前に紹介したMTBで登って下って来るコース、昨日はウォーキングで挑戦してみた。
登りは約2キロだが、ジョギングで攻略、あとは時速5~6キロペースで戻ってきた。所要時間2時間であった。
最高点まで行ってくると全行程14キロだが、次回の楽しみにしておく。
さすが季節の変わり目か、走ったあと歩行すると汗が急激に冷えていく。みちすがら田んぼの稲穂の垂れ具合が深まってきた。走りながらトンボが伴走してくれる。秋である。
前に紹介したMTBで登って下って来るコース、昨日はウォーキングで挑戦してみた。
登りは約2キロだが、ジョギングで攻略、あとは時速5~6キロペースで戻ってきた。所要時間2時間であった。
最高点まで行ってくると全行程14キロだが、次回の楽しみにしておく。
さすが季節の変わり目か、走ったあと歩行すると汗が急激に冷えていく。みちすがら田んぼの稲穂の垂れ具合が深まってきた。走りながらトンボが伴走してくれる。秋である。
1か月ほど前になるか、友人が某所で採取したニホンミツバチの巣板をお土産に持ってきた。出処を聴いてみたが口を割らない。養蜂によるものではなく、野生の巣板を見つけてきたようである。抗生物質抜きの自然食品である。
教えられたとおり、ボウルの中で砕いて、濾し布につつんで何度か絞り、さらにコーヒーのドリッバーに濾紙を敷いて三日三晩重力を信頼して採蜜した。熱湯殺菌した235gのジャム瓶におさめた。
年齢がしれるのをはばからず表現すると「きれいな鼈甲色」である。
絞りかすは、さらに蜜蠟をとることができるのだが、後の祭り、資源は庭のコンポストに投入してしまった。
でもおかげさまで、ミツバチについていろいろ勉強する機会になった。
しばらく書きかけ放置していたので、以下そこを斟酌してほしい。
おや八字熟語になるんじゃないか。というのがタイトル。
肝心のプラクティスの方は、輪行が8月28日が最後でサボり気味。歩行は、久しぶりの9月11日も残夏の日照りの昼下がり、約束時間が迫っていたので標準コースはできなかったが、それでも6.4キロをきっかり64分で歩いた。継続は力と、体の反応が教えてくれる。仙台この夏はご存知の通りの猛暑と残暑。歩いている人はほとんどいない時間帯だ。
忘れてならないもの。9月11日は震災から1年6か月だ。
復旧難行復興苦行
今の状況を見ると 「案の定」ということばがぴったりだ。マスコミが取り上げる「復興の兆し」の陰で、被災者をめぐる仕事と暮らしの現在と将来、およびその抱える「心」の諸相をめぐって、この国が今抱えている様々な問題、矛盾が阻害要因として立ちはだかっているように思われて仕方がない。弱者のための進路の主軸無きこの国はその固有のあいまいさを繰り返すのだろうか。
陋宅のつつましい門扉を少しく彩れれば、とホームセンターで二尺ほどのサルスベリを購入したのは3年前だったか。
門扉内側の向かって右手に植えてみた。詳しくは何も調べていないが、矮性種?なのか、育て方なのか、いま五尺ほどである。一日中陽が当たるわけではないので、同類が今を盛りと咲き誇っている中で、ようやく一昨日開花した。夏の終わりを告げる味のある花だと思っている。
3年前友人からもらった「レンゲショウマ」の苗、場所を変えたり土を工夫したり日よけをしたり、3年間「手塩にかけ」てきたつもりだった。それが今朝いじらしく開花していた。
この花との出会いは、かつて奥多摩の山を日帰りで何度も訪れた折、ある山の下山時の北斜面のうすくらがりの中に楚々として咲いていた。その佇まいに感激したものだった。
今咲く花ではないのだが、小生への惻隠の情から咲いてくれたのかもしれない。この苗が昨年の震災の洗礼を受けながらも、生命力を保ってきたことに重ねて感動する。
きっと「余計な世話をしなければもっと早くまともに咲いたのに」と胸中抱いているのかもしれない。
残暑と秋の交錯したある朝のことであった。
11歳、8歳、6歳、3歳の孫を相手に8月5日からくたくたの毎日で、幸い?下二人は16日帰京したが上二人は嫁が迎えに来る22日までお付き合いだ。
