爆竹倉庫爆発で16人死亡 春節連休初日の中国
禁止されてたはずの北京でだって、いつもの公安へのお布施w(通常の定期催し毎のふつうの賄賂≒このばやいは“お年玉”)あげて勝手にやってただろしネ。
ここ3回経験した打ち上げ花火に爆竹等禁止されてない大連での春節では、粗悪品の着火してから打ちあがらない段ボール箱詰め連発打ち上げ花火覘いて“また”クビ飛ばされたみたいよぉとか、せいぜい10メートルしか上がらない隅田川レベルの1/100くらい開く程度のをふつうに住宅街でやって部屋に飛び込んで旧正月早々夜中のボヤだったぁなんてな話は口コミで外国人にも盛んにんなこたぁ当たり前ぇとか伝わってたし、マトメテ小山にした爆竹いっぺんに爆発して地響きだぁに空気乾燥してるからマイナス10度でも枯れた芝生に引火して翌朝あちこち真っ黒けてなことたぁ、しょっちゅう目にする耳にするで地場専門一部5角(割と厚いのに7円w)インチキ新聞のニュースにもならん有様だったけどネw
商用日本語教室の教え子連中(日本語試験既に一級保持者の大学上級生に日本企業勤務者ら)にちょい聞いても、「伝統」のカケラも認識なくっての、大卒でも就職できない、できても安給料こき使われ毎日の単なる年一度公認ウサッパラシてな、一度目印象→二度目確信→三度目呆れた、だったけどぉ。
所詮阿Qらだもん、てなことで全く心配してないとおもぉーよ。
コイツラは、せめて省単位でまとめる勢力があってそれも仕上げ最後の手足に過ぎないのは、それこそ4千年の経験の示すところ。
だからこれも所詮権力中枢前赤皇帝えざわと現赤皇帝古今のつばぜり合いのとばっちりに過ぎないノサてなことで。
はぁ?素人(セミプロみたいだが)だってこの程度は指摘(上・下)してますよぉw
「そもそも『中国青年報』は胡錦涛・総書記の御用新聞です。胡錦涛の出身母体で胡錦涛人脈の中核をなす共青団(中国共産主義青年団)、その全国組織を束ねる共青団中央の機関紙が『中国青年報』なのです。胡錦涛派の大看板といっていいでしょう。」
「昭和12年10月、駐屯軍第5師団は太原攻略のため平型関の陣地に進撃した。
そのとき林彪の率いる共産軍が、日本軍の補給部隊(自動車部隊と馬部隊)を待ち伏せし、谷間に通りかかったところを急襲し大損害を与えた。
これを中国共産党は「平型関の大勝利」として大いに宣伝した。ところが実際には共産軍は最初ゲリラ的に攻撃しただけですぐに撤退、直接日本軍と対峙したのは中央軍と山西軍だった。
戦後になっても中共党は平型関の戦いは共産党軍だけで戦ったと言っている。」
せっこいよなぁw
つまりはこーゆーことなのにネ。
「日中戦争(単なる支那事変)においては、戦争らしい戦争と言えるものは、盧溝橋事件から武漢陥落までの約一年余りの期間だけであった。
戦闘パターンもまず反日・抗日集団が日本軍を挑発して逃げ、日本軍が反撃すると中央軍が逃げ、便衣隊(便所に逝くのにわざわざ着替えするわきゃないw)になり、市民が日の丸を振って日本軍の入城を歓迎し、その後は支那人が作った新しい治安維持政府により匪賊やゲリラの襲撃を防ぐ、というもの。
支那軍は日本軍と百戦百敗しながら、略奪しながら逃げ回り、しかも蓄財に余念がなかった。
(「三光作戦」の光=尽くすなんてな意味は日本語にゃねぇ~しぃ)
支那での内戦は1910年代に入ってから人民中国の発生まで、激しく続いていた。日本軍が中国大陸に入らなかったら、軍閥達は永遠に闘い続け日中戦争以上の死者を出したであろう。
国共内戦の結果、消滅した国民党軍だけで800万人であると、毛沢東は誇らしげに語っている。
中共成立後も支那人の殺し合いは続き、三反五反運動での粛正、大躍進運動での餓死、文革での闘争などでの被害者は日中戦争よりずっと多い。」
…ってこと。
ズレテる、な。
…新華社電によると、河南省林州市では29日夕、爆竹が爆竹倉庫に引火して爆発、16人が死亡、多数が負傷した。
中国では春節を爆竹で祝う伝統的な習慣があるが、北京では粗悪品の暴発で負傷者が多発するなどしたため、1994年から市街地では爆竹が禁止されていた。
しかし「爆竹がないと新年を祝った気がしない」(40代男性)と解禁を求める声がここ数年高まり、北京市当局は世論に押される形で大みそかに当たる28日から来月12日まで解禁。…
