見えなかった世界

アジアのフリーメイスン洪門(ホンメン)とは?

大同思想とは

2014-11-18 23:21:29 | 日記
大同思想
(だいどうしそう)
コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E6%80%9D%E6%83%B3-91681
(転載開始)
ユートピア思想で、階級的差別や搾取のない自由平等平和の社会を構想する。

大同とは、『礼記(らいき)』礼運篇(れいうんへん)に「権力を独占する者がなく平等で、財貨は共有となり生活が保障され、各人が十分に才能を発揮することができ、犯罪も起こらない世の中」と定義されているが、考え方としては、それ以前の文献にも、墨子(ぼくし)の兼愛交利とか、老子の小国寡民とか、許行の君臣並耕などのように、断片的にではあるが数多く現れている。

漢代以後は、消極的な現実逃避的な思想の描く理想郷、神仙の世界に投影されたものと、積極的に政治的な理想としての井田(せいでん)制の実現を企図したものとが現れている。

また、歴史上しばしば発生した農民起義(叛乱(はんらん))においても、大同的世界の実現がその目標となっていた。

清(しん)末変法運動の指導者康有為(こうゆうい)は、礼運篇の説と春秋公羊(くよう)学の三世説とを結び付けて大同世に至る段階を『礼運注』において、また現世における苦しみの状況とそこから大同世に至る道程および大同世のありさまを『大同書』(1935)において描いている。

ちなみに、1919年の国際連盟の成立は、康有為には大同世の実現と映ったようであろう。

(転載終)

洪門天地會青蓮堂日本總會

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九宮とは

2014-11-11 14:50:41 | 日記
東洋占星術または西洋占星術は、天文観測または、それにかわる天文計算によって得られています。

『天の流れを見る地の脈を読む』
占星術はいまでは、占いにカテゴリー化され一部の気持ちをすがる人用の頼るもののように感じます。

古代では、国の国家行事にも準ずる行事や儀式の開催にはこの術は不可欠でした。現代の算出法よりもかなり複雑でありました。だが、覚えて欲しいことは大きな出来事の発生するとき、実はいまも《こだわる》人たちがいることは間違いないです。



『九宮の数を論ず』より
http://homepage1.nifty.com/haruakira/library/gogyoutaigi/f_09.html
(文抜粋)
九宮は上は天を分け、下は地を分けるのにおのおの九つの方位をもってする。

天は二十八宿と北斗九星で分けており、地は四方と四維と中央に分けている。分けて九に配しているが、それぞれを宮というのは皆、神の行くところだからである。だから、宮と名付けている。

てい司農(ていしのう)は「太一(北極星)は八卦の宮を巡り、四ごとに中央に入る。中央は地神の居るところであり、これを九宮と言うのである。」と言っている。

「易緯乾さく度(えきいけんさくど)」
には「易は陰と陽の道理をもって表すものである。だから、太一はその陰陽の数にしたがって九宮を巡るのである。」とある。

易経(繋辞上伝)には「天は一、地は二、天は三、中地は四、天は五、地は六、天は七、地は八、天は九、地は十」とある。


天地の数は合計すると五十五になる。


九宮で用いる数は天の一、地の二、人の三を除いたものであり、余りは四十九となる。これは筮竹の数にあたる。また、四時の四を除くと余りは四十五になる。五とは五行のことであり、四十とは五行の成数である。この二つを合計すれば四十五となり一節の数となる。

これを分けて五方におくと各々が九となり、一時(四季のそれぞれ)は九十日の数であり、四方は四時となる。三つの宮は縦・横・斜めで足し合わせると十五となり、これは一気の数であり、(足し合わせると)二十四節季(一年)となる。

~中略~

ある者が「八卦はどこから生じるのか」と問うた。答えて言うには「天地から生ずる」と。
また、「天地は何から生じるのか」と問うた。答えて言うには「太一より生ずる」と。
次に「太一は何から生じるのか」と問うた。答えて言うには「易から生じる」と。だから、「周易」では「易に太極があり、これが両儀(陰陽の法則)を生じる。」と言うのである。

だから、易の字は変化して太一の字となる。太一の字が変化して天の字となる。天は一を生じ、地は二を生じる。天の字が変化して水の字となる。天は水を生じるのである。水の字が変化して木の字となる。水は木を生じるのである。木の字が変化して火の字となる。木は火を生じるのである。火の字が変化しの字て土となる。火は土を生じるのである。土の字が変化して金の字となる。土は金を生じるのである。金の字が変化して八卦の字となる。

八卦は五行によって生ずるのである。八卦の字が変化して十二月の字となる。十二月は八卦の主(つかさど)る月である。十二月の字が変化して地の字となる。万物を出し尽くして最後に地に戻ってくるからである。
これが、九宮・八卦創制の法である。

宮は九宮があるだけである。十宮ないのは、八方と中央にしたからで、数は九で終わる。

上は九天・九星・二十八宿に配当され、下は五岳・四とく・九州に配当される。

「黄帝九宮経」には「一は恒山を主り、二は三江を主り、三は太山を主り、四は碓水を主り、五は嵩山を主り、六は黄河を主り、七は華山を主り、八は済水を主り、九は霍山を主る。」とある。

また、「一は冀州(現在の河北・山西・河南)とし、二は荊州(現在の湖南・湖北・広西・貴州)とし、三は青州(現在の山東、東北地方)とし、四は徐州(現在の山東の南部、安徽、江蘇の北部)とし、五は予州(現在の河南、山東の西南、湖北の北部)とし、六は雍州(現在の陝西、甘粛、青海)とし、七は梁州(現在の四川、雲南、貴州)とし、八はえん州(現在の山東、河北)とし、九は揚州(現在の江蘇、安徽、江西、浙江、福建)とするとした。」とある。




天罡星と地煞星

2014-11-11 13:36:36 | 日記

天罡星(てんこうせい)とは北極星を指します。

(引用あり)
古代から中国には、「太陽星」「太陰星」「先天五行星」「九宫星」「黄道十二守護星」「南斗七星」「北斗七星」「二十八宿群星」「天罡三十六星」「地煞七十二星」「三百六十五大周天星斗」および十万八千の副星によって天(宇宙)が形成されている、という考えがありました。

そして、『水滸伝』、この物語には百八の星が登場します。この中には、梁山泊(英雄や猛者が集まる場所)に身を隠した108人の剛の者がおり、これに習います。

剛の者。猛者を百八の星にたとえていて、さらに道教信仰では北斗星座群(北極星・小熊座・大熊座)の中には、上位36星を天罡星三十六星(てんこうせいさんじゅうろくせい)、下位72星を地煞星七十二星(ちさつせいしちじゅうにせい)があるとしています。(注)「煞」は「殺」の俗字(異体字)です。



36+73=108となります。

108÷9=12

12は、十二天将または十二神将。

108は6で割るとこも出来る。

108÷6=18




天罡星は六壬の北斗七星を指し、地煞星は別の星占いの凶星を参考にしています。

『六壬神課参考』
http://www.nifty.com/ougi/rikujin/guide.html

古代中国では奇数を陽、偶数を陰とし、陽は天に通じる、と考えられていて、旧暦9月9日は「重陽節(陽が重なる日)」として今でも農村などでは重視されており、9は陽の中で一番大きい数なので縁起がいいとされています。

《9》を重要視しています。

その倍数も同じく神秘的なものとされ、18や36。例えば「武芸十八般」「十八羅漢」「兵法三十六計」「三十六洞天七十二福地(仙人が住んでいるといわれる場所)」等、9の倍数は好んで使われています。

そして、地煞星を凶星ではなく、民衆伝説では三十六天罡星と七十二地煞星が連合を組み、妖魔に戦いを挑んだとしています。



『天罡星三十六』
(Baidu百科より参考図)