僕が少し大人になったのか、はたまた孫全員が皆で「会話」できるレベルに成長したせいかは不明だが、これまでの夏にない充実した時間となったことは間違いないだろう。
おとも兼運転手で連日!出かけたのは、仙台七夕、みちのく湖畔公園、大亀山森林公園、仙台アンパンマンミュージアム、蔵王ハートランド、ピュアハートキッズランド。それに4人が期待している恒例の流しそうめん&BBQを陋宅の狭い庭先で汗だくになって好評のうちに執り行うことができた。
そして、二番目が、鳥の巣箱を作りたいといいだしたものだ。
悪戦苦闘しながら、姉妹で交代でやすり、釘打ち、ペンキ塗りなどやって完成したものだ。
というと、いろいろなアクションが考えられそうだけど、僕の場合は、6年前購入したMTBを駆って、近くの標高179mほどの団地に「山登り」に出かけている。
自宅は標高12m、10分くらいで「登山口」だ。そこは26m、そこから標高159mまでひたすら登っていく。途中足を地につけない。24段変速の1-8パタンでこいでいく。
159mからは下り、風が気持ちいい。140mまで下ってそこから178mの最高点目指してまた登っていく。この春熊が出没したという団地がちょうど左手山一つ越えたところにあり、緊張する。
帰りはいっきょに、「下山口」48mまで下っていく。ディスクブレーキに助けられながら、クルマを気にしながら、それでも受ける風の心地よさは何物にも代えがたい。
所要時間は、わき目も振らずであるから、67分だ。ということで、ウォーキングはごぶさたして、過酷?な輪行にはまっている。
朝6時起きだしたら、遠雷がけっこう耳にあたる。曇天で午前中いっぱい雷が来る気配があったが、どうやら収まった3時過ぎウォーキングにでかけた。日も差してきて湿度も結構なものだ。震災から1年4か月だが、まだ傷んだ歩道の再舗装など至る所でやっている。ちょうど汗もかきだした頃、その現場の一つにさしかかった。道路誘導の若者が親しげに、「こちら通れます」と声をかけてきて、「昨日僕も歩いたんですが暑かったですね」と人懐っこい。「熱中症に気を付けて」とひとこと言われてあとにした。背中に彼の視線を感じながらふと思ったが、会話内容、しぐさからして、どうもオフィスのデスクに座って仕事しているようなタイプにみえる。厳しい現実を感じた。
そんなことを考えてたら、1978年にロンドンのロンドン塔の近くでこれまた道路工事していた40代の労働者の凛々しい顔つきにびっくりしたことを思い出した。確か当時「英国病」の時代だったか、などと、30数年の時の流れに頭の血液が温度を上げたようだ。ところが、英国の彼氏、確か誰かに似ていたなあ、と考え始めたのが運のつき、なかなか名前が出てこない。3キロ以上思案しながら歩いて、ようやく回線がつながった。チャールトン・ヘストンだ。晩年は銃社会の維持のためにあこぎなことをしたようだが、とにかく似ていたのだ。
手許の赤茶けた岩波文庫「般若心経 金剛般若経」は、おそらく40年前に購入したと思われるが、時は流れ、少し真面目に般若心経に「向かった」のは10年ほど前だったろうか。そのころ、ある仏事のなかでお経の一つとして般若心経を聞いたのだが、漢文を音読みしながら一種の旋律を以って 「読経」するわけである。
そのとき感じたのは、玄奘が漢訳した般若心経(文庫本の底本)は、本来サンスクリットで書かれたもので、彼のその漢訳がはたして原典の「真実」を損なわずに存在しているのだろうか、ということであった。たとえば、「卒塔婆」は、stûpaの音訳であり、語義につながるのは「塔」字くらいのようである。ここまで考えてきて、思わず「万葉仮名」を思い出してしまう。
また、これらに関連して、日本特有の文化ともいえる「詩吟」について考えてしまう。漢詩の日本語読みに節をつけ、特有のヴァーチャルな世界を「創造」している。
漢字という表意文字にサンスクリットが置換されること(まず音の近似から選択し、次いで類義のフィルターで熟語によりふさわしい漢語が決まる)という過程を通して、漢字民族の認識にきわめて規定的要素が影響しないだろうか。そしてそれは、「読経」に酔耽(それはそれで目的を果たしているかもしれない。)する状況に行きつくように思える。
