こんなタイトルの新書が出たのか出ないのか。
どうでもいいが、やたら「力(ちから)」を付けて売りたがる昨今だ。
「力」がなければ、生きていけないかのごとくである。
ある意味では「弱肉強食」の1点への投影ではないかと思うのは考えすぎなのか。
今朝、珈琲を淹れながらラジオ(昔日、「わちさんぺい」の漫画では「いぬあっちいけー」とバルンされていた某マスコミである)を聴いていたら、大分の男性からのたよりで、宮城県(詳しくは大河原・船岡間の白石川畔)の「ひとめ千本櫻」が(ネーションワイド)でこの春話題になったが、88歳の叔母が70年前大河原に住んでいて、「シラカワ」(アナウンサーは間違いなくこう発音した)の女子高校に通っていた、との内容だった。
大河原から福島県それも南端の白河まで「汽車通学」するのは不可能ではないが、webの路線ルートアプリで調べたら現在の在来線利用で220分かかるそうである。これは現実的なデータにもとる。
ということで、ぼくの「聴く力」は「シロイシ(白石)」の誤り(それも投稿者なのかアナウンサーなのか不明だが)だというOUTPUTを信号した。
ちなみに白石へは現在ではあるが在来線で13分?である。
もし投稿者が勘違いなりで誤っていたとしたら、それに対し一顧だにしない、このマスコミの「力」にあまりにも「寂寥」を感じた次第である。
「白河以北一山百文」
「がんばろう東北」などと言い続けて2年余、しかし、今もってこの「クニ」の深層にあるものの真核は、これである。あまりにも「遠い」「鄙びた」土地、それが東北なのだろうか。これに似た?論調がこの3月11日某紙の編集者に見られたが、彼女はそれを「戦後」と規定していた。それも卓見だとおもったが、ぼくは、より遠く「有史以来」と規定したいものである。
とりあえず「書く力」の貧困さを恥じらいながら筆をおく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます