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疑礙集注(ぎげしっちゅう)

「礙り」を「疑い」、そして「問う」こと。

break not only sanctuary but asylum.

聴く力

2013-04-19 13:20:34 | Weblog

こんなタイトルの新書が出たのか出ないのか。

どうでもいいが、やたら「力(ちから)」を付けて売りたがる昨今だ。

「力」がなければ、生きていけないかのごとくである。

ある意味では「弱肉強食」の1点への投影ではないかと思うのは考えすぎなのか。

今朝、珈琲を淹れながらラジオ(昔日、「わちさんぺい」の漫画では「いぬあっちいけー」とバルンされていた某マスコミである)を聴いていたら、大分の男性からのたよりで、宮城県(詳しくは大河原・船岡間の白石川畔)の「ひとめ千本櫻」が(ネーションワイド)でこの春話題になったが、88歳の叔母が70年前大河原に住んでいて、「シラカワ」(アナウンサーは間違いなくこう発音した)の女子高校に通っていた、との内容だった。

大河原から福島県それも南端の白河まで「汽車通学」するのは不可能ではないが、webの路線ルートアプリで調べたら現在の在来線利用で220分かかるそうである。これは現実的なデータにもとる。

ということで、ぼくの「聴く力」は「シロイシ(白石)」の誤り(それも投稿者なのかアナウンサーなのか不明だが)だというOUTPUTを信号した。

ちなみに白石へは現在ではあるが在来線で13分?である。

もし投稿者が勘違いなりで誤っていたとしたら、それに対し一顧だにしない、このマスコミの「力」にあまりにも「寂寥」を感じた次第である。

「白河以北一山百文」

「がんばろう東北」などと言い続けて2年余、しかし、今もってこの「クニ」の深層にあるものの真核は、これである。あまりにも「遠い」「鄙びた」土地、それが東北なのだろうか。これに似た?論調がこの3月11日某紙の編集者に見られたが、彼女はそれを「戦後」と規定していた。それも卓見だとおもったが、ぼくは、より遠く「有史以来」と規定したいものである。

とりあえず「書く力」の貧困さを恥じらいながら筆をおく。

 

 


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