今日は建国記念日祭日。
黄檗宗大梅山通化寺の「延命地蔵尊縁日」の日です。
地蔵尊は「廻り地蔵」として享保16年(1716)第4代活宗禅師によって開眼され、かっては下松市、熊毛町、光市、柳井市等周防東南部一帯の各家を廻り、2月の縁日に寺に帰り、終わるとまた各地を廻っていた。
(この日は御本尊の前に鎮座します。)
この縁日は、かっては3日間行われ、バスでお参りする地区もあり盛況であった。
今年は黄檗宗大本山萬福寺から中島知彦(ちげん)禅師の入山も決まり、この日は知彦禅師を迎え久しぶりの盛況であった。禅師の正式な入山は4月頃だそうだ。これからは「普茶料理」を常時頂けるかもしれない?
左端が知彦禅師
今回、境内で通化寺総代・世話役員の田中さんと談笑していて、有意義な話を聞いた。
「高杉晋作詩書碑」(訪遊撃軍諸君即吟)の背後にある「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱に、左から 「毛利家」、「子爵 河瀬 眞」、「吉川家」、「江木千之」の芳名が刻まれている。今まで氏名刻字部分のうち、最下部の名前部分が分厚い苔や泥で埋まり判別不能で、加えて手前の「高杉晋作詩書碑」や植木の陰になっていたためもあって気にしていなかった。今回、苔や陰刻部分の泥を除き、刻字部分の苔をほじくり除くことにより上記氏名の名前部分が判明した。
建立年月日が刻まれていないが、通化寺本堂背後の「遊撃軍記念碑」篆額に大正10年書、 「遊撃軍招魂碑」陰刻に大正15年建立とあるので、この頃の寄進と思われる。
右から「金參百圓 毛利家」、「同 子爵 河瀬 眞」、「金貮百圓 吉川家」
「金貮百圓 吉川家」の左に、「金壹百圓 江木千之」
「金參百圓 毛利家」 :遊撃隊総督の吉敷毛利氏世嗣幾之進の吉敷毛利氏と思ったが、「毛利家」とあるので右代表として、毛利本家ではなかろうか。
河瀬安四郎(河瀬真孝)は蛤御門の変(禁門の変)で来嶋又兵衛戦死のあと、再建遊撃隊を率い高杉晋作功山寺挙兵に山県奇兵隊ら諸隊が優柔、反対するなか、主力として呼応。河瀬の旧姓は石川小五郎で文久3年(1863)の朝陽丸事件での幕府詰問使殺害の首魁とされる。このあと河瀬安四郎と改名。通化寺移駐時の遊撃隊総督で、のち吉敷毛利世嗣幾之進(17歳)を総督に迎え副総督となるが、実質的に長州軍を総括指揮し四境戦「芸州口の戦い」に勝利。のち慶応3年(1867)グラバーの協力の下に英国に渡り、帰国後工部少輔、侍従長を経て英国公使等歴任。のち枢密顧問官となり、在籍のまま大正8年80歳没。(wiki等)
石川小五郎(河瀬安四郎・真孝)
*当初、河瀬真孝の没年が大正8年のため、田中氏の説明の通り本人の「寄進芳名碑」と思いブログ掲載したのだが、「真孝」ではなく「眞」(まこと)の一字のみ刻字されている。翌日念のため地際の苔を落とし、10センチ程掘り下げてみたが、やはり「眞」の一字のみである。Web検索してみると昭和15、6年頃の「貴族院子爵河瀬 眞」としての貴族院議事録等の氏名掲載はあるが、「河瀬真孝」との関係が不明である。一応嫡男と想定記載したのだが、再度詳細検索してみると一点核心Web記事を見つけることが出来た。
神戸大学附属図書館電子図書「新聞記事文庫」データベースの東京朝日新聞(昭和15年1月10日付)に昭和14年度「朝日賞」贈呈者「石炭液化の先駆者」6名のトップとして、「見出し」では「河瀬 眞子爵」、記事本文では「海軍少将」として写真とともに経歴が掲載されている。
原文のまま記載すると、
「河瀬少将 : 枢密顧問官たりし河瀬真孝子の三男で明治十六年九月生まれ、海軍機関学校を卒業、昭和八年予備役被仰付、昭和十四年貴族院議員に互選さる」とある。
「金貮百圓 吉川家」 :岩国吉川氏。
「金壹百圓 江木千之(かずゆき)」 :岩国藩士江木俊敬(としたか)の長男で、大正13年文部大臣に就任。晩年は枢密顧問官を務めた。父親の江木俊敬は、四国艦隊馬関攻撃の際先鋒となり活躍した志士。元冶元年(1864)12月15日高杉晋作功山寺挙兵の際、翌年正月、宗主及び宗藩の本意、内情と徳山藩の動向を把握するため藩命により徳山藩に向かい役目を果たし急ぎ帰る途中、慶応元年(1865)正月13日岩国領西端の玖珂の阿山萬久寺付近で、これより先、俊敬の復命を待つことなく藩議出兵の先鋒隊羅卒に間諜と疑われ凶刃にあい傷を負い、萬久寺境内で自刃。死後見聞で本人と分かり、さらに懐の書状により徳山藩の動向が分かり岩国藩も正しい態度決定ができたのである。このあと萩藩府に中間派が台頭、萩から恭順派を一掃する。
阿山の萬久寺境内には吉川元光篆額になる「江木俊敬君奉公碑」がある。
(注):慶応元年一月十五日吉川経幹、毛利藩諸隊沸騰につき鎮撫のため出馬玖珂本陣へ着陣、一月二十五日帰城。この時期は、諸隊が大田・絵堂最終戦で藩政府軍に勝利。晋作山口に入り、藩主敬親蛤御門の変以来恭順のため山口から萩に居城の藩府を包囲威圧していた時期に当たる。(詳細:「周防国の街道・古道一人旅」のうち、玖珂阿山の萬久寺及び通化寺の項参照。)
「高杉晋作詩書」と背後右から「毛利家」、「子爵河瀬 眞」
参考:高杉晋作詩書 「訪遊撃軍諸君即吟」 (原本は軸装保存)
殲賊興正非我功 賊を滅ぼし正を興すは我が功に非ず
幸随驥尾全斯躬 幸い驥尾に従いてこの身を全うす
豊公事業君無怪 豊公の事業君怪しむこと無かれ
一片機心今古同 一片機心今古同じ
訪遊撃軍諸君即吟 遊撃軍の諸君を訪うて即吟す
東洋一狂生東行 東洋一狂生東行
(注)驥尾:きび・駿馬の尻尾、転じて優れた人の後ろ、背。
「賊を打ち破り、正道を興すのは我々の功績ではなく、先輩先達のおかげによるものである。
今、その教えに従ってこの道を全うせんとしている。
豊臣公が偉大な事業を成し遂げたが、何も不思議はない。
今も昔も成し遂げようとする旺盛な意欲があれば、きっと成就するものだ。
遊撃軍諸士大いに奮起せよ。」
遊撃軍記念碑 遊撃軍招魂碑
(参考)
遊撃軍隊士行進の図・高森正蓮寺蔵(部分:総勢32名・掲載上最後列前部7名部分カット)
詳細:「周防国の街道・古道一人旅」参照。