禁止されてたはずの北京でだって、いつもの公安へのお布施w(通常の定期催し毎のふつうの賄賂≒このばやいは“お年玉”)あげて勝手にやってただろしネ。
ここ3回経験した打ち上げ花火に爆竹等禁止されてない大連での春節では、粗悪品の着火してから打ちあがらない段ボール箱詰め連発打ち上げ花火覘いて“また”クビ飛ばされたみたいよぉとか、せいぜい10メートルしか上がらない隅田川レベルの1/100くらい開く程度のをふつうに住宅街でやって部屋に飛び込んで旧正月早々夜中のボヤだったぁなんてな話は口コミで外国人にも盛んにんなこたぁ当たり前ぇとか伝わってたし、マトメテ小山にした爆竹いっぺんに爆発して地響きだぁに空気乾燥してるからマイナス10度でも枯れた芝生に引火して翌朝あちこち真っ黒けてなことたぁ、しょっちゅう目にする耳にするで地場専門一部5角(割と厚いのに7円w)インチキ新聞のニュースにもならん有様だったけどネw
商用日本語教室の教え子連中(日本語試験既に一級保持者の大学上級生に日本企業勤務者ら)にちょい聞いても、「伝統」のカケラも認識なくっての、大卒でも就職できない、できても安給料こき使われ毎日の単なる年一度公認ウサッパラシてな、一度目印象→二度目確信→三度目呆れた、だったけどぉ。
◆【産経抄】
春節(旧正月、1月29日)を北京で迎えた。
(わざわざ逝かれましたぁw)
除夕(除夜)から年がかわる瞬間、市内中で爆竹と花火の爆音が耳をつんざいた。夜空は蛍光灯のように白く輝き、火薬のにおいが立ち込める。戦場取材の経験はないが、市街戦とはこんな感じかと思うほどだ。
(とにかく連発てか一斉デタラメ着火の破裂てか爆発で両手で耳を覆うしかないんだワw)
▼爆竹は“年獣”を追い払う一種の魔よけ。伝承では頭に角を生やし鱗(うろこ)に覆われた恐ろしい姿の怪獣で、年の初めに村を襲い、田畑を荒らし人を食らうが、爆竹の音と赤い色を恐れるという。年獣は何を意味しているのか。
(そんなことまず認識してないね。毎日のウサッパラシだけ)
▼農耕民族の習わしであることを考えれば、農民を苦しめる自然の脅威や疫病の類だろう。四季がおとなしく巡り、みのり多き一年であるように、との願いが込められているわけだ。ただ大都会の北京市中心部では1994年以降、この習慣は禁止されてきた。
(「伝統」「習慣」一切無関係w
もっと外貨必要なんで来年から世界に合わせて新暦採用ぉって中共命じたらさっさと従うと思うね。所詮ウサッパラシができればいいんだからサ)
▼密集地での火災や事故、騒音防止などが建前の理由だが、本当のところは別にあり、銃声に似た爆竹音が市民に1989年の天安門事件を思いださせ、党に対する憎悪を増幅させることを当局が懸念したのだ-とは当時を知るベテラン北京特派員。
▼ならば今回、当局が市民の熱望に応えて爆竹解禁に踏み切ったのは、事件の記憶が風化したとの自信なのか? 「いや、広がる一方の格差などで庶民の体制への不満が高じており、ガス抜きの機会を認めざるを得なかったんでしょう」と解説は続く。
▼一党独裁の言論統制下では、雷鳴のような轟音にでも紛れなければ語れぬ本音がある。この日、夜空に鳴り響いた爆竹と花火は約45億円分とか。人々の不満の根深さを示すかのようにいつまでも鳴りやまぬ爆音に、過去ではなく(近い)将来に起こりうる新たな事件の悪夢を思って震えた人間も多かったかもしれない。
所詮阿Qらだもん、てなことで全く心配してないとおもぉーよ。
コイツラは、せめて省単位でまとめる勢力があってそれも仕上げ最後の手足に過ぎないのは、それこそ4千年の経験の示すところ。
だからこれも所詮権力中枢前赤皇帝えざわと現赤皇帝古今のつばぜり合いのとばっちりに過ぎないノサてなことで。
◆進む言論弾圧 中国内も疑問視 「冰点」停刊、編集長は徹底抗戦
中国の有力紙「中国青年報」の付属週刊紙「冰点周刊」(水曜日発行)が停刊になり、波紋を呼んでいる。
今月11日付同紙に掲載された中国の歴史教科書批判論文に対し、共産党中央宣伝部が「報道宣伝の規律違反」などとして、同紙に「死罪」を言い渡したが、同紙編集長の李大同氏は、処分は憲法違反と抗議、徹底抗戦の構えだ。党の報道規制が相次ぐ中、報道界や知識人の間で胡錦濤政権への疑問の声が高まっている。
(北京 伊藤正)
はぁ?素人(セミプロみたいだが)だってこの程度は指摘(上・下)してますよぉw
