと関わりをもつ人に会うのですが,感想として,「みんなに共通していることは,アカメの話になると,その人の眼まで,アカメのように輝いてくることだ. アカメはそれと接触した人たちに何かを感じさせる〝偉魚〟のようだ.」と述べています.
徳島のアカメ釣り
また,最後の方にこうあります.「徳島の浅川にある海老が池,アカメを60年間も専門に釣ってきたという,池田さんという老人を尋ねた.」この記事が書かれた1980年から60年遡ると1920年(大正9年)から,この池田さんはアカメを釣ってきたということになります.
つづく
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講演要旨
日本のアカメがはじめて文献にあらわれたのは1922年(大正11年)です.魚類分類学の草分けとして知られる,高知出身の田中茂穂先生が記載しました.
いつ頃からアカメは釣られていたのでしょうか.
1980年,週刊釣りサンデーに,徳島の浅川にある海老ヶ池でアカメを60年間も専門に釣ってきたという,池田さんという老人の話しがでてきます.逆算すると1920年(大正9年)からアカメを釣っていたことになります.四万十川では1921年(大正10年)から記録があります.この大正9年前後が最も早い記録だと思われます.
ルアーフィッシングの初記録は,南日本新聞のルポルタージュ記事「マルカよ!お前は」に1981年にでます.釣り雑誌に最初に登場したのが1983年,大坪氏の巨大な写真と記事です.同じく84年には「アカメ軍団白書」でルアーの世界にセンセーションを巻き起こします.
こうした初期の時代,土佐レッドアイは新たなフィールドを開拓し,情報を発信してきました.スワックの辻本氏は遠征組での最初のアカメを釣りました.
長野は釣り人と研究者が協力してアカメの生態を解明するという活動を1993年から始めます.当時,アカメの生態は研究者にもあまり知られていなかったため大きな誤解が広まり,それが常識になっていました.「アカメの主な棲息域は汽水域だ」「大淀川と四万十川にしかいない」「絶滅が危惧される」などです.
高知県版レッドデータブック(2002年)のアカメはたいへん誤った評価になっていました.絶滅危惧IA類だとされたのです.此を基に県条例の保護種候補にされます.長野と町田吉彦高知大教授(当時)は捕獲データ542個体分をもとに検証を行いアカメは絶滅危惧種に該当しないという結果を得て県当局に届けます.
釣り人や研究者などが集まり,アカメと自然を豊かにする会を結成(2007年)し,釣り大会,アカメフォーラムの開催,標識放流調査やアカメの生態調査を行なってきました.
こうした取り組みにより,アカメを保護種候補から除外することができました.今後も,アカメの生態を明らかにし,広く知っていただく活動が重要です.
このフォーラムもその一環です.それがアカメを正当に評価することに繋がります.
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話しの内容とそれに加筆修正を加えながらお伝えしていきます.
土佐レッドアイはアカメのルアーフィッシングを日本に広めた張本人たち。土佐レッドアイを立ち上げて以来,3人だけで行動してきました.元スワックの辻本 隆氏はアカメ遠征組として初めてアカメを釣り,スワックのメンバーの多くもアカメを釣獲しルアーの世界に話題を提供してきました.
土佐レッドアイ:左から 内川昭二 長野博光 大坪保成
ここでメンバーのご紹介.
左からリーダーの内川昭二.安芸市で1955年に生まれます.ハウス園芸農家でナスと水晶ブンタンをつくっています.釣りは何でもこい.父親譲りの漁船に乗って土佐湾を走り回っています.
中央,長野博光.安芸市で1950年生まれ.ミカン農家でプロの猟師でもあります.1970年代からアカメとつきあっています.2003年にアカメのデータ収集のため釣りを止めました.それでも夢の中でアカメに挑戦する,現役の釣り人だと主張しています.
右,大坪保成.安芸市で1955年生まれ.内川とは同級生.ハウス園芸農家でナスをつくっています.釣りは何でもやりますが,それぞれ名人級.特にアユ釣りでは高知県で名人と呼ばれてから久しい腕前.シーズン中はアユ命.フォーラム当日,アユの全国大会に出場が決まっていて県外に遠征中でした.
大坪の初アカメ 1983年(アングリング誌No.2より)
内川・長野の初アカメ 1984年
辻本 隆さんの初アカメ 1986年
写真はそれぞれ初めてアカメを釣ったときのものです.初めて手にしたあかめには各人各様の物語があります.
土佐レッドアイは伝説のチームになって久しくなります.顔を合わせると腰が痛いの膝が痛いの頭が薄くなったぞ,物覚えが悪くなったなどとあちこちの故障の自慢で盛り上がります.それでもそれぞれの分野でぼつぼつやっているというのが現状です.
今回は,アカメ釣りの初期からの話と,土佐レッドアイが誕生してからスワックとの交流時代の話しをします.そしてあしたはどうするかというふうにつなげていけたらと思います.
こうして3人が並んでお話をするいうのは初体験でして,みなさんにお渡ししたレジュメの内容をお伝えできるだろうか,時間はだいじょうぶかと不安でいっぱいでした.
それでは,アカメと釣りを紹介した本からアカメ釣りの歴史をみていきます.
日本のアカメがはじめて文献にあらわれたのは1922年(大正11年)です.田中茂穂先生が記載しています.田中先生は魚類分類学の草分けとして著名なかたで高知県出身です.その後,1940年(昭和15年)に発行された,この「魚」という本は,同じく田中先生が書かれたもので,アカメ釣りについてふれられているので紹介します.
田中茂穂著
昭和15年7月13日 創元社発行
売価 1円60銭
アカメは35pに
「鱸,アカメ、𩺊,この三種はすこぶる近いものであるが,鱸と𩺊とは温帯性のもので,アカメは熱帯魚である.それ故,まったく東京付近にはいないので,高知県及びその西南方,例えば宮崎などに多い.」とあります.
またアカメ釣りについて37pに
「アカメは高知でアカメ,宮崎でマルカと云う.中々勇壮な魚で,釣り師の喜ぶものである.鱸と同様に遡河するが,鱸と違って塩分のない所までは遡り得ないようである.」と書かれています.
「アカメは,それと接触した人たちに何かを感じさせる〝偉魚〟のようだ」
「小さな大物 釣れ釣れ週記 第2集」という本は週刊つりサンデーの社長だった故小西和人さんが書いていた,釣れ釣れ週記という連載をまとめたものです.
週刊つりサンデー1980年10月26日号より
小西さんはアカメを釣ってやろうと高知の浦戸湾へ来るのですが,最初に桂浜水族館に行きます. 「桂浜水族館の堀内誠さんという青年がせっせとアカメを釣ってきては,水族館でアカメを飼っているというので,なにはともあれ,堀内さんに会ってからである.」
小西さんは2日間の取材で10人ほどのアカメと関わりをもつ人に会うのですが,感想として,「みんなに共通していることは,アカメの話になると,その人の眼まで,アカメのように輝いてくることだ. アカメはそれと接触した人たちに何かを感じさせる〝偉魚〟のようだ.」と述べています.
徳島のアカメ釣り
また,最後の方にこうあります.「徳島の浅川にある海老が池,アカメを60年間も専門に釣ってきたという,池田さんという老人を尋ねた.」この記事が書かれた1980年から60年遡ると1920年(大正9年)から,この池田さんはアカメを釣ってきたということになります.
つづく