桜も終わり、畑作業も一段落。
腰の調子も何とか持ち直してきた昨今。今のうちに少し外出を。
遅ればせながら、岩国徴古館で開催中の「幕末の動乱と岩国」展へ。
「一片機心今古同」と「東洋一狂生東行」の見慣れた字体が。
通化寺にあった「遊撃軍」関係の資料は、現在岩国徴古館に保管されていることは知っていたのだが、ひょっとして...。
胸が高まり、扉を開けるのももどかしい。
掛軸全体は展示ガラスに蛍光灯の反射が多いため、「詩書」部分のみ掲載。
遊撃隊総督で「蛤御門の変」で散った来嶋又兵衛の火事羽織も展示してある。ゲーベル銃・ミニエー銃や薩摩藩の山砲(十文字砲)レプリカも展示されているが、この大砲は小型で、分解運搬が出来るそうだ。M学芸員によると、四境戦の際、長州遊撃軍が使用した大砲はこれよりも少し前の時代のものでもう少し大きいそうだが分解運搬が可能で芸州苦の坂も分解運搬したそうだ。
小瀬の関門の手前、店口方向には、小瀬の茶屋「嘉屋氏」が提供した木で作った大柵がバリケードとして築かれ、万が一、関門が突破された場合には敵を狙撃するための隠し道まである。万全の備えである。
吉田松陰の銅像や桂小五郎の軸装された詩書も展示されているが、山口や萩から展示借用されたものではなく、意外なことに徴古館蔵、即ち、吉川藩蔵のものだそうだ。
M学芸員に会ったついでに、小瀬峠頂上の「歴史の道山陽道跡」の白い木製標柱について、お願いごとを...。
標柱が水口への山道分かれにあるため、この山道へ誤って入り込む旅人が多い。旧道にこだわる旅人に限ってこのミスをするようだ。「百街道一歩」氏だけでなく、その後欽明路峠付近で出会った、広島・横浜・その他の旅人三組も入り込んでいる。広島の旅人は「一歩」氏のサイトをご覧になって、サイト本文を印刷携行していながら同じミスをしている。旧道にこだわる土地勘の無い旅人にとって、この標柱は有害無益なようだ。それよりも小瀬のヘアピンカーブ手前の旧道が新道と合流する「ガードレール」の切れ目に変更設置してもらった方が、関戸側から東行する旅人の目印になっていいのではないかと思われる。M氏も同感なので、近々変更されると思う。「乞うご期待」。
今回の展示物には薩州篤姫さまが、錦帯橋を強引に渡ったことが書かれた「御用所日記」や松陰先生が新湊から錦帯橋見物後、再び新湊から宮島へ向ったことが書かれた「吉田松陰全集第十巻」も展示されていて、多種多彩である。
今回の貴重な展示内容は サイト「周防国の街道・古道一人旅」に追記しておこう。
5/13まで開催。
(写真撮影と掲載は許可を得ています。)
山陽道
欽明路峠~玖珂天神」を拝見しています。
すごい力作・労作と感心しています。読んでみて、あらためて知ったこともたくさんありました。
さて、連絡方法が不明のため、こちらのブログからご連絡します。
たいへん細かいことで恐縮ですが、上記のページの地図について、地名3ケ所の修正をご検討いtだければと思います。
「容量満杯のため、
BLOG徒然草独歩の写日記へ移行(2012.01.07)しました。」というコメントがあるので難しいかも知れませんが・・・。
1.玖珂町 公門給 → 久門給
2.周東町 中給宗 → 中久宗
3.周東町 下給宗 → 下久宗
いずれも地元に住んでいても判り辛いものです。他の地方では大字~小字の表示もありますが、この辺りではないようです。
goo 地図検索
http://map.goo.ne.jp/address/35/208/074/?kana=1
http://map.goo.ne.jp/address/35/208/077/?kana=1
早速、略図の該当ケ所を訂正しました。
何回もチェックをしていながら、この手のミスが多く弱っています。
先般も本文にワ-プロミスを発見し、大慌て。
今後もよろしくお願いします。
「玉垣の背後には正室と無嗣切腹(理由不詳)の嫡男墓がある。」
とあります。
引用資料名(調査報告書名)と、氏名(正室、嫡子)をお教えください。
原則、このような問い合わせは、別メール便での直接回答になりますが、貴方のアドレス不明のためコメントへのご返事が出来ません。
コメント欄へのアドレス(url)記入は第三者には判りませんので、よろしくお願い致します。
なお、コメント照会当日の16:00頃岩国徴古館から問い合わせがあり、そちらから連絡があると思いますのでよろしくお願いいたします。
翌、早朝には写真を岩国の彼宛に送付予定なので、より詳しく判ると思います。
何しろ、中世末期から近世初頭のことなので、推測の域を出ないと思います。
以上、よろしくお願いいたします。