この度、2025年11月18日をもちまして、
goo blogはサービスを終了することとなりました。
他社ブログへの移転先を、あれこれと検討した結果、
引っ越し先は〝Hatena Blog〟といたしました。
なお、当面の間はいろいろな事が起こりそうですが、
本gooブログは11月18日の自然消滅までこのまま継続
していく所存です。
リダイレクト設定を試してみましたが、不都合なる
場面に遭遇したので、転送を一時的に停止しています。
下記URLの方でも同じ記事が掲載されていますので
宜しければ、覗いてみてください!
URL : https://toumei-ningen.hatenablog.com/
★これからもどうか宜しくお願いいたします。
それでは『ダ・ヴィンチの罠 新世界』のつづきです。
さて、
アニメ『チ。―地球の運動について―』が、大人気の
ようですが ・・・
この作品では、地動説が禁じられ、異端とされた時代
の架空のヨーロッパを舞台に15世紀の人々や科学者たち
が宇宙の真理を追い求める姿を丹念に描写しています。
作中では、地動説を唱えることが命がけの行為であり、
数多の試練のなかで時に命を落とす危険に晒されること
すらある日常の姿が描かれます。
『チ。―地球の運動について―』特別展(日本科学未来館) www.miraikan.jst.go.jp
地動説が迫害されていたかどうかは諸説あって、正直、
よく分からないのですが、実際の歴史でも宗教裁判など
の史実によれば、幾多の現象に見られるように、悲惨な
結果を招いているわけですね。
たとえば、
ジョルダーノ・ブルーノは地動説ほか異端思想を主張
して、1600年に火刑に処されましたし、イタリアのピサ
で1564年に生まれたガリレオ・ガリレイは地動説を支持
したことで宗教裁判にかけられ、異端審問の果てに軟禁
されることになりました。
『チ。』の主人公たちは、こうした歴史上の科学者たち
と同じように、弾圧されながらも真理を追い求める姿勢
を貫きます。
彼らの姿勢は、かつてのブルゼフスキやコペルニクス、
さらには彼らの後を継いだ科学者たちの挑戦と幾重にも
重なるわけです。
アルベルト・ブルゼフスキ ja.wikipedia.org ニコラウス・コペルニクス pekospace.com
ちなみに、
ガリレオの最も有名な業績のひとつは、地動説を支持
し、太陽を中心に惑星が回るというコペルニクスの理論
を強く支持したことです。
当時、教会により広く認知させられていた天動説とは
対照的なガリレオの主張は大きな反発を受けました。
彼はローマ教皇庁(カトリック教会)との対立を経験
し、1633年に異端審問にかけられ、地動説の強要を放棄
せざるを得ない有名な裁判(異端審問)に臨みます。
異端審問を受けるガリレオ・ガリレイを描いた19世紀の想像図 www.nagaitoshiya.com
これは科学と宗教の関係に関する歴史的な事件として
つとに知られた事実ですよね。
この裁判での判決後にガリレオがつぶやいたとされる
有名な言葉「それでも地球は回っている」は広く人口に
膾炙していますが、
処刑されたカンポ・デ・フィオーリ広場にあるジョルダーノ・ブルーノの像 bh001.sakura.ne.jp
本当に「それでも地球は動いている」と呟いたか否か
は別としても、彼が、1633年に異端審問を受けたことは
史実であり、もしも異端誓絶を拒んだならば、33年前の
1600年に異端誓絶を拒否してローマで火刑に処せられた
ジョルダーノ・ブルーノ (Giordano Bruno 1548-1600)と
同じ運命をたどったのかもしれません。
