この投稿は、上杉重二郎『ドイツ革命運動史」(上・下、1969.10、青木書店)の上巻114頁から139頁を、投稿者の独断でローザ・ルクセンブルクの最期の瞬間に焦点を当て転載したものです。本書の学術的な評価は措いて、事実関係とみられる内容に注目しました。原文で誤字や表記上の不自然な部分は手直ししています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8 ドイツ共産党の創立
スパルタクス・グループはすでに11月11日スパルタクス団と改称していたが、これはたんに名称だけの問題ではなかった。その意義は、すでにその指導者が革命的左派の組織的独立を目指したところにある。指導を担当する中央部が組織された。メーリンク、リープクネヒト、レオ・ヨギヘス、ドゥンカー夫妻、フーゴ・エーベルライン、パウル・ランゲ、エルンスト・マイアー、ピーク、パウル・レヴィおよびアウグスト・タールハイマーらと並んで、革命連動の高揚によって獄舎から解放され、会議の前日ベルリンに到着したルクセムブルクも、スパルタクス団の指導に加わった。それは、彼女が革命の自然発生理諭をしだいに克服しつつあったことを意味した。しかし、このドイツ労働運動の最もすぐれた指導者のひとりロザ・ルクセムブルクやレオ・ヨギヘスは、十一月革命のさなかにおいてなお、スパルタクス・グループは依然として独立社会民主党内にとどまることによって、党員大衆を左派に獲得し、その力で中央派幹部を党外に放逐しうる、という希望を持ちつづけていた。けれども、これは矛盾した考えであった。というのは、党員を影響下におくためには、スパルククス・グループは、独自の活動を党内でおこなわねばならず、そのことは、ルクセムブルクが守ろうとしていた党の「統一」に衝突する行動であったからである。彼女は11月29日付の『ディ・ローテ・ファーネ』に「ドイツ労働者階級は、その先頭に立ち、この偉大な時代にふさわしい一個の社会主義党を必要とする。この革命のただなかに中途半端なあいまいな態度の党は、占めるべき場所がない。……党大会を即刻招集せよとの要求は、拒みえないものとなった」と独立社会民主党幹部に迫った。
しかし、このようになおその最高指導者の一部が、ドイツ独立社会民主党自体の革命化の可能性をいたずらに信じて、結局のところ、この中央派の党内にとどまったことは、革命的左派の大衆にたいする独自の影響力を弱める結果とたった。
12月にはいってもなおルクセムブルクやヨギヘスは、第三の労働党を創立する点については控え目な態度をとりつづけていたが、いまやルクセムブルクをもふくめて、スパルタクス団の内外において独立社会民主党の分裂は避けがたく、一個の戦闘的革命的党の創立は絶対的な必要だという見解が、いよいよ強く現われた。
主としてロザ・ルクセムブルクによって起草された『スパルタクスはなにを欲するか』が12月14目に発表された。この声明は、事実上、彼女たちのグループが独立社会民主党といよいよ組織的にも分離したことを意味する、独立の政党の綱領ともいうべきものであった。スパルタクス団はすでに独自の機関紙を持ったのみならず、全国的に団の組織を広げ、事実上ほとんど独自の党として機能しはじめていた。
これに反しヨハン・クニーフらブレーメン左派は、すでに1917年初頭に、スパルタクス・グループにたいしてドイツ左派独自の党を結成しようと提起したほどであり、したがって、同年4月のドイツ独立社会民主党の創立にさいしても、これに加入しなかった。12月24日の急進左派(ドイツ国際共産主義者団)の第二回全国大会では、スパルタクスとの合同と共産主義党の創立とが主張された。ようやくにして12月22日、スパルタクス団中央は、12月29日に全国大会をひらいて独立社会民主党内部の危機の問題、綱領、国民議会にたいする態度などについて論ずることを決定した。また同日、ヴィルヘルム・ピークはスパルタクス団中央書記局の名において、独立社会民主党幹部団に手紙を送り、きわめて強い調子で、党機関が社会民主党の裏切り的な路線に滑り込んでいる事実を指摘し、ことに、さきの労兵協議会全国会議において指導的役割を果たした党幹部が反革命的政策と妥協して恥じなかった、と非難した。そして、大部分の党機関は「国民議会か協議会制度かという問題において、役立たなかったか、労働者階級の生死にかかる利益をいちじるしくおかした」(ピーク、前掲書、第1巻、406-407ページ)。独立社会民主党幹部はエーベルト=シャイデマン内閣にとどまり、各地では、すでに同党と社会民主党との融合がおこなわれつつある。この現状を終わらせるために、とっくに党大会は招集されねばならなかったのだが、いまスパルタクス団
は党幹部におそくも12月末までに大会をひらくように再度要求する、とピークは記して、12月25日に期限を切って回答を求めた。しかし、独立社会民主党幹部は12月24目にいたって、交通の困難と国民議会のための選挙活動とを理由として、この要求を拒否した。
かくしてついに12月29日に挙行されたスパルタクス全国大会には、全国46の地区から83人の代議員、赤色兵士団の3代表、1名の青年組織代表および16人の来賓が参加した。彼らは短い討論ののち、新党樹立を3名の反対をしりぞけて決定した。すなわち、この大会で明らかになったことは、多くの党員が、これ以上独立社会民主党内部にとどまることは反革命と結びつくことにほかならないとの認識を持ったという事実であった。こうしてスパルタクスのメンバーは、まったく明瞭にあらゆるニュアンスのひより見主義と分界線を画したのであった。 1918年12月30日から翌年1月1日にかけて開催された党大会にひきつづき参加した83人の代議員は、ベルリンはじめルール地方、高地シュレージェン地方、ケムニツ、ライプツィヒ、マグデブルクなど政治的産業的に重要な地区から選ばれていた。
この大会の中心議題は、スパルタクス団の独立社会民主党からの組織的分離であり、これについてはカール・リープクネヒトが報告した。
「今日重要なことは、明々白々に分離の線を引くことであり、新たな独立の党を構成することである。断固として容赦なく、団結と統一との精神と意志とをもって、しかも社会主義世界革命の利害に一致した明晰な綱領、目的および手段をもって、新党を結成することである」 (『ドイツ共産党の創立』28ページ)。
この報告を大会は承認し、新党はドイツ共産党と名づけられた。この党には「ドイツ国際共産主義者団」と名づけられていた急進左派の諸グループも加入した。この間リープクネヒトとヴィルヘルム・ピークとは革命的労働者委員にたいしても、党への加入を要請し、党大会の1月1日付決議も「大ベルリン市の革命的プロレタリア大衆が、ドイツ共産党か、ドイツ独立社会民主党かという選択にあたって、われわれを支持する決意をなすであろうことを疑わない」(『ドイツ労働連動史資料集』第2部第2巻、694-695ページ)と述べていたが、ことに国民議会選挙のボイコットと党の名称とにかんして、両者の意見の相違が調整されえず、多くは中央派の影響下にあった労働者委員が、共産党加入に踏み切るにはなお時日を要した。