ということで、次が文庫本の漢訳内容である。
觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色卽是空空卽是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色聲香味觸法無限界乃至無意識界無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離〔一切〕顚倒夢想究竟涅槃三世諸佛依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神咒是大明咒是無上咒是無等々咒能除一切苦眞實不虛故説般若波羅蜜多咒卽説咒日掲帝掲帝般羅掲帝般羅僧掲帝菩提僧莎訶般若波羅蜜多心経
さらに 同本の解題に、サンスクリット本のラテン文字表記文が載っていたのでタイプしてみた。表記用のアクセント記号等は再現できなかったので、下線や該当文字を色分けする便法をとった。
とどのつまり、片仮名読みでもいいから、このサンスクリットを読誦しながら、各々の語意に思いを致す........
そんな宗教的アプローチもあってもいいな、と思ったことなのだ。
震災後、以前にも増してラジオを聴く機会が増えた。テレビよりも情報のゲートウェイが限られているので、知らずに「集中」するのである。
原発の再稼働についてある朝、「(政府は)対応を慎重に進めている」とのアナウンス。何気なく聴くと、「慎重に進めている」が、さも客観的な肯定的述語として耳に響いてくる。そうではあるまい。「慎重に」進めているといっているのは、政府であり、正確には「政府は対応を慎重に進めている、といっている」とすべきなのではないか。
ことほど左様に、最近、日本放送協会のニュースのプレゼン手法が気になってしかたがない。それでも、世間に「公共性」を醸し出させている背景には、噴飯ものの民放の体たらくに比較して、「日本人特有のまだまし安堵性」の意識風土が存在することかもしれない。
昨日夕方東京の孫(6歳男、3歳女)から電話あり、8月5日から16日まで「お世話になります」とのこと。12日間である。そして追い打ちをかけるように、千葉の孫(10歳女、7歳女)から手紙が届いた。夏休み行くことになりました。そして、「朝食はまかせてください。」とのことである。昨夏のハムエッグ満足しなかったようでリヴェンジするらしい。
さあて、「工程表」をどう作ろうか。頭が痛い。
そういえば、どこかが大騒ぎした「工程表」はいったいどうなっているのだろう。「工程管理」なき軽薄なシロモノは、今の実態を鏡にして、その「お里」を証明している。
この7日間で4回32Kmのウォーキングをやったことから、きょう午後2時からの日課で、スタートから走ってみた。1Kmまではきつかったが、その後は慣れか、順調にステップを刻んだ。しかしである。5Kmくらいで大腿四頭筋が疼痛を訴えてきた。そこでやむなく、いつもの時速5.5Kmから6.0Km程度の歩行に切り替えた。全行程9.2Kmの最後の2Kmでまた走り始めた。
ウォーキングとジョギングの違い、体験的に少しわかったような気がした。
電力会社の宿命は、電力を逓増的に売り続けることである。ということは、オール電化などという、さも環境配慮のようにみえる営業戦略も本質はこの宿命の嫡男子なのだ。
だからボクはこの電力会社の営業戦略にはのらない、と言いたいところだが、ささやかな抵抗の範囲でいる。調理エネルギーは都市ガスは使わないでプロパンガス、これはあの震災後のライフラインダウン期間有効性が実証された。暖房は灯油である。しかし、これはFF暖房で通電していないと意味をなさない。石油ストーブを買うか、迷うところだ。風呂は家を建ててからずっと灯油ボイラーで沸かしてきた。でもメンテが結構大変で、20年近く使って、電気温水器にしてしまった。もっとも灯油ボイラー、着火は電気がないと用を足さない。まあこの程度の、逆らう輩なのだが。
