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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 丸い虹

 神である主(ヤハウェ)が、奴隷状態にあった先祖を
エジプトの地から救い出してくれたことを、イスラエル
の民が感謝して祝うのが「過越の祭り」です。

 「過越の祭り」は、初子を打つ者たちが家の前を通り
過ぎる(過ぎ越す)ことに由来します。

 『出エジプト記』ではエジプトのファラオとモーセと
の対決がエジプトを襲う一連の災厄(十の災い)という
かたちで描かれていますが、

最初の災いでナイル川の水が血に変わる  
        ナイル川の水を血に変える wol.jw.org

 モーセ(実質的には主ヤハウェ)に逆らうファラオと
エジプトとを襲う災いの最たるものは、エジプト全土の
初子(長子)を打つというものでした。

 その際、

 主(ヤハウェ)はイスラエルの民に過越のいけにえと
して羊を屠(ほふ)り、その血を鴨居(かもい)と門柱
に塗りつけるように命じます。

 
  鴨居と門柱に羊の血を塗る www.newlifeministries.jp

 初子を打つ者たちは、鴨居(かもい)と門柱に羊の血
がある家の前は、初子を打たず通り過ぎたのです。

イスラエル人がエジプトから出る。
    エジプトから脱出するイスラエルの民 画像元:wol.jw.org

 出エジプト以来、主(ヤハウェ)の命令に従い、長年
イスラエルの民は「過越の祭り」を祝ってきました。

 「過越の祭り」とはイスラエル(ユダヤの民)が神の
民として立っていく一連の出来事を思い起こす祭りです。

f:id:kinokunizaka66:20190112010610j:plain f:id:kinokunizaka66:20190112010621j:plain
   火と雹が降りそそぎ、疫病が流行る kinokunizaka66.hateblo.jp

 発酵させていない種なしパンを持って急いでエジプト
を脱出したこと、モーセ(厳密にはヤハウェ)が紅海を
二つに分けてつくった乾いた道を渡り歩いて逃げたこと、

 
   映画『十戒』でのモーセ(チャールトン・ヘストン)



           紅海を渡るイスラエル人 true-ark.com

 さらには、

   
  『モーセの十戒』 meigata-bokushin.secret.jp 

       モーセと十戒の石板 jp.freepik.com 

 シナイ山で十戒をはじめ律法を授かり、シナイ契約
を結んだこと、などを想起させる祭りだったのです。


    『預言者モーセ』 フィリップ・ド・シャンパーニュ

     出エジプト記(モーセ シナイ山 十戒etc)hatehatemanbou.com

 2000年前の時代にも過越の祭りは祝われていました。

 過越の祭りが祝われる期間は、否が応でもユダヤ人の
民族意識が昂揚する季節(とき)です。

 あの「シュロの日曜日」に、イエスが子ロバに乗って
エルサレムに入城する姿を群衆は熱狂して迎えたのです。


          エルサレムに入城するイエス w.atwiki.jp 

 この日、群衆が熱狂的にイエスを歓迎したその裏には
過越の祭り独特の雰囲気があったことは否めません。

     
     画像元:nanbuchurchga.com

 馬ではなく、子ロバがユダヤの王の乗り物でした。

   
      画像元:igmtokyo.com  

 いつか必ずや、いにしえのダビデのような力強い王が
再び遣わされ、ユダヤの民を異邦人や異教徒の支配から
解放してくれるに違いないと、ユダヤ人たちは皆信じて
疑うことがなかったのです。

   イエスは『旧約聖書』にある預言に従い、



     「シオンの娘よ、大いに喜べ、
     エルサレムの娘よ、喜び叫べ、
     見よ、あなたの王があなたの
     もとに来られる。

     この方は正しい方で、救いを
     賜り、柔和でロバに乗られる。

     雌ロバの子である子ロバに」

      (ゼカリヤ書 9章 9節)