創立大会で採択された党綱領を説明するにあたって口ザ・ルクセムブルクは、「われわれはふたたびマルクスとともに在り、彼の旗のもとにある。今日われわれは綱領のなかで、プロレタリアートの任務はほかでもない、一言でまとめれば、社会主義を実現し、資本主義を根こそぎに取り除くことだ、と主張している。われわれは、この宣言によって、1848年にマルクスとエングルスとが立っていたその基盤に、彼らが原則的にけっしてそこから逸脱しなかった地盤に、立っている」(『演説・論文選集』第2巻、664ページ)と述べ、党の綱領が『共産党宣言』、1869年の社会民主労働党のアイゼナハ綱領および1891年のドイツ社会民主党エルフルト綱領の継続であることを強調した。
彼女が同様に強く主張したことは、社会主義は「すばらしい社会主義政府によってではなく、……大衆によって、ひとりひとりの労働者によって達成されねばならない」 (同上、676ページ)ということであり。この段階では勤労大衆の獲得が党の最大の闘争目標となっている。
綱領によれば、「国家の改造、社会の経済的社会的基盤を完全に変革すること」が萍求されているが、これらの仕事は「なんらかの官庁、委貝会あるいは議会によって指令されることはできぬ。ただ民衆自身がこれに着手し、これを遂行しうる」(『ドイツ革命党綱領集』109ページ)とされ、ブルジヨア議会制か、民衆の組織である協議会かという問題が浮き彫りされている。スパルタクス団は右の点をさらに具体的に、経済的な変革でさえもプロレタリアの大衆行動、すなわち大衆の直接的な圧力、ストライキ、彼らの常任の代議機関によってのみ、実行されるのだ、と強調する。
党綱領は前段の最後の部分において、プロレタリアートの独裁こそ真の民主主義であり、「賃銀奴隷が資本家とならんで、農村労働者がユンカーと相並んで、彼らの生死の問題を議会のなかで討論する、といった偽りの平等」(同上、113ページ)は、なんらの民主主義でもないと断言する。
農業問題にかんしては、ごくわずかしか触れておらず、しかも、依然として中農の所有地をも収奪される、と規定している。小農民は上地所有者としてとどまりうるが、しかし接収した土地を、土地のない、もしくは土地の少ない貧農に配分することは規定されず、社会主義的農業協同組合の設立が主張されている。これらの点は、のちに批判されたように、労農同盟の観念からも誤謬であった。
労農同盟についてと同様に、社会民主党、独立社会民主党の党員大衆との統一行動や改良主義的労働組合内の活動についても、なんら触れるところがない。討論にさいして、ことにパウル・フレーリヒは「労働組合から脱退せよ!」というセクト的なスローガンを持ち出した。スパルタクス団の他の指導者たちは、なるほど彼の主張をしりぞけはしたが、労働組合の任務は労働者協議会によって引き受けうると考え、労働組合内の活動の意義を十分に認識していなかった。その結果、この問題は綱領委具会に付託されることとなり、明確な労働組介政策はうちだされずに終わった。
最後の部分にある「スパルタクス団を十字架にかけろ!と小市民。将校、反ユダヤ主義者、ブルジョアの下僕である新聞記者たち……は叫ぶ」という一句が、スパルタクスの指導者が中間層をいかに理解していたかを示している。ブルジョア的、小ブルジョア的諸政党との可能な妥協については、これもなんらの評価がくだされておらず、ドイツ共産主義者が統一戦線、人民戦線について理解を十分深めるには、なお多くの政治的経験を必要とした事実を物語っている。
党大会で激烈な論議を巻き起こしたのは、国民議会の問題である。スパルタクス団の指導部、ことにリープクネヒト、ルクセムブルク、フリッツ・ヘッケルトおよびケーテ・ドゥンカーは、勤労大衆の多数を獲得するためにも、合法活動の舞台を十分に活用してこの選挙にくわわることをよしとした。しかし、代議員の多数は、この参加が国民議会にたいする大衆の認識を混乱させ、これによって当面の最も緊急な課題である労兵協議会の強化がなおざりにされる、と考えた。大会は62対23をもって、国民議会選挙のボイコットを決定した。この決議には、共産党がドイツ労働者階級の陣列のなかにある議会主義の強い幻想や労兵協議会内部の力関係の不利な変化を十分考慮に入れなかった事実が現われている。共産党は、ボイコットによって大衆から遊離するという結果をまぬかれえなかった。
この誤謬にかんしてさらにつけくわえねばならぬことは、党大会が階級的力関係を十分精確に分析しえず、ソヴェト権力、プロレタリアート独裁のための主観的条件が存しなかったにもかかわらず、その樹立を直接の目標とした事実である。その結果、労働者階級とその他の勤労者の多数を獲得するために、まず十一月革命の民主的成果をブルジョア議会制の枠内においてもなお守りうるし、また反帝国主義的民主主義的諸要求を実現することが、当面、革命諸勢力にとって主要な課題であるとの、確実な認識が得られなかった。
党大会は、エーベルト=シャイデマン政府によるバルチック沿海地方にたいする反ソ軍事干渉に抗議した。そのなかで、大会はこの政府が「ドイツ労働者階級にとって不倶戴天の敵である」ことを強調し、「エーベルト=シャイデマン政府の打倒」を呼びかけた。この社会民主党政府が勤労者の利益を裹切ったことは、明々白々の事実であった。
しかし、ルクセムブルクはこの政府転覆を直接の闘争目標とはしえず、まずそのまえに、社会民主党の幹部が大臣の椅子に坐ることによって、社会主義の道はひらけるという、労働者のあいだにある幻想を克服しなければならぬ、と重ねて説いた。
綱領の一つの重要な点は、それが社会主義への平和的な発展というコースを厳にしりぞけたことであった。「資本家たちが好意的に議会や国民議会の社会主義的な決定に従い、彼らの所有物、利潤および搾収の特権をおだやかに断念するであろう、などと信ずるのは、気狂いじみた妄想である。支配階級はすべて……その特権と権力とを擁護するために、内乱と国民にたいす裏切りとをひき起こしてきた。……ブルジョア反革命の暴力には、プロレタリアートの革命的暴力を対置せねばならぬ」(『ドイツ労働運勁史』第3巻、176ページ)と、そこには読まれる。
ドイツ共産党創立の報に接して、レーニンはこう述べ、その喜びを隠さなかった。すなわち、彼はまず『ヨーロッパとアメリカの労働者への手紙』(1919年1月)のな 「リープクネヒト、ロザ・ルクセムブルク、クララ・ツェトキン、フランツ・メーリンクのような、世界に知られ、世界的に著名な指導者、労働者階級の忠実な味方を擁しているドイツの『スパルタクス団』が、………シャイデマンやジュデクムのような社会主義者……との結びつきを最後的に断ち切ったとき、『スパルタクス団』がみずから『ドイツ共産党』と名のったとき、――そのとき、真にプロレタリア的な、真に国際主義的な、真に革命的な第三インタナショナル、共産主義インタナショナルの創立は事実となった」(全集、第28巻、462-463ページ)と書いた。
革命を勝利に導くという重大な使命を担っていたドイツ共産党への加入者は、必ずしも当初の予想に達しなかった。その理由としては、第一には、なお多数の独立社会民主党員が、来たるべき党大会において革命的な方針がうちだされるであろう、とむなしく期待したこと、第二には、スパルタクスにたいする政府、反動の側からの追及がきわめてきびしく、犠牲者が相つぐ情況であったので、入党には断固たる決意が必要であったことなどをあげることができる。
9 一月闘争と十一月革命の総決算