小型液晶板で太陽光から内蔵の充電池に充電し照明の用を足すために、2年前1本397円で10本購入した。土に突き刺して使うやつである。うち、2本をトイレ前と被介護者の部屋をでたところにおいている(画像)。8本は外で門扉や玄関へのアプローチに使った。これはこれまでずーとそこそこ夜間に用を足している。室内は、以前はコンセントに差し込む人感知用の足元照明使っていた。もっとも充電池のキャパは350mAhだったので、1000mAhのものに替えた。朝、つげの植え込みに突き刺して日光浴させ、夕方取り込むわけである。4~5日に1回は充電池を充電しなければならないが、充電器はSONYのBCG-34HREを使っている。単三、単四いずれでも4本充電できる。また、震災前から家内と携帯小型ラジオを使っている。震災後の平時はもっぱらラジオ深夜便のサプライヤーになっているが、これも充電池を使っている。とりとめない節電の話である。
今朝(6月27日)4時に起きた。テレビの予告で、「スペイン・ポルトガル戦が6月27日深夜3時30分から」とあったので、睡魔を引きずりながら起きたわけである。ところが、やっていないのだ!!!
正確には、<6月28日午前3時30分>である。なぜ、こう表記しないのか。問題は「深夜」である。これが付くと、日付が「文学的な」表現となる。つまり、日を越すのだ。ところで、「深夜」の定義は、労働基準法では午後10時から翌朝5時までとのこととなっている。例外として、午後11時から6時までというのもあるようだが。ところが、「某月某日深夜10時」と表記するのか寡聞にしてそれは知らない。こうなると、その日を越えた翌朝までの時間は深夜と付けて表記するようである。
知らない小生が愚かなのか、しかしこの恨みは決して浅くはないのだ。
先日学生時代の寮サークルの同窓会(といっても、おおよそ40年以上の歴史からして案内対象を絞っている、今回は学年的にはのべ7学年に及ぶ)が、信州の温泉であり、出かけてきた。僕の学年だと45年くらい経つことになる、星霜ものともせずよく集まるものだと感心する。もっともこの20年間は、五輪年開催になっていて、まあ皆勤であれば、4年ぶりということになる。「変わらないね」という声をかけてくれるのは、成長しないということではなく、若いねという意味だと素直に受けて満足するのが精神衛生上有効であろう。40人集まった、大したものである。一番びっくりしたのは、同学年で当時おとなしく、口数の少なかったF君が、快活で話好きな高齢者に変身していたことだった。彼とはほとんどが、45年ぶりに劇的再開である。午前1時まで懐古談に花が咲いた。翌日は、就労時代の親友を訪ねて名古屋まで脚を伸ばし、台風4号の後を追って帰ってきた。
初めは電車で行くつもりだったが、信州から名古屋までが面倒くさく感じて、一人でクルマで行くことにした。信州へは6:30出発、かなりな雨に叩かれながら、北関東道に入って高崎からいったん南下、上信越道経由ですっかり雨が上がって蒸し暑くなった軽井沢を過ぎて10:50には旅館に着いた。翌日は9:05に旅館を出て中央道経由で12:50には名古屋のホテルに無事着くことができた。中央道の道路の傷み具合が気になった。友人とは7年ぶりだが悠々自適、趣味の世界を楽しんでいるようだった。台風で友人の電車が止まらないか気にしながら、4時間以上飲み、再会を約して別れた。
さて酔った頭で翌朝どのルートをとるか検討し、台風のコースから離れており、交通量が、東名や中央よりも少ないと予想される東海北陸道を通ることにした。他コースより50Kmほど長いが問題は時間の勝負だ。ネットの所要時間9時間余とあったので、夕方までに仙台につかなきゃならなかったので、6:00ホテル出発、途中給油2回休憩で強風が吹いていた日本海沿いを緊張を持続しながら走った。予想をはるかに超える「すき具合」のせいか、13:15無事生還した。
ささやかな命の洗濯であった。