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あある の どくはく

地域活性化について考えてみた

2011-02-24 | 社会
地域活性化という言葉をよく耳にする。
あまりにも多くの活動に対して使われていて、地域活性化とはいったいなんなのか、何を目指しているのか、最近わからなくなってきた。

その地域のイメージがよくなればよいのか。
知名度が上がれば地域活性化したことになるのか。
イベントを企画して人を呼んで、盛り上がって楽しい思い出を共有できれば、それ以外の日がゴーストタウン化していても、それは地域活性化なのか。
地域活性化イコール観光振興のように語られがちだけど、人が来ても賑わっても、おカネのひとつも落ちなければ、それは活性化とは呼べないのではないか・・・

地域活性化がこれだけ叫ばれるのは、裏返せば地域に元気がないから、人が少なくなったからだろう。その背景には、その地域(集落)の持続可能性への不安があるのではないか。
この発想は、コミュニティ・ユース・バンク「momo」(http://www.momobank.net/)代表の木村氏が言っていたことをヒントにしている(このNPOバンクは「持続可能な地域づくりを行う事業に融資」することにより地球環境の持続可能性を図ることをコンセプトとしている)。この視点に則れば、地域活性化とは「その地域(集落)の持続可能性を高めること」と読み替えることができる。

地域活性化を「地域の持続化」と捉えなおせば、地域で考えるべき最も根本的な問題にも光が当たるように思う。
すなわち、「(その)地域を持続させる必要があるのかどうか」。
それに続いて「(地域の)何を持続させるのか」。

富山市に代表されるコンパクトシティ構想は、見方を変えれば行政サービスを提供するのに非効率なエリアを切り捨てて中央に集めましょうということである。広域的な地域を持続させるために小さな枝葉である地域(集落)は切り落としましょうということ。
無慈悲だと言ってしまえばそれまでだが、現実に地方財政は逼迫し、ライフラインの維持はもちろん防災対策なども大きな負担となっていることだろう。それにここでいう中央とは地方の一都市である、どうしようもなく遠いわけではないし、彼岸などの折に帰ることもできる。
それで中央への移住が進めばよし、一方でその地にとどまりたいと希望する、選択する方々もいるだろう。もちろんその選択を尊重するにしても見捨てるわけにはいかず、従って行政コストがかかる、それをどう捻出するかが課題となる。生存権を確保できる範囲で。
その文脈でとらえるならば、地域活性化=地域の持続化は、「その地域の生存権を確保するにはどうするか」から発想しなくてはいけなくなる。例えば水道・ガス・電気といった生活インフラ、情報インフラ、そして医療・食、などだろうか(衣食住と言われるが、衣・住は長期スパンで見ることがある程度可能だと思う)。あるいは、積雪のある期間だけ市街地に移り住んでもらい、それによって道路の除雪の頻度を低めに抑えるといったアイデアも出てくる。

いやそうではない、そこに住む人だけでなくその地域の文化・伝統・歴史の継承が必要なのだ、とするのであれば少し話は変わる。文化継承者としての移住者を確保するか、文化をその地域の文化財センターなどにひきとってもらうといった方法もある(例:有峰)。
移住者の確保も必ずしも絶望的ではない。「若者は都会好き、こんな片田舎なんて誰が住みたいと思うものか」というのはちょっと極端な見方だと思う。もちろんそういう人も多いだろうが、特に最近は田舎暮らしに憧れる若年者も増えている。むしろそのマッチング体制が十分でないだけかもしれない。

その地域をどうしたいか、何を持続させるのかという目的(ゴール)がまずあり、それに向かって行う活動が地域活性化であるべきだと思う。その地域のインフラ整備・維持を目的とするならば、観光やイベントは、インフラ整備・維持に繋がる方便として行うべきで、それらの結果として、インフラが維持できるようにならなくてはいけないと思う。
イメージアップ活動や観光振興が無意味だと言っているのではない。それ自体が目的化してそれで完結してしまってはもったいないと思うのだ。それらの活動を見直して、場合によっては設計し直して、地域の持続という文脈の中に組み込んで行けば、自己満足的な活動に終始することなく、効果測定も可能になるのではないだろうか。