前述のように、労働者=兵士協議会全国会議はひより見主義勢力に有利な決定をおこなって、十一月革命に重要な転機を招いた。けれども、権力をめぐる闘争がこれによってただちに反革命にとって一方的に有利になったとはいえない。なお、労働者の一部は武装しており、地域的な協議会の多くは、その権力を自由意志で手放すようなことはしなかった。重要工業地帯の労働者たちは、増加するストライキや大衆行動によって、基礎産業の社会化という要求を出していたが、そのことは彼らがひより見主義幹部の指導に満足していないことを示していた。彼らは、反革命の攻撃にたいして、ときには武装行動によってこたえたが、こうして協議会は1919年の春においては、部分的にはふたたびプロレタリアートの闘争組織として発展してゆき、ことにブレーメンやミュンヘンでは一時的ではあるが、労兵協議会政府がつくられるにいたった。なかんずく共産党創立は、労働運動に新たな刺激をあたえ、高揚へと導いた。支配階級は、勤労人民が若い共産党の旗のもとに結集することを恐れ、この党にあらゆる攻撃を集中した。すでに1918年12月30日の『ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥンク』は、マルクス主義理論を打ち破るだけでは不十分であり、共産主義者には暴力をもって立ち向かう用意がなければならぬ、と挑発的言辞を弄した。コンツェルンの財政援助を受けて、反動は「反ボリシェヴィキ同盟」などの反革命暴力団体を結成し、公然と「リープクネヒトを殺せ!指導者をぶち殺せ!」と新聞に書き、プラカードに記した。
支配階級と社会民主党右派幹部との最大の挑発は、1月4日のベルリン警視総監エミル・アイヒホルンのプロイセン政府による罷免であった。『フォルヴェルツ』は、すでに1月1日から彼にたいする攻撃キャンペーンを開始している。革命的労働者委員、独立社会民主党幹部団(大ベルリン市)および共産党中央部は、1月5日の共同声明のなかでこの労働者に人気のあった独立社会民主党左派幹部の罷免と、この地位にプロイセン政府の警察長官エルンストを据えたことに抗議した。もはやプロイセン政府からも独立社会民主党の大臣たちが退いたあと、アイヒホルンの地位は唯一の確保すべき重要なポストであった。彼は労働者の支持に応じてなおノスケ、エルンストおよびフィッシャー少尉の脅迫にもかかわらず、その地位を守った。声明は、「労働者諸君、党員諸君!アイヒホルン個人が問題なのではない。クーデタによって革命の成果の最後の残りが失われようとしているのだ。銃剣の助けを借りて、エーベルト政府はその共謀考とともに、プロイセン政府のなかに彼らの権力の支えを設けようとしている」(『ドイツ労働運動史資料集』第2部第3巻、9-10ページ)と述べて、これらの革命の成果と労働者の利益とを守ることに全力を挙げるよう全勤労者に訴えた。大デモンストレーションが敢行され、「リープクネヒト、ハーゼ万歳!エーベルト=シャイデマンを倒せ!」のシュプレヒコールが響きわたった。
労働者大衆がリープクネヒトとピークとが属していた革命的労働者委員会の呼びかけに応じて、ただちに行動に移ったことは、決起をためらえばためらうほど、政府の軍事力が増強されるという事情のもとでは適切な措置であった。後退は労働者階級の全面的降伏となったであろう。彼らは、決然たる大衆行動がエーベルト=シャイデマンの意図を挫きうるであろうと判断した。
1月5日、大デモンストレーションがベルリン警視庁に向かっておこなわれたとき、すでに、この数十万労働者・兵士は武器を与えよと叫びつつ示威行進をした。これに向かって独立社会民主党のドイミヒ、アイヒホルン、レーデブールおよび共産党のリープクネヒトが、激励の言葉をおくった。その日の夕方の会議で革命的労働者委員は、エーベルト=シャイデマン政府打倒を、それが実際の力関係にはふさわしくなかったにもかかわらず、直接の闘争目標とせよと主張し、独立社会民主党ベルリン指導部も、この意見に組みした。人民海兵隊の一指導者は、ベルリンの他の部隊の水兵や兵士も労働者の側に立って政府とたたかう用意がある、と報告した。しかし、これは事実に必ずしも合致していなかった。それにもかかわらず、この会議は、翌1月6日に革命的労働者階級の政権樹立のための武装闘争を、ベルリンの労働者・兵士にさらに訴えることを決定した。けれども指導者のあいだにはなお意見の不一致が残っていた。1月5日のヴィルヘルム通り官庁街では社会民主党員と独立社会民主党およびスパルタクスとの衝突がおきていたが、これはもはや平和的デモンストレーションと呼ぶべきものではなく、決定的な時が迫っていたことを示していた。レーデブールが1920年1月にはじめて洩らしたところによると、1月5日に革命的労働者委員は80票対6票で闘争を決議したという。しかし、独立社会民主党のドイミヒとライヘンミュラーとはこの闘争を見込みなしと判断して、この企てから遠去かろうとした。けれども、大衆はすでに闘争の呼びかけに応じていた。ほとんど20万の武装者が行進しており、数台のトラックは機関銃を乗せて凱旋記念柱のかたわらにとどまっていた。「もしこの群衆が大言壮語の連中の代わりに、断固と決意した、はっきりと目標を定めた指導者を持っていたとしたら、この5日の昼には彼らはベルリンを掌中におさめたであろう」(ノスケ、前掲書、69ページ)とノスケさえ判断した情勢が見られた。
革命勢力の1月6日のアピールは、「革命的プロレタリアートの権力のための闘争に」、すなわち「社会主義のための闘争に」決起することを求め、「本日11時ジーガーアレ通りに集団で現われる」(『ドイツ労働運動史資料集』第2部第3巻、一てへIジ)よう訴えた。闘争の指導部として革命的労働青委貝、独立社会民主党、共産党および人民海兵師団、中央水兵協議会、鉄道具ならびにベルリン守備隊の代表者33人から成る革命委員会が組織された。前述のように、共産党からはリープクネヒトとピークがメンバーとなった。しかし、この委員会で指導的立場に立ったのは、革命的労働者委員と独立社会民主党の代表であった。
1月6日のゼネラル・ストライキは広い範囲でおこなわれ、ほとんどの大企業は操業できなかった。また同日のデモンストレーションの参加者は、50万人以上を数えた。しかし、武装蜂起は組織的になされず、自然発生的な闘争がばらばらにおこなわれた。共産党の要求でようやく銃器の配布がなされ、1月6日中に約3,000の労働者が武装を終え、ほとんどすべての新聞社のほか、帝国印刷局、食糧庁、鉄道局、中央電報局、鉄道の駅その他戦略的要衝が占領された。もちろんこれは、エーベルト=シャイデマン政府にとって重大な打撃となった。しかし、革命委員会の最大の不手際の一つは、兵士大衆を闘争に引き入れえなかったことである。人民海兵師団をふくめてベルリン守備隊の多数が、この闘争に中立の態度をとったことは、労働者にとって重大な打撃となった。農民大衆もまた消極的な態度を示していた。
全体としてみれば、武装労働者さえその多くははっきりした戦闘目標もなく街を行きかい、なかには武器を持ったまま姿を消す者もいた。このような革命勢力の側の無組織性や彼らが断固とした行動に出なかったことが、ことに兵士たちの気分に否定的な影響をあたえ、人民海兵隊をふくめたベルリン守備隊の多数に、この闘争の決定的瞬間に中立的、すなわち政府を助ける態度をとらせた。あまつさえカウツキー、ディトマン、ブライトシャイトら独立社会民主党幹部がすでに1月8日、流血を避けるためと称して社会民主党多数派政府と交渉にはいった(注①)ことも、ただ労働者の闘争に水をかけ、エーベルト、ノスケにますます時を稼がせ、彼らに最善の反撃の時期を選ばせる結果となった。
