お恥ずかしながら、わからなかったことに、ようやく答えが出た。
友達と遊ぶ約束をすると、それぞれが自分の都合を言って、結局まとまらないことがある。
遊ぼうと言ったのに、なぜそうなってしまうのかが、いつもわからなかった。
簡単なことだった。
「人生の主役は自分」で、自分にメリットがあることを優先して生きている。
それが、それぞれ、違うのだ。
人との関わり合いの中で、自分がどう考え、どう進むべきなのか、どう他者とつきあっていくか。
やっとわかった。
そのあたりの葉っぱと一緒で、必要でないのに存在してしまって、
どう毎日を過ごせばいいのかがわからなくなり、壁ばかりを見ていた。
そこから抜け出せた。
だれかがどこかで必要としていてくれることに感謝を忘れない。
感謝を行動で示してみる。ありがとうの積み重ねが、信頼関係だ。
自分が大切だと思うものには、精一杯やってみる。
万が一、必要とされたときには、喜んで参加してみる。
親子関係、友情、愛情。
子どもは、自分ではない、しかし力にはなりたいと思う、他者な存在だ。
子どもを授かり、育てる機会に恵まれたことに感謝だ。
関わってくれる友達も、いないわけではないし、
わたしと過ごす時間をうれしいと思ってくれる人がいることも、うれしい。
感謝を忘れると、むくむくと押しつけがましい感情が顔を出すのだ。
人は人の中で生きている。
上っ面じゃない、友情、愛情をわたしは持てているのか?
「違う」ということは、当たり前なこと。良い悪いではない。
正しい、正しくないではない。
こんなことを考え始めたのは、2008年に写真の友人が亡くなり、
何気なく過ごしている日々には、終わりがあるということに気づかせてもらったことが始まりだ。
もやもやと、いつもどこかに燻っている。
教えてもらった、「容器がいっぱいになったら、大きくすればいい」という言葉を
ときどき忘れる。
そして「終わり」という恐怖に自分から迷い込み、
不平不満をぶちまける。泣く。そんなことをしても意味がないのに。
ゼロ地点にいるということに気づかせてもらったこと、
死や、終わりについて、考えるきっかけをくれたことに、心から感謝を持ち続けたい。
忘れて、一時の感情をあふれ出させて、すべてを台無しにするより、
容器を大きくする方がいいと考えるからだ。
こうしたい→その準備をしよう→では今何をすればいい?
常に自分に問いつつ、こうしたいという意志を持つ。
その過程に葛藤は必ずつきまとう。
何かを貫き通すには、イヤと思うことも、必ず起きるのだ。
何かを買うために働く→会社でいやなことがある→しかしそれは自分がほしいものを買うため
→お金を稼ぐことは簡単なことではないと気がつく→不平不満をいってやめるor
最初の目的を貫き通し働く→結果はどうなっても、自分の考えたこと。行動の結果。
夜中にお菓子が食べたい→食べ過ぎると太る→考える→食べるor食べない
→結果は体に表れる。笑
葛藤はある。
意志があれば、良い子の答えを「無理矢理」に導き出すこともなく、
納得して生きていける。
しかし、どうしてもイヤなことはイヤという気持ちも、忘れない。
納得いかないことは、納得しない。
長く時間がかかったけれど、やっとやっと腑に落ちた。
「意志を持って、貫き通す」
ここを思い切れていなくて、いい訳をして、うだうだして、壁を眺めて逃げていた。
気持ちはようやく固まった。
時間がかかったなぁ。
忘れないように、書き記しておく。
寿命が来ること、終わりが来ることを、心のどこかに常に置きつつ、
簡単ではないけれど、納得して生きていきたい。
二年かかって、やっとスタート地点に立った。
どこまでいけるか。いけるところまで、迷いながらも、行く。
ああ、すっきりした。
せーねんの主張みたいでかっこ悪いけど、悪くない。