 こうしてイエスはダビデの再来としてロバにまたがり、
エルサレム神殿の東門から颯爽と入城したわけです。

      
      画像元:nanbuchurchga.com

       (マルコの福音書11章)
       (マタイの福音書21章)
        (ルカの福音書19章)
       (ヨハネの福音書12章)

 ですから、

 ナザレのイエスは、もしかすると、ユダヤの王にして
救世主(メシヤ)とされてきた解放者なのかもしれない
という思いが、過越の祭りの頃には、メシアに違いない
とする確信にまで変わっていたのでした。

 しかし、

 1週間も経たない同じ週の金曜日になると、群衆たち
は「十字架につけろ!」と、叫んでいたのです。


   十字架につけろと叫ぶユダヤの群衆 ムンカーチ・ミハーイ画 (この人を見よ)

 いくら祭司長たちサンヘドリン側からの扇動があった
とはいえ、このことは、ダ・ヴィンチにとって解せない
疑問として今もって脳裏で燻り続けているのです。
 
  サンヘドリン(長老会)biblestory.jugem.jp

 そして、 

 イエスは少なくとも、表向きの理由としてはローマに
反逆した廉(かど)で十字架刑に処されるのです。 

 十字架での死こそが受難劇のクライマックスでした。


      出典:blog.goo.ne.jp

  「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

  (わが神、わが神、なぜわたしを
      お見捨てになったのですか)


      出典:blog.goo.ne.jp


         磔刑(十字架刑)objapan.org

 その前の晩にイエスは、弟子たちと「最後の晩餐」を
囲み、そこでイエスは聖餐式を制定していたとペテン師
パウロは説明します。

 通常の場合、

 キリスト教会では、月に一度、往々にして第一主日に
聖餐式を執り行うようです。 

 聖餐式では、パンと杯を陪餐します。

 パンは、十字架上で無惨に引き裂かれたイエスの肉を、
杯の中のぶどう酒(汁)は流された血を象徴します。

  杯の中のぶどう酒(汁)を指して、多くの人々のため
に流される契約の血であることをイエスは強調します。

 「これは、多くの人のために流されるわたしの契約の
血である 」   (マルコの福音書14章24節)


         聖餐式の制定 (過ぎ越しの食事)tomoshibi.or.jp

 食事の後、杯も同じようにして言われた、「この杯は
わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに
わたしの記念として、これを行いなさい」

  (コリントの信徒への手紙「1」11章25節)

 とパウロは「主から受けたこと」としてイエスの言葉
を書き残しているわけで、聖餐式という形で、イエスは
あらかじめ、十字架の意味を弟子たちに説明していたと
パウロは主張します。

 ユダヤ人たちは、イエスが捕縛され、裁判にかけられ
十字架刑に処されたことで失望したに違いないのです。

 否、むしろ、エルサレム入城後に、イエスが無抵抗の
まま捕らえられたときに、すでに失望は始まっていたの
かもしれません。

 十字架刑は、まさに「過越の祭り」の際に強調されて
きたユダヤ民族にとって待望された救世主(メシヤ)に
対する思いと、ナザレのイエスの姿とは、相容れること
のない存在であったことをあきらかにしたのです。

 しかしながら、


       「イエス・キリスト計画」shiogamagrace.com

 イエスが聖餐式を制定したとする『新約聖書』の箇所
を読み返すと、「十字架」に込められている作為の意図
を見い出すことができるのです。

 まさに、十字架上で流れ出たイエスの血が神と神の民
であるイスラエル(ユダヤ)の民とのあいだで新たなる
新しい契約を締結したことを意味するものであるとして、
パウロはその新しさを繰り返し何度も強調しています。