ノスケは、もちろんのこと、独立社会民主党員には一挺の小銃も渡しはしなかった。これこそ、革命的労働者の敗北の最も決定的な理由ともいうべきものであった。
ノスケは国防大臣ラインハルト大佐(注②)の助けを得て、フォッーホフマン中将に率いられる反革命軍隊をつぎつぎと首都周辺に集結した。もっとも、ホフマンが兵士と労働者のあいだにあまりに評判が悪いので、ノスケが形式上はベルリン最高司令官に任ぜられることとなった。1月7日朝ノスケのもとに兵士たちが集まってきたばかりでなく、トラツクによって大量の小銃や機関銃が運び込まれ、無電施設も備えられた。武器は労働者のみならず、むしろ重点的にブルジョアや学生に配布された。もはや彼が再三危惧したような、革命的労働者の決意いかんでは反革命の中核が打ち砕かれるという心配はなくなった。
独立社会民主党との妥協もはや問題とはならなくなり、ノスケは反革命部隊をつぎつぎと訪れて挑発してまわった。彼は、いまやあからさまに無条件降伏を革命勢力に要求するほどになった。東部戦線では赤軍やポーランド軍の立ち直りによってある種の緊迫が生じていたが、そうしたことは当面問題ではなくなり、たとえば、ほかならぬキールの1,600の兵員を東へまわそうかという問題が生じたときノスケはなんとこれらを急いでベルリン周辺に送るように命じた。1月9日の夜から10日朝にかけて彼らは到着したが、その最高指揮官は旧将校であった。
しかし市内には、依然として武器を手にした労働者たちが見受けられ、撃ち合いや狙撃もまれではなかった。(注③)
すでに1月8日、工業地区シュパンダウで、労働者にたいする攻撃がかけられた。というのは、ここに最大の国営武器工場があり、労働者の先鋭化も伝えられ、ノスケのおそれの一つとなっていたが、この日よりまえ彼にシュパンダウの凖尉らから情報が秘かにもたらされ、いま射撃を開始すれば、事は片づくということであった。ノスケは即刻攻撃を開始し、成功をおさめた。ここでも労働者たちがいかにお人好しで、目前の武器に手も出さず戦術に熟達していなかったが示されている。
たしかに一般的に言えば、挑発によって武装闘争に立ち上がらざるをえなかったベルリンの革命的労働者大衆は、なお準備不足であった。繰り返して言えば、これに反して反革命勢力は、当然のことながら十分に用意をととのえていた。すでに12月末、最高軍司令部は、旧軍隊の将校、下士官、反動的学生、小市民、ルンペン・プロレタリアから成る、およそ10,000のいわゆる義勇軍を、ベルリン南部および西南部に配置していた。右派幹部オイゲン・エルンストが1月16日に外国人ジャーナリストとのインタビューで「スパルタクスの連中は最初から成功のあてはなかった。なぜなら、われわれは準備怠りなく、彼らが希望したより早期に打ちかかるのをよぎなくさせたからである」(『ドイツ労働運動史』第3巻、183ページ)と誇ったような事態があった。 エーベルトがノスケとともに1月4日、すなわちアイヒホルン罷免の日に、しかもノスケがベルリン政府軍司令官に任ぜられる2日もまえに、ツォッセンの丘営で義勇軍部隊を査閲したことも、いわば帝国主義者たちが労働者に待ち伏せ攻撃をかけた事実を証明している。政府と全国協議会とによって全権を委ねられたノスケにいたってはいっそうあつかましく、「だれかが吸血鬼にならねばならぬとしたら、ぼくがためらわずにこの責任を引きうけよう」(ノスケ、前掲書、68ページ)と述べていたが、1月6日に彼が帝国宰相府に入ったとき、仲間の社会民主党員たちは、「なにをぐずぐずしているのだ、リープクネヒトに断固として当たれ」と激励した。そして数千の党員がすでにそこに集められていた。彼がいかに支配階級に信頼されていたかは、次のグレーナー将軍の言葉によっても、証明されている。
「1919年初頭にはわれわれはベルリンを掌握し、片づける自信を持った。いまや、そしてその後において も。すべての措置は軍司令部との緊密な了解のもとにおこなわれた。しかしこれを指導し、政府と国民とにたいして責任をとったのは、まもなく〔2月13日。〕国防大臣に任命されたノスケであり、彼はエーベルトがそうであったように、将校たちと密接な同盟を結んでいた」 (グレーナー『回顧録』477ページ)。
このような情況、ことに独立社会民主党幹部の不決断に直面して、共産党中央部は、とりわけルクセムブルクとヨギヘスとの意見に従って、革命委員会からリープクネヒトとピークの二人をよぎなく引きあげた。1月8日には共産党は、当面の目標は武装蜂起による政府打倒におくべきではないとしながらも、1月10日には革命委員会に手紙をおくり、その不徹底な態度を批判しつつも、「われわれはどんな相違にも妨げられず、革命的労働者委員に伍してたたかうであろう」(『ドイツ労働運動史資料集』第2部第3巻、42ページ)と述べ、じじつ党員は最後まで闘争の先頭に立ったのであった。共産党は、この間、1月8日のアピールにも見られるように、「すべて武装した者は強固な部隊に結集せよ」と、もっぱら労働者の武装とブルジョア反動軍隊、「あらゆる反革命の武装解除」(同上、22ページ)に全力を挙げたが、これこそ、政治的ストライキが最高潮に達し、すでに蜂起の開始されたこの時期における最も適切な戦術であった。しかし、なお若い共産党は、全闘争を統一的に指導する能力をまだ持っていなかった。
ベルリン労働者は孤立してたたかったのではなかった。ドレスデン、ミュンヘン、ニュルンベルク、シュトゥットガルトなどでは、これを支援する武力闘争が起こり、ライプツィヒではベルリンへ送られようとする軍隊が阻止された。ことに、ブレーメンでは1月10日にソヴェト共和国が樹立され、「社会愛国主義的政府〔エーベルト=シャイデマン〕がベルリンの兄弟たちを殺しているとき」(同上、50ページ)労働者諸君よ! 彼らを見殺しにするな!と訴えていた。
これにたいしエーベルト=シャイデマン政府は、1月8日に市民へのアピールを出し、その弾圧がもっぱらスパルタクスに向けられていること、「スパルタクスの支配する
ところ、いかなる個人の自由と安全も失われる」こと、また「暴力には暴力をもってたたかわざるをえない」(『ドイツ労働運動史』第3巻、534-535ページ)ことなどを強調した。社会民主党右派幹部はこのアピールなどによって、弾圧されているのは十一月革命の成果、民主的権利と自由とを守ろうとしている全勤労者であることと、いまや政府によって周到に準備された暴力が挑発された労働者階級にくわえられつつあることとを、おおいかくそうとした。
1月11目、エーベルトの部隊はベルリンに突入し、まず『フォルヴェルツ』の建物を解放し、いたるところ圧倒的な優勢のうちに労働者の抵抗を打ち破った。翌日、自衛軍は警視庁を占領した。武器を持ち、あるいは共産党員証を身につけていた者は、容赦なく射殺された。一種のポグロム、大量虐殺の雰囲気がつくりだされ、数百の革命的労働者が捕えられ、拷問を受け、少なからぬものが虐殺された。1月15日には全ベルリンは完全に制圧され、ノスケは反革命軍に特別賞与を与えてその功績を讃えた。
1月16日付『ディ・フライバイト』は政府軍の状況を次のように報じている。
「……モアビート区〔労働者居住地区〕が重装備部隊によって〔1月14日〕占領されたのち、また……あらたに五個師団がベルリンに投入された。彼らは……市の中央部に駐留した。すべての大きな公共建築物は、軍隊によって取り囲まれた。これら部隊は大砲、戦車、装甲車、火炎放射器、迫撃砲および機関銃を伴っていた」 (同上、190ページ)。
