すぐ近くにある世界:野鳥,昆虫,航空機などの写真

都市部の近隣でも身近で見られる野鳥を中心に、
捏造(餌付け、ヤラセ)のない「本当の世界」の
写真を載せています。

ミコアイサ|ふつ~、並、最低限 x x x とはいえ...

2023年04月01日 | 野鳥・鳥類
水鳥は、 見られる殆どの時間は、 浮いているだけ、泳いでいるだけ、のようなもの。
それ以上の“特別な何か”があるシーンは、 そう滅多には逢えないから特別なわけで、 そうそう都合良くは写せないのが必然で...





鳥写真では、 特に何かが起きる期待はない平凡な状況を 用途はないとわかりながらシャッターを切っているのは 多くあること。
「こんなのを写しても、 使えるような写真にはならないですけどね...」
・・・、 経験的に、 正反対に取り違えられるのが まぁ とてもとても多いので、 一応・・・
これは、 何でも闇雲に延々と連写し続けていて『使えるコマがあっても ほんの一部だけ』なのとは、 根本的に違うもののこと。
もちろん、 鳥を構図内に入れられない、でもないのだが、 自称『世界屈指の超絶テクニック』の残念自慢さんほど これが定番。
ご勝手に ご自身を祀り上げるにはご都合が良い “撮影に『成功』できるなんて期待できない”と聞こえてしまうようで x x x

超々初歩も修めないままでは、 写真の価値は ありがたがられる種名の威光に縋るしかないだけが全てでいるのが 類型。
だから、 ありがたがられる各種の情報を訊き回って 一瞬でも先に駆けつけるのを一律一斉に競い合う繰り返しだけに終始しがち。
そして、 種名を叫んで“証拠写真”を見せられさえすれば、 もう目的は完遂。
『鳥が写っている』級の 僅かすぎる単語だけでの短文が当てはまりさえすれば 撮影に『成功』した満願成就でいられる 言葉遊び...
『鳥を写す』ことに『成功』したから もう『全てを知り尽くして 全てを極めきった』と証明し合っていられる、 お幸せな世界観...

対話AIのような機械なら、 「現実」を見ることも知ることもできないから、 他者の文言にぶら下がるのを重ねるしかできない。
類似性で拾った文言から 多く称される寄せ集めを なんとなくそれっぽく並べた『知ったかぶりの言葉遊び』といったところ?
それは、 「現実」を見られる“人”が物事を判断して理解する“知能”とは別物... のはずなのだが・・・
「現実」は、 称される文言の多数決で測れるとは限らない。
多数が『優れている』と自称しているのと横並びなら、 それこそが 誰にでもできる『平易平凡』の証明そのものなのに・・・??





視覚的な評価で “ただ写っているだけ”の「平凡な写真」というのは、 形、光、背景、...多面の複合が 幅広く充分に揃ったもの。
それが写せるのは、 状況全体の中で見れば 僅かしかない、 空間的にも 時間的にも ピンポイントの組み合わせが揃った瞬間だけ。
だから、 鳥写真の極致のつもりで 華々しい文言での盛大な自慢で飾りつけて見せ回られがちなものでもあり。

前記事までの幾つかとも繋がりつつ・・・
写真は、 現にある状況しか写せないもので、 動きで変化していく中の瞬間は 実際に見えてからカメラを構えたのでは 写せない。
用途がなくても写すのは、 体裁が整うタイミングを なるべく少ないコマ数で狙い撃ちした精度を確認する ゲームのような感覚。
体裁良く捉えられていても、 無駄なコマを多く使っているのでは、 状況が見えていない証明の 残念ポイント。
もちろん、 『○○が△△している』式で文言に置き換えて“いかにも”な単語を叫べさえすれば喜ぶ言葉遊びゲームではない。

そして、 これは、 自然の3次元空間での、 様々に変化する“まだ起きていない状況”に対応する リアル超多次元ゲーム。
無思考な偶然で立った場所から カメラ操作だけの3D映像シューティングとしてしかプレイできないのが ありがちだが・・・
与えられる状況を より効果が高く活かせるように行動できるのも プレイ要素。
それには、 写真の知識と技術も、 自分の行動でも状況が変わる鳥への“接し方”の知識と実践できる技術も、の複合が必要。
だから、 鳥がいる所に後から割り込んで追い散らして、 周りを巻き添えにしてまで わざわざ自爆し続ける迷惑さんも 定番で・・・
でも、 それを適切にできるのは、 ただ写ってさえいれば『成功』でいられるのではない意識があれば、 必然に必須の たかが基礎。