 出エジプト後、神である主(ヤハウェ)がシナイ山で
十戒を始めとする律法の数々をイスラエル(ユダヤ)の
民とのあいだに結んだ契約 ・・・

 すなわち、

 その契約の更新が十字架上でなされたというのです。

 過越のいけにえ(屠られた羊)でイスラエルの初子は
買い取られ、神の民であるイスラエル(ユダヤ)の民は
奴隷の家であるエジプトから解放されました。

 同じように、

 イエスが、十字架上で肉を裂かれ、血を流されたので
我々人類の罪は買い取られ、罪赦されたという屁理屈を
つくり上げて、「新しい契約」を「新約」と呼び、また
「旧い(古い)契約」を縮めて「旧約」と呼ばせたのが

     
        パウロの肖像  

 パウロという稀代の詐欺師にして大ペテン師の異名に
恥じない人物であると、そう感じ取ったダ・ヴィンチが
自身の作品に次々と「罠」を仕組んでいった背景には
そうした事情が垣間見えるのです。

 事情とは、「罠」動機に適う3つの事実です!

 ダ・ヴィンチが仕組んだ「罠」の大いなる目的は、

  1⃣ 人類は「神」によって、創造されたのではなく、
   異星種との交配により、作られたこと。 

  2⃣ 預言されていた救世主(メシア)はイエスでは
   なく、洗礼者ヨハネであったこと。

  3⃣ キリスト教(ローマ・カトリック教会)が世界
   を腐敗させる元凶であるとの告発をすること。

  など、大きくは3つ の事柄を指しています。

 それは、意図的に隠されている不都合なる真実です!

 
         イメージ(主ヤハウェの嘆き) worldclub.jp 

 この世界に氾濫する不誠実の数々に計画が頓挫した
主(ヤハウェ) の嘆きとも受け取れるかのような聖句
を見つけた使徒パウロに話を戻すことにしましょう。

 「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の
脂肪飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない……
もう、むなしいささげ物を携えて来るな……あなたがた
新月の祭りや例祭をわたしの心は憎む。それはわたし
重荷となり、それを担うのに疲れ果てた……善をなす
ことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなし子
正しくさばき、やもめを弁護せよ

      (イザヤ書 1章11-17節)

 という『イザヤ書』の一文を目に留めたペテン師は、

 これはこの世界の痛みや悲しみを自分のものとして、
それを担って行く生き方であって、いけにえや捧げ物
規定した『旧約聖書』自体に、その限界点が示されて
いるという理解に到達するのです。

 
  画像元 adonaiquovadis.hatenablog,com 

 『ヘブル人への手紙』の著者(恐らくパウロ自身)は
、その10章 8節で「捧げ物」を4つの枠にまとめながら、

 言わば、その限界が、

 「いけにえ、捧げ物、全焼の捧げ物、罪のための物」
に関して、神に向かって、「あなたはそれを望むことも、
喜ぶこともなかった、それは律法にしたがって献げられ
ているにもかかわらず」という嘆きの叫びとなるのです。

(これもダ・ヴィンチの遺言状に残された4つの教会 
 に暗示される事柄のうちのひとつかもしれません?)

 さらにつづけて、

 「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」
とあり、すなわち、「彼は、後のものを立てるために、
初めのものを廃止された」として、この御旨に基いて
「ただ一度イエス・キリストのからだがささげられた
ことによって、わたしたちはきよめられた」と偽った
うえで、「すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い
、たびたび同じようないけにえをささげるが、それら
は決して罪を除き去ることはできない」としたのです。

   (ヘブル人への手紙10章 9-11節)


        古代ユダヤ教における燔祭(動物の犠牲)の儀式

 これはイスラエル(ユダヤ)の民にとっては衝撃的
で重大な文言となりますが、今まで縷々述べたように
『旧約聖書』の中にそれが記されているわけですから
どうにもなりません。

 アロンの系統の祭司制度は、羊や山羊などの獣の血で 
祭祀をささげる祭司制度であり、メルキゼデクの系統の
祭司制度は、〝パンとぶどう酒〟で祭祀をささげる祭司
制度でした。
 
 浅はかなことに、
 
 ペテン師パウロに、あっさりと誑(たぶら)かされた

 初期のキリスト教の聖徒や信者たちは、メルキゼデク
の系統に従った大祭司であるイエス・キリストを信じて
新しい契約の祭りを守り行えば、完全な罪の赦しを得る
ことができると思ってしまったのです。 

 しかし、イエスを筆頭にパウロに踊らされた使徒たち
がこの世を去った後に、ローマが教会の中に入って来て、
新しい契約の祭りをなくし始め、西暦 325年には新しい
契約の過越祭りを廃止して「復活祭」としたのです。

 過越祭りを廃止したのは〝パンとぶどう酒〟で永遠の 
命の祝福を祈るメルキゼデクの系統に従う祭祀そのもの
を廃止する行為でした。

 それゆえ、メルキゼデクの系統に従う祭司が消えた後
は、誰も永遠の命の祝福を受けることができなくなって
しまったのです。

 世界の終わりに向かって駆け抜けて行こうとする時代
にメルキゼデクの系統に従った大祭司が現れなければ、 

 果たして、我々は誰に救われるというのでしょうか?


          う~む ・・・

 終わりの時代にメルキゼデクの系統に従った大祭司が、
その証しである過越祭りの〝パンとぶどう酒〟を携えて
再びこの世に現れられなければならないとダ・ヴィンチ 
はそのように考えていたのです。

 そして、そのことを、喚起しようとした「罠」が、

 2⃣ 預言されていた救世主(メシア)は、イエスでは
  なく、洗礼者ヨハネであったこと。

 の暴露に他ならないのです!

 ところで、

 ここまで一方的に、パウロを否定して貶めるだけの 
内容に終始するのは、いかがなものかと、訝るむきも
あろうかと思われますが、別に、パウロに恨みがある
わけではありません。
 
 ただ、
 ダ・ヴィンチの作品の中に見え隠れする「罠」
推理・分析していくと、どうしてもそうした結論に
ならざるを得ないということです。
 
 たとえば、
  
  
    『イザヤ書』53章 www.bible.com
 
『イザヤ書』53章にある「苦難のしもべ」は、本当に
ナザレのイエスについての預言なのでしょうか?
 
 一見すると、まさしくその通りであって、否定する
余地がないように思われますが、
 
 一度、考え直してみるのも一興かもしれません。
 
 ひょっとすると、
 
 それが本当の意味での「苦難のしもべ」の生き方に
直結することになるかもしれません!

 ところで、

 『ヘブル人への手紙』 7章 3節では、メルキゼデクは、
「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めも
なく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、 
いつまでも祭司としてとどまっているのです。」という
ように書いてありますが、

 彼には父も母もなく、系図もなく、その生涯の初めも
なく、いのちの終わりもなかったのでしょうか?

 本当はメルキデゼクには、父母もいて、系図もあって、
生涯の初めも、終わりもあったのではないでしょうか?

 なんとなれば、そうした事実をそのまま書いてしまう
と神秘性が失われて、メルキデゼクという人物に対する 
稀少性が損なわれてしまう恐れがあったからでしょう。

 なぜなら、

 彼は将来の救世主(メシア)のひな型となるべき存在
だったからです。

 然は然りながら、

 実際の歴史は神の計画どおりには運びませんでした!

 『ヘブル人への手紙』の中に、こうあります。


   『ヘブル人への手紙』blog.goo.ne.jp

  「もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、
 あとのものが立てられる余地はなかったであろう」

  ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は
 言われる、見よ、わたしがイスラエルの家および
 ユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る」

 「それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、
 エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ
 契約のようなものではない。彼らがわたしの契約
 にとどまることをしないので、わたしも彼らを
 かえりみなかったからであると、主が言われる」

    (ヘブル人への手紙 8章 7-9節)

 ここで言っている「初めの契約」とか「古い契約」
というのは『旧約聖書』のことではありません。

「古い契約」とは 9節に、「それは、わたしが彼ら
の手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した
日に彼らと結んだ契約のようなものではない。」と
あるように、彼らがエジプトから導き出された後に
シナイ山で結んだ「シナイ契約」(モーセ契約)の
ことで、律法を指しています。