この暴力組織に依拠して、ブルジョアジーは荒れ狂い、十一月革命の復讐を遂げた。
ロザ・ルクセムブルクは1月14日、次のように書いて「『秩序がベルリンを支配している!』と……エーベルトとノスケは、また『戦勝部隊』の将校たちは、鬨の声を挙げている。この部隊にベルリンの小市民的暴徒は街々で小ぎれを振り、喝采する。……そして小躍りして喜ぶ『勝利者』たちは、定期的に血なまぐさい虐殺によって維持されねばならぬ『秩序』なるものが、没落に向かうというその必然的歴史的な運命に対していることに、気づいていないおまえたち、なまくらの獄卒ども、おまえたちの『秩序』は、砂の上に築かれている……」 (ルクセムブルク、前掲書、第2巻、708-709、714ページ)。
彼女とリープクネヒトとの首には、それぞれ10万マルクが賭けられていたが、二人は最大の危険にもかかわらず、ベルリンを立ち去ることなく、最後の時刻まで党中央機関
紙の編集と発行とに献身した。
しかし、かの1月15日の夕刻、彼らは隠れ家で反革命部隊に捕えられ、最も卑劣なやり方で虐殺された。 「……それからまた10分経ってロザ・ルクセムブルク同志が二階から下へ連れて行かれた。ブルジョアの女たちが飽きもせず彼女を罵った。二階でぼくは〔われわれ三人が連行された〕ホテルの玄関から、たいへんな騒ぎと女の叫び声とを聞いた。ホテルの女中が二階へかけ上がって、仲間にまったく気が狂ったように叫んだ。
『この可哀想なひとがどんなになぐり倒され、曵きずりまわされたか、そのときのことは、わたしはけっして忘れない、決して』。彼女のあとからやって来た下士官は露悪的に言った、『そうだ、奴らは片づけた』。見世物は終わり、気味の悪い静けさが始まった。ぼくを見張っていた二人の兵士は……」(ピーク、前掲書、第1巻、480ページ)とピークは語っている。
ルクセムブルクの屍体は運河に投げ棄てられ、ようやく5月31日に発見された。政府が、彼女は群衆に殺され、リープクネヒトは逃走を企てて射殺された、と事実をまったくごまかして発表したことは、支配階級がいかにこの暴力的勝利にうしろめたさを感じていたかを物語っている。
殺人犯たちは、その氏名が明らかにされ、そのうち二人は裁判にかけられたとはいえ、事実上なんの処罰もうけなかった。独占資本、ユンカー、軍国主義者が、社会民主党右派とともに、その攻撃の鉾先をもっぱら共産党員に向けたことは、彼らにとっては賢明であった。第一に、彼らはそのもっとも断固とした敵に集中的に打撃をあたえることができた。第二に、この攻撃によって、労働者階級の分裂を深めることができたからである。1月16日「はじめて」二人のスパルタクス指導者の死を知ったノスケは、「きわめて冷静に事を処した」(ノスケ、前掲書、75ページ)と誇っている。
リープクネヒトとルクセムブルクとの虐殺について詳述すれば、まず翌日、1月16日すでにブルジョア新聞は凱歌をあげた。『フォシッシェ・ツァイトゥンク』は政府の見解を詳細に紹介して、エーベルト=シャイデマン政府と反動将校らを擁護する論陣を張った。すなわち、この新聞はリープクネヒトが護送の途中逃亡を企てたので、連行した兵士に射殺されたこと、ルクセムブルクについては護送の車が群衆に襲われ、彼女はピストルを射ちこまれ、車からひきずりおろされ、やがて「群衆は彼女とともに闇に消えた」(ハノーヴァ=リュックドゥ/ハノーヴァ『口ザ・ルクセムブルクとカール・リープクネヒトの殺害』39ページ)と記した。
『フォシッシェ・ツァイトゥンク』はまた「国民」が彼らを「裁いた」のだと述べて、公然とこの陰惨な殺害を正当化した。そして、重ねて「カール・リープクネヒトと口ザ・ルクセムブルクとは、考えうる最も重い罪を犯した。しかし彼らの処罰はただ正規の裁判のみが決すべきであり。その任務は彼らを将来において無害なものとすることにあったであろう」と二人の「罪」を強調し、あるいは「彼ら個人にたいする憎しみではなく〔なんというきれいごとだ〕、彼らによって率いられた運動にたいする憎悪のゆえに彼らは最期を遂げたのである」(同上、40、41ページ)と書いて、ブルジョア新聞言うところの「国民」すなわち反動勢力を美化した。
しかしだれよりもスパルタクスを憎み、この殺人を肯定したのは、社会民主党の指導者たちであった。
ノスケは「無血におこなわれた変革をそのあらゆる無残な振舞いで
変質させた主要な責任者」(ノスケ、前掲書、75-76ページ)はこの二人であると主張し、虐殺を不当とは思わぬとさえ言いきった。
シャイデマンは次のように演説した。
「金庫をこじあけ、ピストルを突きつけて商人から金や物をとりあげる賤しい犯罪者集団にたいするたたかいは、なんら政治的な事件ではない。……ドイツ労働者は社会主義者ではあるが、追剥ではない……」とまずスパルタクスを犯罪人、強盗の群れであるかのように誹謗し、ついでほとんど名指しで、「スパルタクスの群れは稀に見る混合物である。その先頭に立っていた人物、現に立っている人物の一部は、気狂いじみた政治的観念で目が眩んでいたし、いまもそうだ」(『フォルヴェルツ』1919年1月17日)とリープクネヒト、ルクセムブルクを気狂い扱いにして、彼らの惨死が当然の報いであると暗示した。シャイデマンがこの殺害を正当防衛だとしたことは、彼がいかに強く反動将校と結合しており、暗殺をあらかじめ関知していたかを思わせる。当時、彼は殺し屋たちに30万マルクを支払ったと噂された。
これにたいして独立社会民主党の機関紙『フライハイト』は反論した。すなわちエーベルト=シャイデマン政府は[リープクネヒトとルクセムブルクとの殺害に責任がある(のに、)殺された二人の骸を前にしてあえてドイツ国民にたいする二人の責任を語り、また人殺しを呼んで、彼らに武器を与えた政府が、二人を道徳的に罪ありと強く弾劾している」(『フライバイト』1919年1月17日)。
『フライハイト』は、政府は労働者階級の圧力によってこの事件を探索し、裁判にかけると言っているが、「どんな裁判もわれわれはすこしも信頼しない」。なぜならば、この政府ほど法律を踏みにじっている政府は存在しないし、「そのうえ政府は、自分で将校やその他の反動たちを武装したので、これらにたいして無力だ」から。じじつ捜査は進捗せず、政府は真相をごまかし、おおい隠すのに懸命であった。したがって独立社会民主党は独自の調査をおこない。政府の「完全なうそ」をひとつひとつ具体的に反駁している。
政府の発表によれば、リープクネヒトは逃走しようとして兵士に背後から射たれたというが、彼は護送の自動車のなかで兵士に棍棒でなぐられて重傷を負っていて、途中くるまが故障して徒歩を強いられた。-そのこと自体、残酷かつ非実際的な取扱いだが-ときに、兵士たちに厳重に監視されてもおり、逃亡などということはまったく考えられない。そのうえ彼は「前から射たれていた」--もっとも、これについては死体解剖によっては検証されなかった、と『殺害』の著者ハンノーヴェルは注をくわえている。
ロザ・ルクセムブルクの死にかんする政府の説明も「ただのおとぎ話」にすぎない。二人が最初に連行された、近衛騎兵師団の本部のおかれたエデン・ホテルの前で、将校に励まされた兵士は自動車のなかで彼女を打ちのめした。けっしてここへ寄り集まった群衆によってどうかされたなどということはない、とホテルの客の一人が証言している。犯人は兵士ラインハルトである。ホテルの従業員も打ち倒されたルクセムブルクが失神していたのか、それともすでに死んでしまっていたのかも確認できぬほどであった、と述べている。