天魁星、天罡星、天机星、天闲星、天勇星、天雄星、天猛星、天威星、天英星、天贵星、天富星、天满星、天孤星、天伤星、天立星、天捷星、天暗星、天佑星、天空星、天速星、天异星、天杀星、天微星、天究星、天退星、天寿星、天剑星、 天平星、天罪星、天损星、天败星、天牢星、天慧星、天暴星、天哭星、天巧星

『地煞星七十二』
地魁星、地煞星、地勇星、地杰星、地雄星、地威星、地英星、地奇星、地猛星、地文星、地正星、地辟星、地阖星、地强星、地暗星、地轴星、地会星、地佐星、地佑星、地灵星、地兽星、地微星、地慧星、地暴星、地默星、地猖星、地狂星、地飞星、地走星、地巧星、地明星、地进星、地退星、地满星、地遂星、地周星、地隐星、地异星、地理星、地俊星、地乐星、地捷星、地速星、地镇星、地稽星、地魔星、地妖星、地幽星、地伏星、地僻星、地空星、地孤星、地全星、地短星、地角星、地囚星、地藏星、地平星、地损星、地奴星、地察星、地恶星、地丑星、地数星、地阴星、地刑星、地壮星、地劣星、地健星、地耗星、地贼星、地狗星



三十六天罡星にはがあり、七十二地煞星にはがあると言います。

《天罡三十六法 》
斡旋造化 顛倒陰陽
移星換斗 回天返日

喚雨呼風 振山撼地
駕霧騰雲 劃江成陸

縱地金光 翻江攪海
指地成鋼 五行大遁

六甲奇門 逆知未來
鞭山移石 起死回生

飛身托跡 九息服氣
導出元陽 降龍伏虎

補天浴日 推山填海
指石成金 正立無影

胎化易形 大小如意
花開頃刻 游神御氣

隔垣洞見 回風返火
掌握五雷 潛淵縮地

飛砂走石 挾山超海
撒豆成兵 釘頭七箭


《地煞七十二術 》
通幽 驅神 擔山 禁水 借風 布霧

祈晴 禱雨 坐火 入水 掩日 御風

煮石 吐焰 吞刀 壺天 神行 履水

杖解 分身 隱形 續頭 定身 斬妖

請仙 追魂 攝魂 招雲 取月 搬運

嫁夢 ○離 寄杖 斷流 禳災 解厄

黃白 劍術 射覆 土行 星術 布陳

假形 噴化 指化 屍解 移景 招來

跡雲 聚獸 調禽 氣禁 大力 透石

生光 障服 導引 服食 開避 躍巖

萌頭 登抄 喝水 臥雪 暴日 弄丸

符水 醫藥 知時 識地 辟榖 魘禱




忠義のこころ

2014-11-08 23:03:48 | 日記
忠義のこころとは言っても現代社会では無形の形ではなく、有形の形で教わることに変化してきている。精神の基本とされ日本なら武士道に通じる。

これは、私たちが古来から継承されていた精神であり、清廉な社会を作ることになる元でもあると感じる。以下の引用文章を用い、あらためてこの精神をともに見つめ直そうではないか。

(以下)
武士道

「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」からなる道徳。


当時の食事は一汁一菜が基本の質素なもので、多くの使用人をかかえる武士屋敷でも献立にさほど違いはなかった。武士たちにとって贅沢は人格に悪影響を与えるもっとも恐れるべきものだと考えられていた。

刀は武士の魂、たとえ飢え死にしても売るわけにはいかない。武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。幼少のころから刀の使い方を教えられる。まずは木刀から始まり、15歳で元服すると真剣を携帯しての行動を許される。その時彼が自覚するのは自尊心と、危険な凶器を往来で持ち歩くことに対する責任感である。