この裁判の結果、ガリレオは、監視付きの邸宅で軟禁
となり、すべての役職が剥奪され、地動説を正当化した
ガリレオの著作『天文対話』は禁書となったのでした。
しかしながら、
カトリック教会(ローマ教皇庁)は、最初から地動説
を徹底的に弾圧していたわけではありません。
16世紀には、ポーランドの聖職者であり天文学者でも
あったコペルニクスが地動説を科学的に体系化した理論
として発表しました。
ガリレオに先立って、地動説を提唱したコペルニクス
(Nicolaus Copernicus 1473‐1543))の『天球回転論』は
彼が死んだ1543年に出版され、ローマ・カトリック教会
の管轄下においても禁書となることなく自由に読まれて
いたのです。
地動説を提唱した罪で有罪となったのはガリレオだけ
であり、このためキリスト教が地動説を弾圧したという
史実を疑う者すら出て来るわけです。
キリスト教が地動説を異端視していたというのは事実
ですが、なぜ有罪となったのがガリレオだけだったのか
についての考察を、以下に解説したいと思います。
地動説は、近代になってからはコペルニクスが初めて
提唱したわけですが、
当初から、カトリック、プロテスタント双方によって
異端視されていました。
カトリック側では、1547年にジョバンニ・トロサーニ
(Giovanimaria Tolosani)が 『天体回転論』を批判する
旨の論文を草稿します。
そこには、 当時、
トロサーニのドミニコ会の同僚で、教皇宮廷神学顧問
であったバルトロメオ・スピナ (Bartolomeo Spina))が
『天体回転論』を断罪しようとしていたことが書かれて
いました。
ところが、
1547年に死去したスピナに続いて、トロサーニもまた
1549年に死去し、その結果、地動説を断罪したこの草稿
が出版されることはなかったのです。
後継の教皇宮廷神学顧問は教皇とともに『天体回転論』
を問題視せず、こうしてこの本は無修正のまま読まれる
こととなったのですが、有罪となったのがガリレオだけ
だった背景にはこうした偶然があったのです。
一方、プロテスタントの方の批判はこれよりも随分と
早く、コペルニクスは『天体回転論』の出版に先立って
『コメンタリオルス (Commentariolus)』と呼ばれる太陽
を中心とする新しい宇宙体系を説いた手稿を知人や同僚
たちに読ませていました。
宗教改革の旗手としても名高い、マルティン・ルター
(Martin Luther 1483-1546))は、1539年に地動説の噂を
聞き、次のように述べてこれを批判したのです。
「この馬鹿者は、天文学全体をひっくり返そうとして
いる。 ヨシュアが『留まれ』と、言ったのは 太陽に
対してであって、地球に対してではない!」
ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュアを描いた1816年の絵画 www.nagaitoshiya.com
しかし、聖職者が政治的権力を持たない新教国では
一般に地動説には寛容でした。
プロテスタントであり、天文学者であったドイツの
ヨハネス・ケプラー (Johannes Kepler 1571-1630))は
コペルニクスの天文学を発展させましたが、地動説の
ゆえに身に危険が及ぶことはありませんでした。
ヨハネス・ケプラー rekishi-to-monogatari.net
同様に、コペルニクスも、カトリック司祭でしたが、
カトリック教会から迫害を受けたことはありません。
それでは、地動説を唱えたという点では同じなのに、
なぜガリレオは処罰され、コペルニクスやケプラーは
処罰されなかったのか?