1月19日の『フライハイト』にはリープクネヒトの弟テオドルの次の抗議文が掲載された。
「われわれの反対にもかかわらず『社会民主党』政府は審理を……軍事裁判所に委任した。……いま訴えられているのは、軍国主義の犯罪であり、そしていかなる軍 の機関も同じ仲間である。……われわれは社会主義的=共産主義的諸党から成る特別委員会に、この事件を委ねることを要求する」。
重大な打撃を受け、1月15日以来機関紙を発行できなかったドイツ共産党(スパルタクス)はようやく2月12日にこの殺害事件にたいする態度を公けにした。
党は、第一に、市民軍のリントナーとメーリングとがリープクネヒトおよびルクセムブルクを逮捕状もなしで逮捕したことは違法であり、第二に、二人の引渡しを受けた軍参謀部は元来彼らとかかわり合うなんの権限も持たぬ、と指摘する。
そこでまず疑われることは、市民軍の二人がこの殺人について関知していたということである。そして、彼らがリープクネヒトとルクセムブルクとをエデン・ホテルに連行したことは、「最初から師団参謀部が彼らを殺そうという意図を持っていたことの証拠である」(『ディ・ロ-テ・ファーネ』1919年2月12日)。
彼らが午後9時および9時半相ついでホテルに引き渡されたときに、そのホールで一人の大尉が「二人とも今晩囗をつむらせてやる」と罵り、最初に殺人を予告した。午後10時半リープクネヒトは重装備の6人の将校と1人の兵士に伴われて、ホテルから連れ出されたが、そのとき彼らは手榴弾と安全装置をはずしたピストルを彼に示して脅かした。しかし、このとき彼らはスパルタクスの指導者を射殺しないで、棍棒で片づけようと話がきまった。騎兵のルングがすでに自動車に乗っていたリープクネヒトの頭を二度なぐりつけ、彼は意識を失って車内に伏した。エデン・ホテルはクールフュルステンダムの明るい通りに面しているのだが、自動車はわざと暗い道を通ってノイエ・ゼーのほとりにやってきた。政府の発表では車が故障したことになっているが、それはうそで、事実リープクネヒトを殺してから、車はまた走り出している。
もちろん、ここで彼が逃走を企てたというのは根も葉もないことで、彼は、ほとんど立っていられないほど精神混迷の状態で、殺人者さえも彼に歩けるかどうかと尋ねたのであったし、彼を7人の重装備の将兵が取り囲んでいたのである。彼を暗い路地につれこんで殺そうという、かねての計画どおりに、事は運ばれた。最初にここでピストルを射ったのは、フルーク=ハルトゥンク大尉である。
次はルクセムブルクの番だ。彼女がホテルの正面入口から連れ出されたとき、ルングが銃をとりなおして、彼女の頭に打撃をくわえ、彼女は地上に倒れた。ルングはさらに
頭を二度なぐりつけ、もう片がついたと思っていた。輪送指揮官のフォーゲル中尉は別にこれをとめもしなかった。
車に死体を運び込み、フォーゲルのほか3人が乗って発車した。車内でもう一度死体の頭をピストルかなにかで殴打し、フォーゲルは彼女のこめかみにピストルを当てて撃った。彼の命令により兵士ヤンシュコーは車を遠まわりさせ、人目につくのを避けた。
車が人気のない動物園の出口のあたりにきたときに、ラントヴェア運河に向かって一群の兵士が立っていたが、ここで車は止まり、彼らは屍体を受けとった。それからどうしたか。それについてはなんら調べられていない。こうしてみればすべては計画的であって、ルクセムブルクが群衆に殺されたなどという政府発表は、まっ赤な嘘にすぎない。
これらの虚偽をまことと言いくるめるために、参謀本部の新聞担当官ドクトル・グラボースキは事件の、つくりあげられた経過の記述をエデン・ホテルの支配人に渡し、これは、さらに従業員たちに右の文書を読み聞かせて、口裏を合わせた。軍はまた下手人ルングをその隊から第8軽騎兵連隊に移して、捜査を妨げた。これらの『ディ・ローテ・ファーネ』の積極的な発言にもかかわらず、軍事法廷も政府もなんら効果的な手をくだそうとはしなかった。ことに奇怪なのは、政府がすべてを軍事法廷に委ねたとして、まったく探索、審理に手を貸さなかったことである。この間ルングはすでに逃亡している。
フォーゲル中尉は目撃者がいたので、ついに、彼が屍体を運河に投げ込んだと白状し、2月22目に逮捕され、また共犯者たちも5日後に検挙されたが、彼らはモアビート刑務所内で自由に往き来していた。ルングはようやく4月半ばに逮捕されたのであった。
公判は1919年5月8日第一地方裁判所陪審法廷でひらかれた。その周辺を近衛騎兵師団が厳重に固め、街路ではパトロール隊が人々の集まるのを阻止していた。傍聴券は四、五千マルクでアメリカ人やイギリス人に売られ、傍聴席はぎっしり詰まった。被告たちは、ルングを除けばみな胸に勲章をつけ、笑いながら入廷した。
この態度からも理解されるように、犯人たちははじめからたかをくくっていたし、首席軍事法務官エアハルトも決め手になる質問を避け、ときには助け舟さえ出している感
があった。したがって、彼らがエアハルトあるいは検察官ヨルンスにたいする答弁は紋切型に政府発表を繰り返すにとどまった。
この5月8日に始まり14日に終わったベルリンの法廷で、新たに明らかにされたことはあまりない。たとえば証人パプスト大尉は、ヴィルヘルムスドルフの市民軍が「当時われわれ(近衛騎兵師団)に軍事的に隷属していた」こと、市民軍から引き渡されたリープクネヒトをかねて用意していたその写真と照会し確認したこと、ルクセムブルクを打ち殺したのはたしかにルンゲであったことなどを明らかにした。
また証人ドゥレーゲルの答弁によれば、彼女はルンゲの第一撃で「声を立てることさえなく、頭から下へ崩れ落ちた」が、3回にわたる「打撃を阻止しようと試みた者はだれもいなかった」。彼はルンゲから事件の直後20マルクを受け取った。この発言につづいてルンゲは、「リープクネヒトが引き渡されぬうちにすでに、名を名乗ろうとしない人から50マルク受領した」ことを認め、そこから20マルクをドゥレーゲル少尉に渡したが、それは[愛の贈り物]なのだと陳述した。
スパルタクスの指導者たちがいかに残酷に扱われたかは、証人たちが自動車のなかでリープクネヒトの頭から流れ出る血液が顔を染め、かたわらに坐る将校のズボンにも流れ落ちたこと、ルクセムブルクの鼻や囗から血が吹き出していたと述べていることからもうかがえるが、33歳のカトリック婦人パウリネ・バウムガルトナーはホテルにおける経過を述べたのち、断定的に「この行動はきわめて粗野であったと私は思う」と陳述した。エデン・ホテルの17歳になる給仕マクス・クルップは、ホテルの玄関前で鉄かぶとをかぶり毛皮の外套を着た兵士がリープクネヒトに棍棒の打撃をあたえたあと、ホテルに戻ってきて功を誇った、と述べ、それがルツェヴスキであったことが確証された。彼はまたベルティ大尉が「豚を撃て!」と叫んだのを聞いている。同い年の給仕ミステルスキは、将校たちがホテルで「彼らを片づけたことで満足すべきだ」と語っていた事実や、ベルティが「奴らは生きて牢獄に入りはしない」と言ったことを証言した。
ルクセムブルクをホテルから連れ出した車に乗っていた兵士ウェバーは、フォーゲルが運河の岸をしばらく走ったのち自動車を止めさせて「ここでルクセムブルクを外へ出
