昨年末の個展
京橋のアートスペース羅針盤にて。
10月の鎌倉での個展を踏まえ、「おとづれ -境ー」というタイトルで行った。
テーマについては鎌倉の回で触れたので詳細は省くが、短く言うと色や形、数字などでは掬えない「おと」=「神の声」(前回参照)を墨で譜面に起こそうと試みたのが「おとづれ」。
そしてそんな「おと」を聞きうる場所として描いたものが「境」。
よくみれば「境」という字にも「音」が隠れているではないか・・云々という文章を展示に際し書いてもみた。
そんな「境地」がどんな場所か?
陶淵明が1500年以上前に想像した桃源郷のような場所だろうか?
メモのように書き留めた陶淵明の「桃花源記」を「ノート」と題して出品したら、とある評論家に噛み付かれてしまった。
「君は陶淵明の『人となり』をどれだけ知っているんだね?」
『人となり』・・・?
そんなもの知っているわけがないから「知らない」と答えると、今度はひどい剣幕で
「陶淵明は君が考えるより遥かに高尚な人物だ。私はよく知っている!」
と強く断言されてしまった・・
だが僕はこの言葉を大いに不審に思った。
陶淵明といえば東晋、書聖 王羲之とほぼ同時代・・どんな専門家であろうと1500年以上前の人間の人となりを「よく知っている」と断言することが可能だろうか・・・
ふとこの数年お世話になっている美術史家のX先生のことが頭に浮かんだ。
X先生が僕の絵についておっしゃるひと言ひと言は、どういうわけか僕にはひどく響いてくる。
X先生には口癖がある。
「私は歴史屋だから現代のものは見ないんです。客観的に見れっこないから・・。」
現代は見ない、と言いつつも、いつも僕の心まで的確に見透かした評論をしてくださる。
もちろん響いてくる、と感じている自分の感覚が正しいわけではないが・・
何が正しいのかは誰にもわからない。
今回の展示を通じて、ただ「求める」姿勢だけは失わないでいようと強く思った。
「求」・・・剥ぎ取った獣の皮の形。
この獣の持つ霊力によって祟りを祓い、望むことが実現するよう求めること。
うわべの知識や小手先の技を剥ぎ取ってしまい、はらわたをさらけ出して成長していきたい。