これにはいくつか理由があるのですが、まず初めに
時期(タイミング)の問題があります。
ローマ・カトリック教会は、 325年のニケーア公会議
で採用したユリウス暦と現実の季節とのズレを問題視し、
コペルニクスが天文学的な研究をしていた頃には正確な
暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由なる
研究を奨励しなければなりませんでした。
むろん、ローマ・カトリック教会は、決して地動説を
容認していたわけではなく、彼の地動説も実在性のない
数学的仮説や計算を簡単にするための道具的便法として
許可していただけなのです。
コペルニクス本人は、プラトン主義者で数学的天文学
の実在性を信じていましたが、そうした思想が異端的で
あるとみなされる可能性は十分に自覚していました。
彼がアリストテレス学派や神学者たちから異端として
断罪されることを懸念し、生前において『天体回転論』を
出版しなかったのは、宗教的な迫害を恐れていたからと
考えることができます。
彼の死後出版された『天体回転論』には、神学者から
の攻撃を避けるために書いた序文が付けられています。
「この著作の仮説に関して」と題する序文は、無署名で
あったために、当時の読者はコペルニクスが書いたもの
と誤解していましたが、ルター派の神学者(説教師)で
あるアンドレアス・オジアンダー (Andreas Osiander)が
寄稿した文章です。
この序文は、
地動説の計算を簡単にするための数学的仮説である
ことを断った上で、以下のような天文学の意義を否定
するような文で締め括られています。
「誰に対しても[地動説の]諸仮説に関することで
何か確実なことを天文学から期待させてはいけない。
天文学は決してそうしたものを提供することができ
ないからだ。別の用途[数学的計算]のために作ら
れたものを真なる[実在する]ものと取ってしまい、
入った時よりもずっと愚かになって、この学問から
出ていくことにならないように」
この序文が功を奏したのか、アリストテレス学派や
神学者たちから表立った非難を受けることもないまま
に『天体回転論』は、1616年まで無修正のまま自由に
読まれたのです。
ところが、
ケプラーは、1609年に出版した主著『新天文学』に
おいて『天体回転論』の序文は オジアンダーが書いた
ものであり、コペルニクスが賛同した内容のものでは
なかったことを暴露してしまうのでした。
この話が広まるにつれて、ローマ・カトリック教会
は、コペルニクス説に対する態度を硬化させるように
なったという次第です。
1582年にグレゴリウス暦が制定されると、既に最早
ローマ・カトリック教会には、天文学の科学的研究を
保護する必要がなくなり、ローマ・カトリック教会は、
勃興するプロテスタントと戦うために、思想的な寛容
を失うようになるのです。
1600年にジョルダーノ・ブルーノが異端審問の結果、
火炙りの刑に処されますが、彼は地動説を提唱したが
ゆえに処刑されたのではありません。
それは彼が『無限、宇宙および諸世界について』等の
著作物で地球を宇宙の中心とする天動説を否定しており、
それがきっかけで、1616年からローマ教皇庁は地動説の
禁止を強化するようになったと推測されます。
ガリレオが1回目の異端審問を受け、コペルニクスの
『天体回転論』が 一旦、閲覧禁止となったのは1616年
のことで、この本は、問題視された9箇所が削除された
後、1620年になって閲覧が再度許可されましたが、再版
は許されませんでした。
地動説の弾圧は、時期的にだけではなく、地域的にも
限定されていました。
当時のローマ教皇庁検邪聖省は、イタリア国外にまで
力が及ぶことはなく禁書目録ですら、イタリア国外では
ほとんど無視されていました。
ブルーノは、1576年にカトリック教会から異端の嫌疑
をかけられましたが、1592年にヴェネチアで逮捕される
までイタリア国外で自由に異端の説を公刊していました。
ドイツ在住のケプラーが提唱した地動説に基づく理論
が迫害されなかったのもこのためです。
仮にコペルニクスが1616年以降も生きていたとしても、
せいぜいその著作がイタリア国内で発行禁止になるだけ
で、ポーランド在住だったコペルニクスがローマ教皇庁
検邪聖省から召喚されることはなかったと思われます。
ガリレオがイタリアに生まれ、1616年以降のイタリア
で研究をしていたのは、不幸なことであったというほか