そう」と言い、彼をふくむ2人の兵士の手で屍体を河に棄てさせたことを明らかにし、同じ車に乗った兵士ポッペは自動車がなお空でホテルの前に止まっていたとき、「私が最初の一撃をくわえたら、相応のカネを手にすることができるだろう、とそこで言われた」が、私は「あなたがやはりおやりなさい、私は女を打ち殺すことはできない」 と答えた。この人は市民ではなく将校であったと証言した。
ホテルに駐在していた将校のひとりワルター・アルカーによれば、護送に当たった同僚の一人は、彼に「リープクネヒトはまるで濾器(こしき)のように穴だらけだった」と語った。
兵士ペシェルの妻エムマは、夫にフォン・プフルーク=ハルトゥンク大尉が500マルクを与えたと証言し、大尉もそれを認めた。エムマは「リープクネヒトが逮捕される以前のことだが、新聞に10万マルクの報酬かあろうと出ていた」ので、彼をモアピート監獄まで車で運んだ夫にたいする当然の報償と考えていた、と述べている。
当時シュパンダウにある南部砲兵工廠に勤務していた商人ブォルフに錠前工のハルトウィクが語ったところによると、なおエデン・ホテルにいる兵士ヤンシュコーは将校の圧迫が取り除かれ、家族の安全が保証されるならば、さらに証言の用意があると言う。しかし、結局のところヤンシュコーは矛盾をふくんだ中途半端な答弁をおこなったにとどまり、法務官もあまり追及しなかった。
検察官ヨルンスはその弁論のなかで、まず『フライハイト』や『ディ・ローテ・ファーネ』が政府系新聞やブルジョア新聞の「二人はいわゆるスパルタクス党の指導者であって、この党は不穏の源と見なされる、……彼らは元来死に値したのだ」というような論調を指摘し、この空気のなかで裁刊所は事態を明らかにしようとはせず、裁判喜劇を見せているだけだと暴露したことに、強い反撃をくわえた。
そして裁判は、「いかなる政治的立場によっても、また個人的な気分によっても」動かされぬと強調した。検察官は兵士ルンゲがいわば「政府の人間」であって、スパルタクスにたいしひどく憤っていたのだ、と彼をほとんど擁護し、さらに将校たちについては、「ルンゲの行動とはなんの関係もなく、……まして彼らがルンゲをそそのかして行動させたようなことはない」と断定した。ついで、「たぶんリープクネヒトは逃亡を試みたのだ」と述べて、完全に政府および反動将校の立場に立つことを明白にした。
ルクセムブルクについては、彼は、次のように論じている。「彼女がエデン・ホテルから外に出るまでは、ルクセムブルクにたいする不当な扱いはおこなわれなかった、と
私はまたここでも確認する。……他方、ルンゲがその棍棒で彼女に打撃をくわえて死に至らしめたことを証明できないように、私には思える」。したがって、彼にもフォーゲル中尉にも「処罰されるべき行動の未遂のゆえになら判決をくだすことができよう」。
検察官はルンゲについては当時その精神状態が正常でなかったこと、将校らについては「これまで非難の余地のない指揮をおこなってきたこと」、「彼らが戦時中をとおして武器をとっていたこと」、また戦争あるいは革命によって道徳観に動揺があったことなどを考慮に入れて、判決をくだすべきだとした。こうして彼は弁護士の役割を果たしたのである。
判決は次のとおりであった。
騎兵ルンゲ、殺人未遂により懲役二年。
リープマン予備役中尉、加害者に便宜を計ったことにより重営倉6週間。
フォーゲル中尉、越権行為と屍体遺棄により2年4ヵ月の懲役。
プフルーク=ハルトゥンク大尉ほか5人は無罪。
かくして殺人者なしの殺人という奇妙な芝居を軍事法廷は演じたのであった。
この欺瞞にたいして『フライハイト』は、ただちに階級裁判の本質を暴言する論陣を張ったが、『フランクフルター・ツァイトゥンク』さえも大多数の犯人が証拠不十分で無罪となり、しから殺人犯として処罰された者が一人もいない事実を指摘して、裁判は「法的な根拠からも、政治的な理由からも、まったく満足のいかぬものだ」と適切に批判し、ドイツ社会民主党機関紙『フォルヴェルツ』が「裁判が事件の全貌を明らかにしなかったのは、検察当局のせいではなく、周囲の事情によるのだ」と軍事裁判所を擁護した一文を転載して、暗にその曖味な態度を嘲笑した。
犯人たちは政府をあざ笑うような行動に出た。フォーゲル中尉はヨルンスの了解のもとに、近衛騎兵師団の手でモアビート監獄から連れ出され、クルト・ヴェルゼン名儀の
旅券をもらって5月17日にはオランダへ飛んだ。兵士ヤンシュコーは証人として被告をまもった代償として、彼の自動車を師団にいい値で買ってもらった。しかも、フォー
ゲルは翌年12月23日恩赦を受けた。
6月4日にルクセムブルクの屍体がラントヴェア運河で発見され、屍体検視所に運ばれたときも、ノスケの陸軍省の書類を手にした将校がむりやり屍体をツォッセン練兵場へ運び去った。軍事法務官エアハルトに屍体発見が伝えられたのは、その後のことであった。彼の抗議にたいしてノスケは、「政治的デモンストレーションを予防しようとしたのだ」と答えたが、ノスケは黒幕の背後に隠れていることが許されなくなっていたのである。屍体は身長や年齢からようやくルクセムブルクと推定できた。解剖の結果、頭蓋は意外と損傷がなかったが、銃撃のあとは額の左側に明らかに認められた。屍体は6月13日に埋葬された。
1921年1月9日の『フライハイト』は、1920年1月6日付の殺人犯ルンゲの手紙を公表した。これによると、彼は将校たちからスパルタクスの二人の指導者の殺害を命ぜられ、そのとき多額の金をもらったばかりでなく、裁判になっても牢屋にはいらなくともすむと言われたので、殺人を実行し、裁判では検察官ヨルンスの要請により一人ですべての罪をかぶったが、ヨルンスも将校たちも約束を果たさなかった。そこで彼は自分が「人殺しの盲目の道具」にされたことを悟り、手記を公表する決意をしたのであった。ちなみにヨルンスは罪をすべてルンゲにかぶせ、かつフォーゲル中尉を無事逃亡させた功により、事件のほとぼりのさめた1928年初めに抜擢を受けて、最高検察庁入りをしたのであった(彼は第三帝国において人民裁判所検事となり、退官にさいしてヒトラーからとくに功績をたたえられた)。
この昇進にたいし雑誌『ダス・ターゲプフ』が疑念を表明したため、ヨルンスはこれを誹謗のゆえをもって告訴し、1929年4月17日から裁判がベルリン陪審裁判所でひらかれたが、11919年1月の事件にかんしてはからずもさまざまの新事実が現われ、リープクネヒト、ルクセムブルク殺害がまったく計画的に遂行されたるのであることを、あらためて確認する結果となった。
たとえば独立社会民主党のウェーゲマンは、当時、労働者兵士協議会執行委員会のメンバーとして事件審理委員会に属したが、このような裁判喜劇に立ち会うことはわれわれの良心に反する」と述べて脱退した。彼は、当時ノスケが執行委員会を家宅捜索して、委員会が収集した事件の資料を自動車に積み込んで持ち去ったことを証言した。
共産党から社会民主党へ移ったパウル・レヴィもまた、ヨルンスが、事件当日護送の兵士たちが「あいつはもう片づけた、もう泳いでいるよ」などとルクセムブルクの屍体遺棄についてしゃべっているのを聞き知っていながら、しかも裁判所同僚の要請があったにもかかわらず、護送指揮官フォーゲル中尉の逮捕を拒否したこと、ようやく2月22日にプロイセン州法務大臣の圧力などもあってこの逮捕に踏み切ったヨルンスは、フォーゲルに外部の人物とも自由に話し合う機会を与えたこと、そして、そのほか彼がことごとに裁判の進行を妨げ、犯行をもみ消すために骨折ったことなどを、明らかにした。それは、まさに犯人ルンゲが1920年1月13日に帝国軍事裁判所長官あての文言で述べたように、「裁判は犯罪事実を……闇に葬るためにある」のかと疑わざるをえない。この点は後に社会民主党さえも認めて、裁判官は「殺人者を庇護」したと書いた。