【義】
人間としての正しい道、正義を指すものであり、武士道のもっとも厳格な徳目である。

時は戦国時代。越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は当時の有力な戦国大名だった。両者はともに天下統一を目指しぶつかりあうライバルである。そしてもうひとり、上杉謙信と同じく武田信玄と対立していた今川氏真は、武田領内へ商人が往来するルートを断った。1567年の塩留めである。領土に海のない甲斐国では死活問題である。
苦しむ信玄にある日、謙信から手紙が届いた。

「私が信玄殿と戦っているのは弓矢の上であって、米や塩で戦っているわけではない。今後塩が必要ならわが国から供給しましょう」

敵に塩を送る。この諺は義を重んじる上杉謙信のエピソードが元になったとされる。

義は体に例えるなら骨である。骨がなければ首も正しく胴体の上につかず手も足も動かない。つまり、たとえ才能や学問があったとしても、義の精神がなければ、武士ではない。

武士にとってお金などは二の次である。打算や損得から離れ、自分が正しいと信じる道を貫くことが武士の正しい姿とされた。武士はとにかく銭勘定を嫌った。銭勘定はつまり損得を追求する行為だからである。だから商売は商人たちにまかせて、上位の身分である武士たちは人々の模範となる生き方を追求した。

打算や損得を超越し、自分が正しいと信じる道を貫く。武士道の中心となる良心の掟、これが義の精神である。

【勇】
勇とは、義を貫くための勇気のこと。勇気といっても、わざと危険を冒して討ち死にすれば単なる犬死にである。武士道ではこれを匹夫の勇と呼びさげすんだ。

勇気とは恐れるべきこととそうでないことがわかることだ。
(哲学者プラトン)
本当の勇気とは生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬことである。
(徳川光圀)

武士は幼少のころから匹夫の勇と、真の勇気「大勇」の区別を学ぶ。冬の寒空の中肉体をさらさせたり、処刑場の恐ろしい光景を見に行かせた。

武士にとって犬死にはつまらない行為だが、自分が間違いないと思うことに対してはためらうことなく命をかけて戦わなければならなかった。勇をまっとうするためには肉体的強さが不可欠なのだ。義の精神をいくら机の上で学んでも、自分より強い暴漢に怯えて実行できなければ無意味である。武士たちは精神修行と同時に肉体を鍛えた。文と武の両立、つまり文武両道を追求していた。

義をみてざるは勇なきなり。勇とは勇気、正義を敢然と貫く実行力である。

【仁】
仁とは、人としての思いやり、他者への憐れみの心のこと。
武士の情けには、仁の精神が内在している。弱き者や負けた者を見捨てない心、高潔で厳格な義と勇を男性的な徳とするならば、仁は女性的なやさしさ、母のような徳。

義に過ぐれば堅くなる、仁に過ぐれば弱くなる。
(伊達政宗)
仁の力を疑うものは、薪についた大火を茶碗一杯の水で消せなかったと言って、水で火は消せなかったと思うようなものである。
(孟子)

他者への思いやりを忘れてはならない。仁の精神は、人の上に立つ者の必須項目である。

【礼】
仁の精神を育て、他者の気持ちを尊重することから生まれる謙虚さがつまり礼の根源である。

礼とは他者に対する優しさを型として表したものである。日本では古来よりお辞儀の仕方、歩き方など、きめ細かな規範がつくられかつ学ばれていた。

食事の作法は学問となり、茶の湯は儀式を越え芸術となった。茶の湯の作法は初心者にとって退屈なものだが、この定められた方法が結局時間と手間を省く最上の方法であることを発見する。礼儀作法はさまざまな流派が存在しているが、心で肉体をコントロールし心を磨くという点において目的はひとつである。

度をすぎた礼はもはやまやかしである。
(伊達政宗)

