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シロガネの草子

華子妃殿下のご母堂の手記 其の1


喜びと淡き寂しさのなかで
義宮妃となる娘への母の想い 津軽久子
~納采の儀もすみ、お妃教育に精進される華子さんを語る~

大輪の菊のを活けて


高畠華宵 『菊の秋』

納采の儀がおこなわれました四月十四日、


その儀式後、華子と私ども夫婦は皇居に上がり両陛下にお礼のお言葉を申し上げ、きながらに義宮御殿へお伺いしてから、お昼過ぎに帰宅しました。


『納采の儀』が行われた日の華子様。クリーム色地に一越縮緬に御所解模様の振袖。(当時の雑誌から)

「心静かに、なおいっそうの努力を重ねていきたいと思います」華子様

・・・・家へ上がるなり華子走りよった猫を抱き上げて、

「ただいま!何してたの、いままでどこまでも行っていたの?」

そういって、しばらく頬を押し付けていました。華が猫を可愛がるのはいつものことなのに、その姿に、ふと心をうたれるものがありました。

義宮正仁親王殿下とのご婚約が正式に決定した日の行事を滞りなく終え、そしていよいよ婚約者としての第一日が始まった万感の思いを、華は無心のネコへさりげない言葉に託して語りかけ、しばし心を預けたのかもしれません。

その前日、義宮様のお使いの稲田侍従次長をお迎えするための準備に、華も、黄、白、紫の大輪の菊を活けました。


夜は、一家そろって、明朝の手順や、そそうのないようにと心構えを話し合い、華は早めに床につかせましたが、

「ぐっすり眠れました」

と華ははればれとした顔で当日の朝を迎えました。

皇居にうかがったときのもようを、二月(内定の日)に比べて、華が緊張ぎみでうつむいていたと報道されたようです。この二ヶ月の間に、皆さんいつも見られているという意識が次第に強くなって、それで固くなったせいもありますが、実は叔母や姉達から「和服のときは、歩き方をもう少ししとやかににしたら・・・・」と言われましたので、こんどこそしとやかにと、自分では一生懸命すましたつもりなのでございます。

こんなに明るく屈託なのい華ですから、ネコをそっと抱きしめた姿が何かいじらしく心をうったのかもしれません。

屈託がないといえば、四月十六日から始まった“お妃教育”のご講義の時間がとても楽しいようです。

「お机を挟んで一対一対の講義は初めてですし、よそ見は出来ないし、これは大変だと思っていましたが、久しぶり学校気分が味わえ、家にいればお客様との対応でなにかと忙しいけど、ご講義を伺っている時間は落ち着いて、とてもいい気分です」


と申しております。お料理とお茶のお稽古が木曜日を覗いて、毎日9半時から11時半、12時近くまで皇居内の宮内庁書陵部長室でおこなわれるご講義は、皇族日のとしての教養と修養のためのものでございますから、華も一生懸命にお受けしています。宮中行事および行事、内定行事および、礼儀作法、皇室を中心とした日本史、和歌、書道、茶話会、英会話などを、六月中まで学ぶ予定です。大変結構なご講義なので、私も時間が許す限り、拝聴させて頂きたいと思いをます。予習補習ということもあらりませんが、和歌は宿題を出て作って行かなければなれません。

英会話もいくらか宿題を考えているようです。

試験がないと伺って、ひと安心したわ。体育という科目がも作っていただこうかしら」

いかにも華らしいと、思わず笑い出してしまいましたが、思えば華の切実な声かもしれません。ことに「体育」については・・・・。

♠心にしみる お友だちのありがたさ

わたくしに自信があるのは健康だけ。と言ってる華が、一番望んでいるかとは、思いっきり遊びたい。ということのようです。ご内定以来、乗馬はもうこのところずっとお預けですし、(近々のうちにはじみられそうですが)出掛ける時は車、散歩もままならずせみて庭に出て、日光浴を心掛けていますが、どこからか隠しカメラで狙っているかもしれませんので、二階の縁側でネコと日向ぼっこ、ということになります。それではエネルギーがたまって運動不足のかはけ口がなくぶつぶついっております。