はありません。
ガリレオがコペルニクスやケプラーとは異なり地動説
で迫害を受けたもうひとつの理由として考えられるのは、
コペルニクスやケプラーが著書をラテン語で書いたのに
対して、ガリレオは『天文対話』をはじめ、主要な著作
をイタリア語で書いたという点にあるのかもしれません。
異端審問を受けるガリレオ・ガリレイを描いた19世紀の想像図(部分)www.nagaitoshiya.com
カトリック教会による言論弾圧の厳しさは、ラテン語
の著作と俗語の著作とでは大きく異なっていたからです。
ルネサンス期には、『聖書』を俗語に翻訳することで、
ローマ・カトリックの教義と『聖書』に書かれたイエス
の教説が異なることを民衆に教える異端が続出します。
『聖書』などを プロバンス語に翻訳したリョンの商人
ピエールー・ワルド、英語に翻訳したイングランド人の
聖職者ジョン・ウィクリフ、彼の影響を受け、チェコ語
に翻訳したボヘミア出身のヤン・フスおよびその追従者
たちを、カトリック教会は激しく弾圧しました。
ブルーノも、キリスト教の教義とスコラ学を批判した
『原因・原理・一者について』をイタリア語で出版した
ために、ローマ教皇庁検邪聖省から睨まれることとなり、
ガリレオも『星界の報告』以外の主要著作をイタリア語
で書き、それらはよく売れたので、ローマ・カトリック
教会も大衆に与える影響の大きさを考慮すると無視する
ことが出来なかったのです。
この時代、ラテン語は聖職者の言語であり、一般人で
ラテン語を読むことができる人はほとんどいません。
ラテン語で教会批判をしても、読むのは教会の内部の
人間か大学の知識人に限定されていました。
これに対して、俗語で書かれた本は、一般人によって
幅広く読まれていたとわけですね。
特にガリレオが本を出版した時代には、活版印刷術が
すでに普及しており、『天文対話』などは 1000部も印刷
されていたのですが、これは当時としては破格の大部数
であったわけなのです。
ガリレオは、わかりやすい言葉で対話篇を書いていた
ので、大衆の間でも特に人気がありました。
もしもローマ・カトリック教会の教義に間違いがある
ことが一般大衆に知れ渡ったら、それは教会の支配権力
を脅かすことになります。
したがって、
俗語による教会批判は、ラテン語による教会批判より
も厳しい取り締まりの対象になったのでした。
ついでに言えば、
ケプラーはコペルニクスの天文学に魅了され、天文学
に強い関心を抱くようになり、コペルニクスの地動説が
伝統的なプトレマイオス的天動説よりも正しいとの確信
を抱くようになります。
そして、そのためのさまざまな証拠集めや推論の展開
を開始します。
ただし、
ケプラーの神学的な関心や、あるいはキリスト教的
な関心が消え去ったわけではなく、むしろ、彼の神学
と天文学はしっかりと結びついていました。
というのも、
当時の常識的な見方と同様に、ケプラーは大宇宙を
神の被造物として捉えていたからでした。
【以上】長々と綴ってきましたが、ここまでの考察は
「永井俊哉 ドットコム」www.nagaitoshiya.com を参考
として、適宜に抜粋・引用・加筆・編集いたしました。
なお、追記として、
『チ。―地球の運動について―』は、魚豊による同名の
漫画を原作としています。
また、
ガリレオ・ガリレイ by Wikimedia Commons
イタリアのピサに生まれた〝ガリレオ・ガリレイ〟は
科学史上最も偉大なる人物のひとりとして知られており、
彼の業績は天文学や物理学の領域に限らず科学方法論
においての革命を起こし、現代科学の礎(いしずえ)を
築いたとされています。
画像元:gigazine.net
むむう!
『天動説』は16世紀まで最も科学的な説として支持され、
暦の作成にも十分な精度を誇っておったんじゃが?
とうとうバツがついてしまったのぅ!
わしには、天が動いてるようにしか思えんが!
「どう見ても、そうじゃろが」
「お前さんは、どうなんじゃ?」
んんっ、
「きゃ、やだぁ、わたし妊娠したの?」
「また、それなのか!」
なんでやねん!
想像妊娠なのかな? う~む (^▽^;)(^^ゞ
なんだかなぁ!
ガリレオの望遠鏡〈フリー画像から〉www.ex-ma.com
… to be continued !!
「天動説」(天動説と地動説より)pekospace.com
『チ。―地球の運動について―』 minkara.carview.co.jp