徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

「家久君上京日記」と周防国道前三ツ尾城

2014-05-21 04:10:35 | 家久君上京日記

先般、松岡睦彦先生らと三尾城址(城山:じょうやま)に登ったが、東西方向の山陽道筋の見通しがすこぶる良い。ここは要衝と言うよりは物見に最適な城ではないかと思った。

山頂から、陶氏謀反のとき杵ケ迫に逃れ自刃した三尾城在番蔵田教信のことを考える。

彼が尾根伝いに差川に下り逃れたルートも分かった。山陽道丸子坂の竹やぶにある「屋敷跡」と呼ばれる石垣跡に通じるルートに間違いない。途中の麓には七基の古い自然石や仏像の無縁墓(供養碑)もある。

登山のあと、最近までこの供養墓に毎年一回花を捧げていた丸子坂のYさんにも会って確認した。子供の頃、丸子坂からこのルートを何回も登山したそうだ。昔は島田川で泳ぐかこのルートを登る山遊びしかなかったそうだ。差川でこのルート知っているのは、今ではYさんしかいないようだ。供養墓についても彼以外知っている人はいない。これは過去何回も現地で聞き取り調査しているので間違いない。

ところで、頂上で色々と「大内義隆公家臣蔵田少輔源教信、在城周防國道前」に思いをめぐらしていると、またもや頭の中の虫がムズムズ動き始めた。

田中家家譜によれば、蔵田教信は「陶尾張守晴賢謀反の時、主君エ味方局天文廿年討死ス」とあり、義隆公に対する忠義を果たすのだが、ここから見下ろす差川の集落は今でも家屋が少なく、平野も無い狭小な山間部だ。下差川に住んだとされる蔵田教信の勢力は小人数で弱小であったに違いない。やはり大内義興・義隆親子大挙出動、安藝西條鏡山城奪回のあと、疲弊した蔵田一族の庶流が義隆公に従いこの地を賜り、三尾城在番を勤めることになったのではなかろうかと思う。周囲が反逆陶氏になびくなか、孤軍・孤立したに違いない。教信弟の「蔵田伊豆守信近」は、城は不明だが「在城、安藝國西條」となっていて間もなく彼も亡くなる。果たして周防道前蔵田氏は安芸西條蔵田氏に対して庶流なのだろうか?案外、周防道前に移った蔵田氏の方が本流の可能性もあるではないか。

また、家譜によれば教信嫡子「さる房」は成人して、長府毛利田中氏別家となり田中教意と名乗り、嫡子と二男や家来と連れ立って「元和元年大阪夏の陣に軍功有り蔵田家再興を起こすが謀るものがあって御取立無し」とあるが、誰が謀り妨害したのか? 毛利輝元防長移封に従った安藝蔵田房信末裔・萩藩士蔵田氏ではあるまいか?

    Kurata

以上二つの疑念について、当方の拙筆素人サイト「周防国の街道・古道一人旅」に追加記載することにした。これは素人邪推・ロマンかも知れないが、権威ある「ネイチャー」ではない。「物好き素人の街道一人旅」なので気にすることもなかろう。

以上の二点を追加記載するに当たって、念のため東広島市教委のY氏に電話してみることにした。鏡山城蔵田房信の件で色々お世話になったときY氏が以前、城山に登ったことがあると言ったことを思い出したのだ。彼のことだから、丸子坂の竹やぶ「屋敷跡」から登ったのかも知れない。

 

前段が長くなったが、電話で得た情報をここに記すと。

Y氏の登山は学生時代の大昔。山陽自動車もまだできていない時代で、島田川に面した東南側から道なき山をヨジ登ったそうだ。この位置は「淡海道」が山陽自動車道をくぐる付近から「毛利元就公歯廟」付近にかけてになりそうだ。登山目的は三尾城址調査で、蔵田氏とは無関係だそうだ。記憶では、南側(三丘側)八合目付近両側に大手門の礎石と思われるものがあったのを記憶しているそうだ。

Y氏の言われる南側は、北側の差川と真反対になるが、関ケ原の戦い以後のものと思われる。毛利輝元防長移封で三丘領主となる元就七男元政は一国一城令もあり南側山麓に陣屋(居館)を築くが、一斉領地替で宍戸氏が入部し貞昌寺になる。正規の登山ルートも貞昌寺側にあり、多くの登山者がこれを登る。

前述の疑問点については、文献の無い中世戦国時代のことなので確定も推測も不可だが、関連する事項として重要な話を聞いた。

  • 「萩藩閥閲録」記載の鏡山城の戦いで自害した城衆蔵田房信の嫡子蔵田房貞の系譜には疑問点が多く、「房貞兄弟の父は房信ではなく、間に一代あったと考えたほうが素直である」。これにはびっくりした。(別途、根拠史料も頂いたが複雑なため割愛)
  • 大内氏から周防の地を賜った者に、久芳(くば)重政が周防高水庄60石を賜る。別に、直ぐ名前がでないが柳井付近を知行した者もいる。(そういえば、「鞍懸合戦」で杉隆泰を討ち取る玖珂南方の瀬田の小方氏は大竹だった...)。蔵田氏が周防国道前を賜ってもおかしい推理ではない。

話の過程で、もう一点、面白い話(本当は超特級のネタ)を聞いた。

「イエヒサギミジョウキョウニッキ」に、中世の三尾城の記載があるそうだ。

「そりゃなんですか?イエヒサは?」。「島津家久、戦国大名のお坊ちゃんの伊勢参り旅日記です」。「今川了俊の“道行きぶり”は部分的に知っているんですが...」。「この旅日記の方が史料価値が比較にならない程高く、おまけに面白い。“道ゆきぶり”は単なる紀行文。道中、酒びたりや関所破り、京都では信長の馬上居眠り行軍を見物したり、明智光秀と面談、歓待してもらっている。帰路の温泉津では出雲阿国の類らしき舞も見物している。文出はこちらの方が6、7年位い早かったとおもうが...。とにかく一読する価値はあります」。「へ~ぇ。聞くだけで興奮してきますね。ところで、三尾城についてどんな記載が?」。

「家久君上京日記」天正3年3月22日に、海老坂を過ぎて高森の手前で、「右方に、満尾(三尾)城がある。山は高いがアシキ城。」とある。「アシキ?」。「悪い城」。「悪しき城かぁ~...。なんでかぁ~。平家ケ峰と南方の夫婦岩と峰続きなので悪いのかぁ?」。「理由は書いてないので分かりません...」。「先般の登山で物見主体の城ではないかと思ったので、山頂の粗末な掘っ立て小屋でも見たんでしょうかね?」。「これも蔵田氏と同様、推測するしかありませんな」。

  
早速、サイトに追記することにした。詳しくはそちらの方を。

その後、「家久君上京日記」について関係箇所以外の史料を頂いたり、電話聞き取りを数回実施したので、詳しくは次回のブログで紹介を。(5/23現在10回も電話してます。もう少しお付き合い願います。)

表題は、「家久君上京日記」と「山陽道防長路」にでもしましょうか。