「そもそも『中国青年報』は胡錦涛・総書記の御用新聞です。胡錦涛の出身母体で胡錦涛人脈の中核をなす共青団(中国共産主義青年団)、その全国組織を束ねる共青団中央の機関紙が『中国青年報』なのです。胡錦涛派の大看板といっていいでしょう。」
◆◇◆
問題の論文は「現代化と歴史教科書」と題し、中国近代史研究の第一人者として知られる中山大学(広州市)の袁偉時教授が執筆した。教授は、(毛沢東時代の)反右派闘争、大躍進運動、文化大革命の三大災難を経た後、人びとは1970年代末になって「狼の乳で育った」ことを知ったが、中学の歴史教科書を読み「今も青少年が狼の乳を飲み続けている」のに驚いたと書き出す。
教授によると、「狼の乳」とは「誤った思想や文化、観点」を指し、●力群元宣伝部長が79年の学術シンポジウムで使ったという。
●=都の者を登
…
袁教授は、日本の歴史教科書を批判しながら、中国の教科書も「西洋人は侵略者であり、中国人には何をやっても理があり、たたえねばならない」との「愛国主義(教育)の要求」に沿い、盲目的民族感情をあおっていると批判した。
(「(中華)民族」なんて成立してないもん正確には「華夷思考」だけどネw)
…
宣伝部は「帝国主義列強の中国侵略を肯定、歴史の事実に反し、新聞宣伝の規律に違反、中国人民の感情を傷つけ社会に悪影響を与えた」と断じたという。
(へっ!?w 正確には「阿Q的思い込み」)
李大同氏は公開状を発表して処分に反発。その中で、昨年も(1)5月25日付の台湾人記者による台湾の実情報道(2)6月1日付の平型関の戦いに関する記事(3)胡啓立元政治局常務委員による胡耀邦氏の回顧記-などを宣伝部が批判したと明らかにし、宣伝部の報道規制は「国民の権利の侵犯」と非難した。
「昭和12年10月、駐屯軍第5師団は太原攻略のため平型関の陣地に進撃した。
そのとき林彪の率いる共産軍が、日本軍の補給部隊(自動車部隊と馬部隊)を待ち伏せし、谷間に通りかかったところを急襲し大損害を与えた。
これを中国共産党は「平型関の大勝利」として大いに宣伝した。ところが実際には共産軍は最初ゲリラ的に攻撃しただけですぐに撤退、直接日本軍と対峙したのは中央軍と山西軍だった。
戦後になっても中共党は平型関の戦いは共産党軍だけで戦ったと言っている。」
せっこいよなぁw
つまりはこーゆーことなのにネ。
「日中戦争(単なる支那事変)においては、戦争らしい戦争と言えるものは、盧溝橋事件から武漢陥落までの約一年余りの期間だけであった。
戦闘パターンもまず反日・抗日集団が日本軍を挑発して逃げ、日本軍が反撃すると中央軍が逃げ、便衣隊(便所に逝くのにわざわざ着替えするわきゃないw)になり、市民が日の丸を振って日本軍の入城を歓迎し、その後は支那人が作った新しい治安維持政府により匪賊やゲリラの襲撃を防ぐ、というもの。
支那軍は日本軍と百戦百敗しながら、略奪しながら逃げ回り、しかも蓄財に余念がなかった。
(「三光作戦」の光=尽くすなんてな意味は日本語にゃねぇ~しぃ)
支那での内戦は1910年代に入ってから人民中国の発生まで、激しく続いていた。日本軍が中国大陸に入らなかったら、軍閥達は永遠に闘い続け日中戦争以上の死者を出したであろう。
国共内戦の結果、消滅した国民党軍だけで800万人であると、毛沢東は誇らしげに語っている。
中共成立後も支那人の殺し合いは続き、三反五反運動での粛正、大躍進運動での餓死、文革での闘争などでの被害者は日中戦争よりずっと多い。」
…ってこと。
中国では近年、報道規制が強まり、最近も北京の新聞「新京報」で、編集長への圧力に抗議するストもあった。共産主義青年団の機関紙の中国青年報でも一昨年、デスクと記者の処分問題で同紙名物記者が公開状で、報道干渉に抗議した。
報道規制は活字・放送メディアだけでなくネット情報にも及んでいる。当局は、報道は党と人民の「喉舌」、つまり宣伝道具と主張、党や指導部のイメージを損なったり、社会不安を招いたりの記事はご法度だ。
その論理からすれば、従来の共産党の史観と宣伝に反した袁偉時教授の論文は“党への挑戦”ということになる。ただし教授によると、この論文を3年余り前に発表したときには、問題にされなかったという。客観性が基本の科学的発展観を唱える胡錦濤政権下で言論弾圧が進む現状に、保守派台頭の政治的背景を指摘する声も少なくない。
ズレテる、な。