礼の作法も、気持ちがこもっていなければ型をなぞっただけの、わざとらしいものになるということだ。

「つまらないものですが…」

贈り物をするとき日本人がその品物の値打ちを軽く表現することに対して、アメリカ人は強い違和感を感じるようだ。

贈り物をするときのアメリカ人の論理はこうである。
この品物は素晴らしいものです。そうでなければあなたにあげられません。粗末なものをあげるなんて、あなたに対して失礼ですからね。

これに対して、日本人の論理はこうである。
あなたは立派なかたです。私の気持ちを受け取ってください。この程度の品を最高のものだと言ったら、立派なあなたに失礼ですが。

アメリカ人は贈り物そのものに心を向けているのに対し、日本人は贈る気持ちのほうに心を向けている。相手を思う気持ちは共通しているのだ。

【誠】
誠とは文字通り、言ったことを成すこと。「武士に二言なし」という言葉は、武士道の徳目のひとつ、誠から生まれた。武士にとってウソをつくことやごまかしは、臆病な行為とみなされた。武士たちは銭勘定を嫌い、誠の精神に基づき証文さえもつくらない。

士農工商、この身分制度は、知恵ある序列だった。貴族を商業からしめ出すことは、権力者に富を集中さえないためのすばらしい政策である。
(モンテスキュー)

富の道が名誉の道ではない、侍たちはそれを知って名誉の道にこだわった。

【名誉】
侍の妻たちは立派だった。金よりも名誉を重んじる夫のために、笠や提灯作りの内職で家計を支えた。女は武士の主君に対する忠義心と同じくらいの思いで家を守り、身を清く保った。それを内助の功という。

名誉の観念は外聞や面目などの言葉で表されるが、裏を返せばすべて「恥」を知ることである。

「恥ずかしいことをするな」「対面を汚すな」「人に笑われるぞ」
武士の間では羞恥心を知ることを幼少の教育においてまずはじめに行われた。

恥は道徳意識の基本であり、武士道における名誉とは、人としての美学を追究するための基本の徳である。

しかし侍は恥を恐れるあまり、病的ないきすぎに陥ることもあった。
取るに足らないことに腹をたてることこそ、武士にとって恥ずかしい行為である。

人の一生は重荷を負って行くが如し 急ぐべからず 堪忍は無事長久の基
己を責めて人を責むべからず。
(徳川家康)

負けるが勝ちという言葉がある。
私は人を殺すのが嫌いで、ひとりも殺したことがないよ。人に斬られてもこちらは斬らぬという覚悟だった。なに蚤や虱だと思えばいいのさ。チクリチクリと刺してもただ痒いだけだ。生命に関わりはしないよ。
(勝海舟)

戦わずして勝つ、血を見ない勝利こそ最善の勝利。武士の究極の理想は平和である。

武士道の名誉とは、名を尊び、自分に恥じない高潔な生き方を貫くことである。武士たちはどう美しく死ぬかを追求したが、それは同時になんのために生きるか、という哲学に帰着する。

【忠義】
これまでの徳目は儒教思想に基づいたもので、あらゆる階級の人々にもあてはまるが、これは武士唯一の特殊な徳目。

忠義とは主君に対する絶対的な従順のことである。一見その本質は日本の封建社会が生み出した政治理念にも見えるが、共通の考え方が海外にもあった。

個人は国を担う国家の一部として生まれてくるのだ。
(アリストテレス)
あなたは今まで国家に生まれて教育されてきたのに、自分が国家の家来ではないと国家に向かって言えるのか。
(ソクラテス)

西洋の個人主義においては主君に対して個人と別々の利害が認められているが、武士道において個人・家族そして広くは組織・国家の利害は一体のものである。

主君の命令は絶対だったが、武士は主君の奴隷ではなかった。主君の間違った考えに対して本物の武士たちは命をかけて己の気持ちを訴えた。忠義とは強制ではなく、自発的なものである。武士たちはあくまで己の正義に値するものに対して忠義を誓ったのだ。

(終)


(参考ブログ)
「義とは」
http://akimine-hm3821.blog.jp/archives/7886211.html