日ですが、同時に 『日ソ中立(相互不可侵)条約』
を一方的に破棄したソ連軍が突如として満州国境を越え、
連合国の一員として対日戦に参戦した日でもあるのです。
8月11日には南樺太(南部サハリン)への侵攻を開始して
、日本がポツダム宣言を受諾した15日以降もなお停戦要請
を拒否し作戦行動をやめることはしませんでした。
停戦が合意されたのは、満州が20日、千島が21日、樺太
が22日のことでしたが、それ以前の 8月18日には千島列島
最北端の占守島(シュムシュ島)への上陸作戦が敢行され、
28日から翌 9月5日にかけて、北方四島(択捉島・国後島・
色丹島・歯舞群島)を占領したのです。
つまり、9月2日に日本が降伏文書に調印をするまでは、
樺太、千島地域での占領地の拡大作戦が継続されていた
わけで、実質的には北方四島の占領が完了するのは降伏
文書調印後になってからのことでした。
そして占領時には、ソ連人がただの1人として存在せず、
約1万7000人の日本人が居住していた北方四島を1946年
に自国の領土として編入し、すべての日本人を強制的に
日本本土へと引き揚げさせたのです。
そんな歴史を物語る34回目の 「北方領土の日」
( 2月7日)が、あと1週間ほどに迫っています。
北方領土に関連する記事としては …
『ウサギとカメの物語(7)』 と、
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/201.html(参照)
『北方領土の日』 などがあります。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/259.html(参照)
さて、
日ロ両政府は本日(31日)、北方領土問題に関する2回目
の外務次官級協議を東京都内で開きます。
日本政府としては今回の協議で双方の隔たりを縮め、ソチ
冬季五輪の開会式に合わせて2月の上旬に現地での開催
が予定される日ロ首脳会談に向けた環境を整備し、停滞し
つつある領土交渉を一気に加速させようとする狙いがある
もようですが …
ロシアのラブロフ外相は21日の記者会見で、問題解決の
前提条件に関し 「大戦の結果を認めることが第一歩だ」と
発言し、交渉の主導権を握りたい日本を牽制しました。
以前、「引き分け」 解決に言及したプーチン大統領
も具体的な解決案を提示しているわけでもなく領土協議の
着地点は依然として見えてきませんが、解決の前提条件と
して「大戦の結果を認める」とは如何なる意味でしょうか
ソ連(ロシア)がこの編入を正当とする根拠は、1945年2月
のヤルタ会談で米国、英国、ソ連の三首脳の間で合意した
「樺太の南部およびこれに隣接するすべての諸島がソ連に
返還される」という条文にあります。
日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で、日露戦争
勝利後に締結された1905年のポーツマス条約 で獲得した
樺太の一部と千島列島の権利および請求権を放棄しました
が、そこに日本固有の領土である北方四島は含まれないと
主張しているわけです。
しかしながら、日本が放棄した 「千島列島」 の範囲
が明記されていなかったために、ソ連は北方四島の北側の
2島(択捉、国後)は千島列島に属すると主張して、1956年
の「日ソ共同宣言」で色丹島と歯舞群島だけの返還を提案
しましたが、日本は一貫して4島の一括返還を求めたため、
「日ソ平和条約」は締結に至らず、現在まで両国間
における平和条約は結ばれていないのが現状なのです。
このことによって態度を硬化させたソ連は、「領土問題は
存在しない」との姿勢を変えませんでしたが、1991年に来日
したゴルバチョフ大統領が北方四島の領土問題を公式に
認める「日ソ共同声明」を発表します。
さらにソ連崩壊後の1993年にロシアのエリツィン大統領
が『四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する』
という 東京宣言 に合意しましたが、それ以降は何の
進展も見られないままに現在に至っているわけなのです。
ところで、私たちが 8月15日を 終戦記念日 とする
のは、ポツダム宣言を受諾し、昭和天皇による玉音放送
によって日本の敗戦(無条件降伏)が全国民に告げられた
日だからです。
日本では、この日をもって戦争は終結したものと考える
わけですが、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリの甲板上で
行われた 9月2日の降伏文書(休戦・停戦協定)の調印
をもって終戦とする意見もあります。
米、英、仏、加、(ロ)では 9月2日を 「対日勝戦記念日」と
していますが、韓国では 「光復節」 として、また北朝鮮では
「祖国解放記念日」 として、8月15日に祝いをするようです。
中国と台湾、(ソ連)は、9月3日を「対日戦争勝利の日」と
しています。
このように終戦日については各国各様のありさまですが、
それにしてもどうしてソ連は火事場泥棒のような真似をして
まで占領地の拡大作戦を展開したのでしょうか
そこにはスターリンの野望と目的が隠されていたのです。
1945年2月のヤルタ会談で対日戦を決意し、極東に軍備
を増強させていたソ連でしたが、中立条約を締結している
日本に対して宣戦布告をするには相応の大義名分が
どうしても必要でした。
そこで同年7月17日から開催されたポツダム会談でソ連は
米、英を初めとする連合諸国からの公式な参戦要請を希望
します。
ところが、原爆実験の成功によって、もはやソ連の参戦を
