透明人間たちのひとりごと

憂国(日本)の愛国心

 唐突に 「愛国心と日本人」 をテーマにした記事
を書くように指図をされた ボク は、日本的なトップダウン
(上意下達)に もののあわれ を知るという日本人の
心根よりも 「部下のあわれ」=「下の者(もの)のあわれ」
を感じないわけにはいかなかったのでしたase

 『もののあわれを知る心』 をアップして以来、

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/335.html(参照)

 そんなうっ血したようなドス黒い不満が燻(くす)ぶる気分
ではテーマに沿った記事のアイデアなど浮かぶはずもなく
いたずらに日にちだけが過ぎて行きました。

 パワハラと呼ぶほどには大袈裟なものではないにせよ、
勝手にテーマを決められるのはどうかとも思うし、同一の
テーマで先に1号 さんや 2号 さんがエントリーしたあと
では記事のネタも限られてくるし、ほとほと困り果てていると

 「以前に『三島由紀夫と北朝鮮』というタイトル
1号 さんのひとり舞台劇をメインに据えた対話形式の
記事をアップしてたじゃないか」

 「えexclamation2

 「あれに材をとったらどうなんだeq

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/297.html(参照)

 と、2号 さんが声をかけてくれたのです。

 「三島といえば、キモいぐらいに「愛国心」が似合う
感じの人物じゃないか」

 「その辺りを混ぜ込んでさっさと仕上げちゃえ」 ということ
で、どうやら浮かない様子を見て取った 2号 さんに釈然
としない心のモヤモヤを見透かされていたようなのですが、
それにしても 2号 さんの魂胆がよくわかりません。

 三島由紀夫と「愛国心」は似合うと振っておきながら
ボクの耳もとで 「実は三島は 『愛国心』 という言葉
が大嫌いだったらしいよ」 などというようなことをこっそりと
つぶやくわけです。

 義に殉ずるが如き愛国者然とした狂気の割腹劇を演じて
みせた男を題材に使えば、この窮状から手っ取り早く脱出
するエッセンスが見つかるとでも言いたかったのかquestion2

 まあ、三島の短編を映画化した『憂国』は、「切腹」 を
モチーフにしていて、あの市ヶ谷での割腹事件の素地にも
なっていると言われているので、是非にも 観て見たいとは
思っていたけど、三島由紀夫「愛国心」を語る
ことで何かがインスパイアされるとでもいうのだろうかnose7ase2

 「自分を日本人だと信じて疑わないボク だけど自分を
日本人だと認識させているものとは、なんだろう」 という
素朴な思いを 「日本人の両親から生まれて日本で育った
人間は、皆、日本人ですよねquestion2」 なんて、何とも馬鹿げた
質問を 『もののあわれを知る心』 の冒頭で、
2号さんに訊ねてしまったボク ですが、正直、自分を
日本民族だと自覚したことはこれまでなかったし、今後も
きっとないと思うのです。

 「愛国心」 には自国を良くしたいという心情が伴なう
ように ボク は思っていたけど … 言い換えれば自分に
とっての「よい国」のイメージを自らに重ねて「憂国の士
の如くに何事かを訴えるような、いかにも自分は純然たる
「愛国者だexclamation2」 と公言するような気にはさらさらなれないし
、(三島由紀夫を想像して言っているのではありませんョ)
他者に対しても「愛国心」を強要するものでもありません。

 ボク にとっての「愛国心」 の本質は帰属意識だと
思うのです。

 何の変哲も面白味もないけど生まれ育った国の文化や
伝統に加えて有形・無形の価値観や精神的に培われた
価値体系からは逃れられないと思うからです。

 そして ボク の思う 「愛国心」 とは、いい意味での
アンカー、つまり 船の錨 のようなもので、それなしでは
単なる根なし草のように漂流するだけの流浪の身となって
しまいますから … ase2

 さて

 話を三島に戻せば 『若きサムライのために』
において … 「ナショナリズムというのは民族の生の衝動で
あり、それと背中合わせに死の衝動がある。この死の衝動
の方をうまく担保するものを政治が与えるかどうか、それが
政治の一番の問題になると思う」 と三島は述べています。

 つまりそのことは、国の存亡(国防)にかかわる国家的な
死の問題と精神的な死(従属的な国家体制)を言っている
わけです。

 国を守護すべき軍隊(自衛隊)が米国の傭兵と化してから
何十年も経つのに自立することも適わないのが現状です。

 現に、「自衛隊の最終指揮権がどこにあるか」の問いに
政治はまともに答えていません。

 果たして

 それは総理大臣にあるのか いや待てよ  米国の
大統領じゃないのかとさえ思えてならないからです

 ボクの知る三島由紀夫は 『憂国』 を観るまでもなく
「楯の会」 という結社を組織した時点で「愛国心」
はともかくも強圧的な国家主義を標榜したナショナリスト
あるという印象が拭えませんでしたが、こうして記事を書き
進めてみると三島が「愛国心」という言葉を嫌っていた
とする2号さんの耳打ちの意図が少しだけわかったような
気がします。

 昭和の時代に三島由紀夫が抱いた日本という国の将来
に対する憂いと40数年を経た平成の世に蔓延(はびこ)る
「お茶漬けナショナリズム」とのギャップです。

 … 私が言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を
 軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁の切れない、そういう
 中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の
 未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきなが
 ら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとして
 くれることである(『お茶漬けナショナリズム』三島由紀夫)

 自決の4年前(昭和41年)に「文藝春秋」に寄稿した一文
ですが …

 やたらと外国の素晴らしさを喧伝しては日本の因習的な
伝統文化を貶(けな)す一方で「やっぱお茶漬け最高
などと口を突いてしまうようなメンタリティの持ち主を三島は
お茶漬けナショナリズム」と称して馬鹿にしていました。

 そうしたお茶漬け的 「愛郷心」 を皮肉る要素を三島
「愛国心」 という言葉のなかにも見つけ出して嫌悪
していたのかもしれません

 平成の世では、軽さとノリが売りの「ぷちナショナリズム
や三島が侮蔑する「お茶漬けナショナリズム」 だけでなく、
工業製品からイデオロギーに至るまで軽薄短小が好まれ
、鬱陶しく重苦しいばかりの重厚長大なものは避けられる
傾向にあります。

 当時も今も三島の思想や行動はとても危険で、凡人たる
ボク にはすんなりと受け入れられるものではありません
が、その思いの丈は40数年が経過した今もなお生き続けて
いると思います。

 その意味では、三島は予言者として自らの義に殉じた
というべきかもしれません。

 まもなく43回目の「憂国忌」(11月25日)が
やってきます。

 それなのに、切腹までして憂いた国では、あろうことか

 食材の偽装(虚偽表示)に大手、一流どころ何するものぞ
と、上から下まで、官も民も、揃いも揃って収拾がつかない
ありさまに「憂国の士」は、草葉の陰から

 一体、何をどう思っているだろうかase 

コメント一覧

バカボンのパパのパパ
愛国心も萎える「偽装」の常態化なのだ。
これも卑怯な振る舞いはするな!とする武士道精神が廃れているせいなのか?
ほとほと情けない国に成り果てたのだ!
皮肉のアッコちゃん
日本人の精神性の気高さって、「赤信号みんなで渡れば青になる」ってことですか?
食材偽装にかぎらず世の中のほとんどは嘘と欺瞞にあふれています。
堕落した世界に失望するなんて「じぇじぇじぇ」のあまちゃん以上に「じぇじぇじぇ」の甘チャンです。
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