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シロガネの草子

華子妃殿下は突然に 其の1


香淳皇后 (昭和42年3月撮影)

香淳皇后は、華子妃殿下がお妃に内定した頃、妃殿下に対しての期待のお言葉を言われています。


「華子は、聡明で、気丈な女性。健康で、気立ては柔らかい。これからもいっそうの努力を重ね、義宮を助け、皇室のよい伝統を守り、東宮夫妻と力を合わせて、日本の繁栄に尽くしてくれるよう、期待しています」


又華子妃殿下は宮家に上がる時が決まった時

「私は、まず、義宮様に、できる限り、家庭と言うものの暖かさを味わっていただけるよう努力いたします。公人ですが、一般の夫婦生活とくらべ欠けがちな部分は、皇后さま、各宮さまのご指導を仰ぎ、補っていくつもりです」


ご婚約を済ませられた後の華子さまとご両親とお姉様

とのお言葉を残されています。華子妃殿下は良く知られているように津軽旧伯爵家のお生まれで、尾張徳川家の血筋にも繋がりる名門のお家柄のご出身です。


『告期の儀』の後、勅使を見送られる華子さま


元気溌剌な華子様


現在もお変わりなく。お召しのお着物は皇嗣家も御用達の《京和工芸》です。


旧華族ご出身ですので早くから義宮様・・・・常陸宮殿下のご縁談が決まって、いたのかな~~と単純に考えていましたが、常陸宮殿下のご縁談相手は実はなかなかお相手が見つからなかったと言うのが、真相でした。


彗星のように現れたと云う華子様

当時の『女性自身』に・・・・
「華子妃殿下」誕生までの五年間 と言う記事がありましたので、それを元にして紹介してゆきます。

《美智子さまは、さる昭和35年11月、イランにおいでになる時、義宮様から「アラジンのランプをお土産に・・・・」と、ご依頼を受けた・・・・》(39年2月29日付読売新聞)

親善の旅に立たれる皇太子ご夫妻に、いかにも独身の弟宮らしいおみやげを、義宮様はねだられた。そして、美智子様が買っておいでになられたのは、ビーズのかわいいハンドバッグだった。

「間も無く、あなたのお妃がどなたに決まるでしょう。その時、あなたのフィアンセに、これを贈ります」

というお気持ちだった。

同じ年の暮れ、瓜生宮内庁次長は、国会で、

「義宮様のお妃は、来年中に決定したい」

と、発言した。

「さぁ、ご婚約は近いぞ!」

各新聞社の“お妃記者”達は他社にスクープされまいと、血なまこになる。美智子さまも、イラン土産のハンドバッグを贈る日には、ごく近い将来と楽しみにしておいでだっただろう。

だがどうしたものか、1年、2年・・・・と、月日が流れた。そして、ようやく皇室会議で、「津軽華子さまとのご婚約」を決められたのは、それから4年を経た昭和39年2月28日であった。

「義宮妃の候補者を探すため、義宮付きの侍従、東園基文氏が、“華族大鑑”だの“人事興信録”などを、丹念にめくりはじめたのは、昭和34年6月頃でしたね・・・・」

語るのは岡並木氏(朝日新聞記者)

朝日新聞では、女性記者1人を含む5人のチームが組まれ、「義宮のお妃候補は誰か?」を探る為、密かに活動を始めた。いうまでもなく、岡並木記者もそのメンバー。「義宮妃は、広く探したうえで決定したい」という東園侍従の言葉がやがて伝わってきた。記者たちも考えた。

「皇太子妃の美智子さまが、民間から選ばれたのだ。義宮はもっと自由な立場だし、そのお妃になる女性は、いっそう広い範囲から探し出されるだろう。今度も、民間出の令嬢の可能性がある」

そうなると、調査対象はぐんと多くなる。

「学習院、聖心はもちろん、双葉、津田塾・・・・(省略)関西まで手をひろげ、・・・・(省略)など、名門のこれという在学生はほとんど調べましたね。
それに当然、旧宮家、華族の子女も見逃すわけにはいきません・・・・」(岡並木氏)

こうした報道陣の思惑とはべつに、事実、義宮の側近のなかにも、「義宮妃には、ぜひ民間の令嬢を!」と、考えていた人がいた。村井長正氏(当時義宮付き侍従 )。村井氏にごく近いある人物はその頃の村井氏の心境を、次のように代弁する。

