徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

山口蔵田氏を訪ねて

2012-09-14 04:53:51 | 蔵田教信・蔵田房信

8/26(日)は「防長の絵図-美しき古地図の世界」展の最終日、あたふたと山口県立美術館へ。

「御国廻御行程記」と「行程記」の区別が理解できました。「御国廻オン行程記」と読むそうだ。日本語は難しい。

「行程記」は萩から江戸までの地図なので、三田尻から赤間関方面山陽道は記載されていない。折りたたみ製本で、表側からめくれば萩から江戸まで、裏側からめくれば江戸から萩までの見開きが出来るように製本されている。伊能大図(写)はやはりよく出来ている。

山口への途中、富海の安芸吉田毛利祖といわれる「伝大江時親墳墓」の写真撮影。200年前畑のなかから掘り出され、明治40年に至り、現在の玉垣で囲まれた「小祠」と「傳説毛利時親卿墓」と刻まれた標柱が公爵毛利家によって建てられた。石原地区の荒れたみかん畑の中に雑草に埋もれてある。小さな五輪塔の表に「大江時親」、裏に「了禅」とある。
大江時親は元就より11代前、毛利41代で地頭職として安芸国吉田荘へ下向した安芸毛利祖といわれ、出家して名を了禅と改め家督を孫に譲り歴応4年(1341)吉田を出て西へ向ったという。付近には居住を裏付ける土居内、地頭田と呼ばれる地があるそうだ。一般に萩藩士は藩主毛利家のことを「江家」(ごうけ・大江氏)と呼称する。

ここは国道に近い山の手で、椿峠から富海間国道拡幅のため将来支障移転になりそう。この区間は40年前も国道新設改修工事で、旧道に埋設されていた長距離伝送路が支障になったことが。今度は御霊の御移転か...。早速「西方面ルート図」に追加掲載。

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今回、山口訪問のもう一つの目的は山口大神宮訪問だ。鯉次郎さんの情報によると献燈に蔵田姓が刻まれているそうだ。ここは過去何回も鳥居の前を通過するのみ、今回じっくり訪問してみたい。出来れば松陰先生が東遊の際登った鴻嶺にも登ってみたい。ここは毛利元就防長攻略最終段階で、大内義長・内藤氏が一時布陣した山城でもある。 

ところで、美術館を出たところで、知り合いのカメラ嬢に出会う。これから昼食後光市の写真展に寄って岩国へ帰るそうだ。光市の方も最終日で5時まで。こりゃあ急がんと。

山口大神宮は永正17年(1520)大内義典のとき伊勢皇大神宮より分霊を勧請。外宮と内宮は21年毎に遷宮されるため、各宮の隣に御敷地が確保されている。文政3年(1820)寄進の木彫神馬が一番印象に残る。神馬のポーズがすごい。現代彫刻をみているようだ。山口の工匠安永貞右衛門の作。石段両側に四基ある蔵田亀吉氏献燈は昭和9年の寄進。片側は台風で崩壊したままだが、大きな常夜燈だ。

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 伊勢の神霊を迎えた神社は山口の大神宮のみであったため、伊勢信仰の盛んな江戸時代には九州、中国地方から参拝するものが多かった。幕末期山口へ他国者を入らせなかったため、大道市の街道筋と小郡に大神宮遥拝所を設けたほどだ。ルート図作成のため大道市を踏破した際、大道遥拝所の大燈篭を確認しただけの知識だったのだが、大神宮の幅の広い石段を上りながら、鴻嶺を借景とした厳粛な雰囲気と規模の大きさに驚く。さすが西のお伊勢様だけのことはある。

社務所で蔵田氏のことを聞くが、台帳らしきものにも記録がなく不明。今八幡宮と八坂神社にも蔵田氏寄進の献燈類があるそうで、あちらのほうが豪華で大きいらしい。松陰先生も登った鴻嶺登山をあきらめ、そちらへ行くことに。光市の写真展にも寄りたい。時間が気になる。

今八幡宮は鎌倉時代大内19代弘成の頃から続き、社殿は文亀3年(1503)大内義興のとき。本殿・拝殿・楼門は国指定重要文化財。蔵田氏寄進は石段左側の狛犬。台石が大きく高いため狛犬が小さく見える。蔵田亀吉、一郎、その他1名の3名の寄進。

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八坂神社は15世紀中頃の大内氏築山館跡にあり、600年前大内弘世が京から勧請。江戸末期毛利氏が高嶺山麓から当地へ移す。本殿は永正年間義興建立のもので、国指定重要文化財。ここの蔵田氏寄進の燈篭は片側のみだが、台石が高さ3Mぐらいの角柱で一番豪華にみえる。蔵田亀吉、清助両名昭和14年の寄進。亀吉、清助は親子か?反対側の寄進は山陽町の醸造業の名前がみられるので、当時相当の財力ある実業家だったようだ。社務所らしきところを訪ねるが不在。別途、電話で照会してみよう。山口に蔵田姓は少ない。お目当ての蔵田氏かどうか。

山口訪問後判明したことは、蔵田亀吉さんの先祖は幕末期毛利氏へ「草鞋(わらじ)一万足」を贈呈し、毛利氏から感状を頂いたそうだ。残念なことに先祖の詳しい系譜は不明なようだ。
これ以上、詳しいことは個人情報に触れるので割愛しておこう。
「草鞋一万足」でご判断を...。

萩藩士となった蔵田房信末裔は明確なので今回追及の対象ではない。「萩藩閥閲録」(享保七年)以降で、当方が知っている蔵田姓は、幕末期文久三年(1863)「教法寺事件」で犠牲となった先鋒隊蔵田幾之進がいるが、父の名はニ百五十石だから関係するかも知れない。幾之進の長子千弥は仇討に晋作の命を狙い、四境戦で小倉城に火が放たれた日、胸の不快から白石邸で指揮していた晋作に切りかかるが失敗に終わる。丁度、作戦会議が行われる日で奇兵隊参謀福田侠平らが遭遇するが、晋作は千弥を逃がす。

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八坂神社の入り口に河村写真館が。TVや新聞でよくみる写真館はここだったのだ。明治20年ごろ築の洋風の建物。持ち主は変わったが建築当初から写真館として続く現役の建物。

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帰りに光市の文化会館に寄ったのは閉館20分前。すでに撤収ミーティングをしていたが何とか間に合った。夜の錦帯橋ならぬ錦城橋で知り合いになったSさんと再会談笑。この人、光市の八ッセル軍団の中核としてプロ級。元気そうで何より。

今回も欲張り強行軍でした。

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