「発表があんな事情で早まってしまったので、あとスキーを二度位行くつもりだったのに、おじゃんになってな何よりも残念だ」

「今年の夏は泳げるかしら」

今から心配したり。もう少し報道関係のたちも大目に見ていただけたら、つくたつぐ思わずにはいられません。

実はこうしてお話知ることも本意ではないのです。身内のあれこれお話するのは吹聴がましいし、出きれば控えさせていただきたいのですが、余りに熱心にあしをはかばれらると、皆さんの仕事なのだから、とついお断りできなくなって仕舞いました。

ご近所のお知り合いの外人の赤ちゃんが生まれ、その赤ちゃんを見に行ったときも、近くに住むいとこ達の家へいくときも夜になってこっそりと出掛けるのこの頃の華にとって、エネルギーを発散できるのは、学校のお友だちのおしゃべりのひと時です。先日、女子学習院と短大のクラス会が二日にわたってあった時は、本当に嬉しそうでした。

お友だちはおそろいでたびたびお遊びに来てくれますし、いろいろとと庇って下さって、

「お友だちのありがたさが身にしみるわ」

と感謝しております。

皆さん可愛らしいアクセサリーを探し回ってくれたり、ラーメン屋さんへ入ったりしたところ、華のお小遣いは、月に二、三千程度でしたが、いまはお小遣いを使わなくなりました。小さながま口の中のやりくりも懐かしい思い出となりました。

先日、千葉県の日在から祖母が上京して参りました。ドイツ語もフランス語も堪能で未亡人となりましてから東大の農科に通って勉強した祖母は歌人でもあって進歩的ですから、私より華との方が話が合うようです。上京する度に学生同士のように颯爽と二人で洋画を見に行ったり、書店で本をあさったり、どこのアイスクリームが美味しいから、といった二人きりでの楽しみがあったようですが、それもこれから出来ないでしょう。今度は祖母の実家の小笠原家と、常磐会のお茶会へ出掛けるだけです。

以前と変わらないのは姉たちの子供が遊びに来たときでしょう。食事やお風呂の世話に至るまで、一切引き受けています。小さい姪たちは伯母の身の上にどうゆう変化が起きたかシリモせず、そんな子供たちもに向かっているとき、華もカメラやペンに追われる身の上を忘れて以前のままの肉屋さんになったり八百屋になったりままごとの相手に余念がありません。

戦争っ子の華は戦前の貴族生活というものを知りません。物心ついた時は物資不足の上に姉たちは学童疎開、父は軍馬補充部の仕事の仕事で青森県へ行っていましたし、私は華を連れて茨城県黒磯にあった実家の農園へ疎開、というバラバラの生活。厳しく寂しい時代でした。

その頃、疎開先の子供達や親戚へお米やお芋を運ぶ私の留守中、小さい華は一人でお留守番をしておりました。ときに帰りが遅くなっても、泣いた気配はなく華はちゃんとお布団に敷いて寝ていました。華の性格は呑気でいて、以外に芯の強い面があるのは、うまれついてばかり出なく、物心ともに満たされなかったその頃を、幼い心でじっと耐えていて培われてきたためかもしれません。

戦後は邸は焼失、使用人もおらず、経済的にも困難な時期でしたが、贅沢な暮らしを知らない華は、いつも自分がおかれた状況に満足し、のびのびと明るく育ってくれました。

「華はいまに、世帯持ちのいい奥さんになれるよ」

と主人が何かにつけて言っていましたが末っ子でも、しつけの上では、かなり厳しくしました。聞き分けがなければ、ピシリと手を打つくらいには。小学生の頃から、家に帰ると、まずハンカチとソックスを洗ってからでないと、おやつの前には決して座らせません。でも此はしつけではなく華が自分でやり始めたことでございました。



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春日野
華子殿下の母堂津軽久子さまは、長府毛利家(旧子爵)のご出身で、いかにも大名家の姫様の美貌でいらっしゃいました。高松宮妃殿下喜久子さまとは、女子学習院の同級生でいらっしゃいます。
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