「皇太子、義宮のご兄弟は、普通一般人が考える、“兄と弟”とは違うのです。お小さい時から、別々にお育ちになった。
普通なら、ケンカしたり、泣いたり笑ったりして、互いに理解しあい、成長していくのが兄弟。だが、皇太子、義宮はその味をご存じない。
だから村井氏は、美智子さまと心から親しくなれる、同じ民間出の令嬢を義宮妃に迎え、妃殿下同士が仲良くなさることで、皇太子、義宮の兄弟愛を、いっそう厳密なものにしなければーーと、そう考えたのでしょう・・・・」

《義宮が、自分の妃についてもっていらっしゃる非常に明快なイメージは、“美智子妃のような女性”(宮内庁A記者)》であり、義宮は、それを《それを友人たちにもらした事があるのです》と、当時の“週刊新潮”(37年11月19日号)は書いている。

そして同誌は、この時点で噂にのぼる義宮妃候補者の名を12人あげている。(省略)・・・・など、実業家、役人、学者などの父に持つ、民間に育った令嬢の名が、半数も並んでいる。

岡並木氏ら、朝日新聞の担当記者たちは、これぞという令嬢を調べては、“お妃候補者カード”を作った。いつかそれは4千枚に達していた。

また、別の新聞社のA記者は、東園侍従の考える“選考基準”を聞き出していた。

1 背の高さはハイヒールを履いた時、その分だけ義宮より高くとも良い。それ以上の高さはダメ。


2 財界人でも良い。しかし新興成金はダメ。また財閥も排除する。

3、政治家は、近親者も含めてダメ。

4 父は大学卒。母は旧制高等女学校卒。当人は短大以上ならば宜しい。

5 学校は学習院にこだわらない。ただし競争苛烈な東大などは困る。人を押し退ける性格になっているだろうから。


「順番が違うじゃありませんか!」

6 成績は極端に劣等でなければよい。芸ごとは音楽ができれば、結構。ただし三味線などは困る。

7 近親でない事。

ーーと、まずこんな基準があったようである。


「義宮妃は、民間出の令嬢であってもよい」という選考委員たちの考えは、この基準表からも伺われ、記者たちは八方に目を光らされる必要があった。

だか、途中から事態は一変した。そのため、義宮妃の選考は、いったん暗礁に乗り上げ、遅れに遅れたのだった。


お妃に内定された華子様

軽井沢でご友人と

~ここで一休み~


香淳皇后御絵 《冬さり・昭和39年》

華子妃殿下のお輿入れ道具の記事がありましたので、貴重な記事ですので紹介します。


常盤松の御所に運ばれた華子さまのお嫁入り道具

「華子さまのお荷物を載せた私どものトラックが、常盤松御所に着いたときのことです。
義宮様がお待ちかねのように、お部屋から出ていらっしゃるじゃあないですか。そしてニコニコなさって“どうもご苦労様です”と私たちに挨拶なさるんです。
いままでの苦心もワーーッと消えてああ、華子さまはお幸せだなと思いましたよ」

10月24日、華子さまのご結婚調度品を運び込んだ責任者・清水鎮雄氏は、大役を果たした喜びを顔にたたえて語る。

「丁度あいにくの雨。桐タンスは濡れるとシミがついて落ちないものですから、それは神経を使いました。2台の引っ越し専用のトラック(4トン)をチャーターして、作業員は全員制服姿、白の手袋で作業にあたりました。お荷物には全部防水シートをかけましてね。
この日のために前後3回、予行練習をして、時間のかかり具合や、道の悪いところなど徹底的に調べぬいた苦心が実ったわけです」

この日、お部屋の壁もすっかり塗り替えられた御殿に4トントラック2台で運び込まれたご結婚の調度品は━━

桐ダンス 3棹
帯ダンス 2棹
洋服ダンス 4棹
整理ダンス 2棹
三面鏡 1面
靴箱 1点
机 1脚
サイドテーブル 1点
テーブル 1点
回転椅子 1脚
書棚 1点
夜戸棚 1点

このほか、華子さまの身の回りの品、45点。


宮家に持参された御所人形

この荷物を送り出すときの、華子さんも、玄関で“大変ご苦労様です”と御挨拶。愛犬ポコを抱いて見送っていらっしゃった━━何も知らないポコがほえるのをあやしながら「あなたは一緒に連れていけないのよ」と、いっていらっしゃるような華子さんだった。



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