初歩を修めていれば 「できて当然」前提の平常テンションで、 仮に写し逃しても悔やむこともなくての 軽~いお遊びでの残物... も、 他方では 自身が元凶で滅多に手にできないのが 極致の『成功』に見えて 超~ぉハイテンションの狂喜乱舞で自慢...
鳥写真の情景は、 超々初歩の有無で この大差になるもの。
「できて当然」の人は、 軽微な減点を 自嘲でボヤいたりしても、 状況なりの最良に写せたところで 喜んだりはしない。
それが、 自身のレベルが低すぎると、 周りは 誰も一度すら成功できないほどものこと、と信じて 優越感に満たされていられる。

真っ先に ありがたがられる種類に群がるのは、 写すニーズが“話題性が高いネタを手早く作る”だけなら 安直に発想するだろう。
でも、 話題に挙げる口実に使えさえすれば目的達成...だけではない、 写真自体への欲があるなら・・・
まして、 もし、 将来性では より向上した鳥写真に進んでいきたい『つもり』でいるなら・・・
それは、 どんな些細なことでも“何かをできるようになった経験”があるなら 陥るとは考え難い 稚拙な発想。
その“何か”は、 幼児の“お砂遊びでのあれこれ”レベルでも用を成し得るほどの 超~ぉ簡単すぎる話でしかない、のだが・・・
あらゆる何をやっても 永久に一切の例外なく稚拙すぎるお方は、 より稚拙なほど 自身を際限なく過大評価していられるもの。
だから、 どこに首を突っ込んでも、 同じ残念ぶりがご自慢でいられる同類さん同士だけで称え合う集いとしか関われない。
もちろん、 ずっと入り口の外にいるまま 何でも優越感を満喫してお幸せでいられ続けても、 それ『だけ』なら、 それぞれの自由。
でも、 自身の中では有頂天でいる『だけ』には留まれずに、 残念な幻想を 外の世界にまで持ち出してしまうのが 定番パターン。
誰かが何かをしたのが見える度に、 その概要や 聞こえた単語の断片だけを大きなお声で叫んで、 それを何にでも一律に
『私が先に』 『私だけが』 『私が教えてあげた』
に付け替えた妄想世界に暮らして 実在しない恩を押し売りする、 どこででも無数に纏わりついてきてしまう アレの類 x x x
見えたものを解る知能がないから、 解らないこと自体が解らずに、 たった1つ2つの単語を口走れば もう全て解っているつもり...
それが 実年齢での幼児なら 将来がある成長の過程として 微笑ましく見れる言動... でも、 幼児でなければ 意味も違う。
だから、 わざわざ、 自ら、 ますます明確に 異口同音の同類さん同士だけとしか関われなくする言動に励み続ける循環。
一応・・・、 ここでいう“関わり”は、 福祉的配慮で“ご挨拶”はしてもらえる 世の中の優しさでの社交儀礼は別にして、の話。

まず、 簡単すぎる たかが初歩中の初歩、 たかが基本中の基本こそ重要なのは、 何事でも同じ。
簡単すぎることも知らず、できずのままでは、 ご熱心に あちこち駆け回っても、 簡単に得られて当然の成果も手にできない。
これでは、 その時間と労力の殆どを無駄にし続ける・・・ だけなら 残念さん相応の自業自得、だけで済むのだが・・・
鳥写真では、 無知な行動で追い散らし回って 周りまで巻き添えにする迷惑に励み続けている愚かな現実にも気付けない惨事にも。
その後になって 先人さんから写せる方法を訊き出そうと 厚顔無恥に同好の繋がりを気取って交友を画策しても、 もう既に・・・
当然、 それも 自業自得の“自己責任”。
もっとも...
知的面が幼児仕様のまま現在に至っている事情だから、 世では簡単すぎるほどものことは 想像すらしようもないのだろうが。


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