必要としなくなっていた米国は、「米政府は他国が締結して
いる条約を、正当で十分な理由なく破棄するような要請は
行わない」 と拒否し、7月26日に米、英、中の三カ国首脳の
連盟で日本に降伏を勧告する 「ポツダム宣言」 を
発したのでした。
さらに会談を終えてモスクワに戻った翌日、スターリンは
広島に原爆が投下されたことを知ると、参戦の前に日本が
降伏するのではないかと焦燥感を募らせますが、まだ日本
がソ連の仲介による終戦に希望をつないでいることを知り、
8月11日に予定していた攻撃開始を9日に繰り上げ、日本が
ポツダム宣言を黙殺したことを理由とする対日参戦を決定
します。
8月8日午後5時、モロトフ外相はソ連の仲介を信じ込む
日本の佐藤大使を制し宣戦布告文章を読み上げます。
佐藤は宣戦布告の事実を本国に伝えようと急ぎ 大使館
に戻ったが、大使館の電話線は切られ無線機は秘密警察
の手で没収されており、佐藤はやむなく通常の国際電報で
ソ連参戦を日本の外務省に伝えるほかはなかったのです。
しかも、その国際電報さえも 「東京には届かずにモスクワ
が差し止めた」 と言われています。
ソ連軍の国境突破により、前線の日本軍の通信網も遮断
されていたことから日本政府と大本営がソ連の宣戦布告と
国境線突破を知るのは日本時間の8月9日午前4時であり、
それも傍受したソ連のタス通信の報道によってのことだった
のです
また、宣戦布告はソ連駐日大使のヤコブ・マリクが同時に
日本政府に通告していると、モロトフは佐藤に説明していた
が、実際にマリク大使が東郷外相に開戦の宣言をしたのは
タス通信によってソ連の参戦が報道された翌日の 8月10日
午前11時過ぎだったのです。
要するに、8月15日のポツダム宣言の受諾以降も、ソ連が
軍事行動を続けた理由は、スターリンにとって 「ソ連領土」
である南樺太・千島に加え、日本の領土である北方四島と
北海道を占領することにあったと言われています。
スターリンは8月16日、トルーマン大統領宛ての秘密文書
で、日本軍が1918~1921年のシベリア出兵で 「全ソビエト
極東をその占領下に置いていた」 ことを理由に 「ソ連軍が
日本本土のどこかに占領地域 を持たなければ、世論
は大いに憤慨するだろう」 と述べていましたが、スターリン
の「火事場泥棒」ぶりに激怒したトルーマンは、18日に返書
を送り、ソ連による北海道占領に拒否の意思を伝えます。
これに対してスターリンは 22日にトルーマンに文書を送り
不満を表明したものの北海道占領は諦めざるを得なかった
というわけなのです。
そこでスターリンは、ポツダム宣言に基づき日本軍将兵を
武装解除後に本国に帰還させる姿勢を一転させ 「日本軍
捕虜50万人を労働力としてシベリアなどに強制移送せよ」
との極秘命令を発令します。
所謂(いわゆる)シベリア抑留ですが、スターリンは
第二次大戦で失われた自国の労働力を、最終的に60万人
におよぶ日本人抑留者に肩代わりさせることで、日本占領
の野望の代償としたのです。
それでは、ここで問題です
ドイツ、朝鮮、ベトナムに共通する事は何でしょう
第二次大戦後に分断国家となった国々ですね。
もしも、北海道が占領されていたら、日本もドイツ、朝鮮、
ベトナムと同様に分断国家となっていたかもしれません。
というのも、スターリンは、日ソ開戦以降、ワシントンとの
政治的交渉と並行して、北海道占領のための軍事行動を
進めていました。
ワシレフスキー極東軍総司令官は、8月19日、第一極東
方面軍に対し、「9月1日までに釧路市から留萌市に至る線
より北の北海道の半分および新知島(シムシル島)に至る
千島列島の南部諸島を占領すること」 という明確なる作戦
指令暗号を打電します。
北海道上陸作戦には2個師団をあて、北海道内に航空
基地を確保して、第九航空軍の戦闘機・爆撃機各1個師団
を移駐させるという具体的な内容まで示されていました。
そして 8月20日、樺太の真岡に上陸したソ連軍は わずか
半日で市街全域を制圧、南樺太の全面占領と北海道への
上陸作戦は、もはや目前に迫っていたのでした。
しかし、トルーマンの強硬な抵抗を受けたスターリンは、
8月22日の段階で北海道占領を断念し、同日午後5時に、
総司令部は配下の部隊に対して「いかなる艦船や航空機
も北海道に送ることを絶対に禁止する」 と打電したのです。
まさに、危機一髪でした
そのまま北海道に上陸されて占領・進駐などということに
なっていたら、樺太、北方四島、北海道などの地域で形成
される 「東日本(社会主義)人民共和国」の誕生
があったのかもしれませんし、事と次第では富士川を境に
日本を東西に真っ二つに分断するような悲劇が展開
されていたのかもしれません。
そうなったら静岡県は悲惨です。
県の東部・伊豆は「東日本人民共和国」となり
東側陣営の一員に …
中部・西部は「西日本国」となって西側陣営に
組み込まれることになったでしょう
離散家族が生まれていたのは疑いようもありません
ただ、このときからソ連 ロシアによる北方四島の占領
状態は現在に至るまで続いているわけで、日本の固有の
領土を占領して溜飲を下げるというスターリンの悪夢が
いまなお封印されずにいるわけです。
したがって、
北方四島 は、せめてもの「戦利品」で
あるという意識が、ロシア側 にあるのだとしたら、おそらく
領土交渉 は暗礁に乗り上げたまま、にっちもさっちも
動かないのかもしれませんね
★ DeAGOSTINI 『歴史のミステリー』 88
第二次世界大戦 「ソ連対日参戦」の真相
より、適宜抜粋引用しました。
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