レヴィの弁論によってなお判明した重大な事実は、ピークが同じ公判においてやはり触れているが、ルンゲがリープクネヒトとルクセムブルクのみならず、他の「『ローテ・
ファーネ』の編集者〔すなわちピーク〕をエデン・ホテルにおいて射殺すべき……命令を受けていた」ことである。
しかしピークはその大胆な行動によって辛うじて死の運命をまぬかれたのであった。
レヴィは最後に、近衛騎兵師団参謀部の責任者としてホテルに駐留していたパプスト大尉が全殺人計画を具体的に練り上げ、具体化したにもかかわらず、なんら裁判所によって追及されなかったことに注意をうながした。そして、「ヨルンス氏の努力のおかげでではなく、彼の骨折りにもかかわらず。われわれが今日明らかにしうる」ことは、リ
ープクネヒトの死骸を乗せた車が救護見張所に乗りつけたのは、1月15日の夜11時15分であり。輪送指揮官フオン・プフルーク=ハルトゥンクはただちにホテルにいるパプスト大尉に報告しているが、見張所はホテルのすぐ前なので、パプストが殺害の事実を11時20分には知っていたとされる。ルクセムブルクが運河の橋のところまで連行されたのは12時数分まえであるから、迂回した事実を考慮しても、ホテルを車が出たのは早くとも11時45分、したがってリープクネヒト殺害の報がパプストに伝えられてから、なおすくなくとも20分はルクセムブルクはホテルに留まっていたことになる。彼女が殺されたことにたいして、その護送を指令したパプストが当然責任を負わねばならない。これらのことが明白である。
この裁判をつうじて承認されたのは、「ノスケ氏は彼の将校たちの捕虜であったこと」であり、より一般的に言えば、ドイツ社会民主党多数派は君主主義的軍国主義的反動
将校の影響下に立っていたことである。
この政治的殺害の後日譚の一つは、ルンゲがヴィルヘルム・ルドルフと名を変えてドイツ国家社会主義労働党にはいり、かつての功績にたいし、またそのゆえに「共産党の側から長期にわたってひきつづき追及された」償いとして6,000マルクを受け取ったことである。ルンゲは、自分でも認めているように、頭がすこし変になっていた。彼はその間かつての上官を金欲しさに脅迫したとも言われる。プロイセン政府はまたオランダに逃れていたフォーゲル中尉にたいしても、格別の配慮をはらった。
これに反してナチスはベルリン=フリードリヒスフェルトにあったリープクネヒトの記念碑を毀し、墓をならしてしまった。戦後、彼とルクセムブルクの墓所はドイツ社会主義統一党の手によって修復されたが、西ドイツおよび西ベルリン(まさにここで殺されたのだが)には彼らを記念すべきなにものもなく、彼らのかつて属した党、社会民主党申込その名を想い出すことさえ好まないように見える。
もっとも、さきごろパプスト大尉が西ドイツの一雑諳記者と会談したさい、彼が今日なおドイツ連邦共和国政府から年金を受けている事実を明らかにしたのみならず、首領ノスケが1919年当時この社会民主党多数派の指導者であった「彼の手に当分のあいだずっしりとこたえるような金をくれた」と告白している。ところでノスケ自身は、第二次世界戦争後、自分はナチの犠牲者でめったとずうずうしくも名乗りでた。しかし、彼がナチ親衛隊の宿舎に「逮捕」(招待)されていたのは、れっきとしたナチのスパイとして反フアッシヨ抵抗連動について報告するためであった(以上主としてハノーヴァ=ドゥリュック/ハノーヴア、前掲書による)。
さてドイツ共産党中央部は、2人の最高指導者をふくむ42人の革命家の死によって血塗られたベルリン労働者の闘争から、「労働者階級の大部分がいまだ社会愛国主義の裏切者の影響から脱け出していなかった」事実を教訓とし、「時期尚早の武装蜂起は、本隊が救援に急ぎ到着しないうちに、プロレタリアートの前衛に打撃をくわえる可能性を、エーベルトとシャイデマンの政府に与えるのみであろう」(『ドイツ労働運動史資料集』第2部第3巻。86ページ)と警告した。
しかしながら、党中央は、プロレタリアートの解放のためにたたかってきたリープクネヒトとルクセムブルクの死を無為に看過することができようか、とベルリン労働者に問いかけ、「その血管に血が流れているならば、すべてのプロレタリアはこの日こそ街頭に出て、武器を持たずに平和的に」行進せよと呼びかけ、
「資本家を守るエーベルト=シャイデマン政府打倒!」
「その手先、カイゼルの将軍と将校とを倒せ!」
「プロレタリアを殺害したこの政府を支持する労兵協議会を解散せよ!」
「ブルジョアジーとその下僕である社会愛国主義者との国民議会を倒せ!」
「すべての権力を階級意識ある労働者・兵士協議会に!」
(同上、87ページ)などのスローガンを掲げた。
1月初めからベルリンのみならず、ルール地方、ライプツィヒ、ドレスデン、ニュルンベルク、ハムブルク、シュトゥットガルト、ブラウンシュワイク、ハレその他の都市において、政治的なスローガンを掲げた大衆集会やストライキが敢行された。ブレーメンにおいては、エーベルト政府とブルジョアジーとのテロルに抗議する行動が、共産主義者の指導下におこなわれ、1月10日にはすでに権力を手中にする協議会政府が樹立されていた。これらの多くの都市においては、ドイツ共産党の2人の最高指導者にたいする殺害に抗議して、1月17、18両目さまざまの運動がおこなわれた。しかし、各地の行動はばらばらに孤立していたので、頽勢を盛り返すことはついにできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー―――-------------------------------――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注① ノスケは、ここで新聞社が依然としてスパルタクス団に占領されていたと不服を言っているが、これは歴史的辜実に反する。リープクネヒトらは『ディ・ローテ・ファーネ』さえ安全に刊行できなかったのだ。この点でも政府と交渉したのは独立社会民主党幹部で、彼らはカネでその支配下の新聞を取引の材料とした。
注② ノスケの判断によると、ラインハルトは卓越した軍人で、彼がベルリン司令官になることを兵士たちに拒否されたのち、かつての部下であった下士官をモアビート兵営に集め、彼の背後になったドイツ国民主義者の指示のもとに、二個連隊と一大隊とを指揮するにいたった。もっとも、ノスケによれば、ベルリンを救ったのは彼ではなく、ノスケが将校に推した下士官ズクペで、これが宰相府を守り抜いたのだという(ノスケ『キールからカップまで』70ページ)。
注③ 旧軍人の徹底的粛清なくしては、革命が成功しえないことを、一月闘争の諸経験は教えている。ちなみに、ドイツ参謀本部はかつて解消されはしなかったが、 この闘争にさいしてノスケが最も信頼し絶えず側近においたのは、参謀少佐フォン・ハムマーシュタインとフォン・シュトックハウゼンという二人の貴族出身将校であった。またのちにロザ・ルクセムブルク殺害犯人として知られた近衛騎兵師団の参謀パプスト大尉が ベルリンに来てホフマン中将の代理をつとめるにいたったことも、看過できない。