 それはある種の双務契約のようなもので、一方が
その契約に違反すれば、たちどころに反故となる類
のものです。

 「新しい契約」とは、そのような性質のものとは
違い、仮に我々が神との契約を守ることができなく
とも、イエス・キリストを真に信じることによって
、罪のすべてが赦されて救われるというものです。

 これなら、律法に厳しいユダヤの民は別にしても
地中海周辺の異邦人や異教徒たちにも受け入れ易い
内容であり、何とも手軽で、実に都合のいいものに
仕上がっているわけです。

 言わば、


        福音とは何か? true-ark.com

 これが福音であり、「良い知らせ」なのです。

 こうした内容が『旧約聖書』の中で語られている
のならば、ダ・ヴィンチも信じたことでしょう。

 しかし、

 残念ながら、これらは『新約聖書』の中でしか
述べられていない事柄なのです。

 と言ってしまうとになりますね。

 エレミヤは、その31章31節において「新しい契約」 
について語ってます。

 「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家
  とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」

      (エレミヤ書31章31節)

 この「新しい契約」は、イエス・キリストによる
十字架の贖いによって実現したとパウロは言います。

 しかし、『旧約聖書』において「新しい契約」と
いう文言が出てくるのはこの部分だけなのです。

 当然のことに、

 ダ・ヴィンチの見解は違いますが、その解説には
紙面が足りませんので、次回とさせてください!

 ■ 蛇足ながら付け加えるとすれば、 

 神の計画どおりに事が運んでいれば、洗礼者ヨハネ
は救世主(メシア)になっていました。

 その場合にも、神とのあいだに「新たなる契約」を
結ぶ必要があったのかもしれませんが、

 彼はそのときに、メルキゼデクの系統に従う大祭司
となって、イスラエルの民だけでなく、あまたの国々
の人々に安寧と幸福を与えていたことでしょう。

 そうなれば、当然のことに世界の終わりに向かって
駆け抜けるような時代は、当面のあいだ訪れなかった
でしょうし、現在のウクライナやパレスチナの惨劇も
あり得ない話になっていたかもしれません。 

 しかし、現実の世界は違います!

 だからこそ、

 終末の時代に、メルキゼデクの系統に従った大祭司が、
その証しである過越祭りの〝パンとぶどう酒〟を携えて
再びこの世に現れられなければならないとダ・ヴィンチ 
は言うのです。

 その際に結ばれる「新しい契約」のしるしは、ノアの
時代に神が証しとされた約束の虹に倣って、


      出典:blog.goo.ne.jp 

 「新しい契約」の証しとしての丸い虹が白日の
晴天の空に見られるかもしれません!

 
   新しい契約の証しとしての丸い虹 wakuwakushincha.jp 


    (ん !!

  どうやら、この男はまったく何も、

  わかっておりませんな

     さ、さては、お前さん!
 
 「ま~るい虹を見たんじゃな!」
   
 
 「きゃ、やだぁ、わたし妊娠するのね!」  


         真ん丸の虹 bible-seisho.net

  まるい虹って、そ、そっち なの?
 
  ・・・ って、おいおい、

           画像元: domani.shogakukan.co.jp
          なんでやねん!
          
        マジかょ!           う~む  (^▽^;)(^^ゞ 


        新しい契約の証しとしての丸い虹 wakuwakushincha.jp 

     
     キリスト教イメージ(Photo Adobe Stock)出典:diamond.jp

       symbol2 ダ・ヴィンチの推理は続きます。

 
  ノアの虹 windychapel.com      ノアの大洪水と虹 note.com

  … to be continued !!

 

コメント一覧

小吉
この難解な文章をどうしたら読みやすくわかりやすく伝わりやすくなるのか考えています。
難しい。
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※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

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