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あある の どくはく

生物多様性シンポジウム

2010-09-14 | 社会
9月4日に富山大学で行われた生物多様性シンポジウムに参加してきました。その感想をいくつか。


基調講演で、「生物多様性という言葉は意外に新しい」として、その言葉が1992年の地球サミットでの「生物多様性条約」に由来することが示された。僕が気になったのは、その双子の条約とされる「気候変動枠組条約」との関係。講演では、温暖化していくと現在の生物の生息適地が消滅してしまうという話があったが、温暖化と生物多様性問題が混同して語られている印象があった。
それだけ素直に聞くと「温暖化すると生物多様性が失われる」、そして「温暖化を阻止すれば生物多様性は守られる」ようにも思えてしまう。でも実際はそうではなく、生物多様性維持のためには地球温暖化阻止への取り組みも必要ということのはず。つまり、生物多様性問題は双子どころか温暖化問題を内包しているより広い問題である。そのあたりが少しわかりにくく感じた。

ところで「温暖化すると生物多様性が失われる」という論理は正しいだろうか?パネルディスカッションの副題に「今までにいたものがいなくなる・変化するとは」とあったが、確かに温暖化すると今までにいたものがいなくなる・変化するのだろうけど、同時に新しい気候に適した生物が入り込んでくるわけで、変化すること自体がよくないわけではないはずだ。基調講演では氷河期の富山地域の植生の想像写真も示されたが、そこから現在へ変化していること自体は問題にはならないはずである。(気候は変化する、という事実を示しているだけ。)
問題は、「今までにいたものがいなくなる・変化する」ことによって、これまでの農業なり産業なりが成り立たなくなる可能性がある、我々の生活を変革していかなくてはいけなくなることにある。
つまりは、これまで富山の気候風土に適した品種だったものの実りが悪くなり、より南、四国とか九州とかの品種が適するようになるということ。これまでのやり方が通じなくなるから、伝統や文化すら損なわれていく可能性もある。「それがたいへんだから」温暖化阻止・生物多様性維持を叫ぶのであって、寂しいからとか可哀想だからという話ではない。極度の楽観論として「数年程度で急激に変わるわけじゃないのだから、農業を含む産業構造もその変化に対応していけばよい」「その変化に伴って新しいビジネスも創出される」などと言って温暖化を容認することも、論理としては間違ってはいないのである(本当にできるかは別として)。
何のことはない、生物多様性を保つことは人間あるいはその社会を維持することが目的なのだが、なのに変に感情的に報じられることによって、逆にその本質から外れてしまっている気がする。真剣に向き合うべき問題なのに。


基調講演の結論として、「ライフスタイルの見直し」や「拡大発展型から縮小安定型の社会への転換」などが示された。それ自体に異論はない、しかしそれらが必要なことは、既に多くの人が肌で感じているんじゃないだろうか。成長一辺倒で消費を刺激するだけの経済社会から脱し、贅沢でなくても身の丈に合った生活ができればよいと、多くの人が考え始めているのではないか。今の不況は、リーマンショックや円高などが主要因であったとしても、環境への配慮を動機として(言い訳として)消費が抑えられているという「環境問題不況」の側面はないだろうか。「今のままではいけない」という暗黙の圧力、あるいはこの経済システムへの罪悪感が消費者レベルにある一方で、国レベル・政策レベルでは立ち遅れ、ましてや経済システムに至っては硬直している気がしている。
もちろんそれに対する改革案を持ち合わせてはいないので愚痴にしかならないが(我々は若者に閉塞的な未来しか見せることができていないのである、無気力化はある意味で必然!)、もし消費者レベルでそういう意識変化があるとすれば、シンポジウムで消費者に向かって「転換」を促したところで内需の冷え込みをより深刻化させ、無気力化させてしまうことになる。


パネリストによる報告は、ヤツメウナギ、高山植物、及びライチョウの現状報告だった。科学研究としてはどれも重要だとは思うものの、シンポジウムのネタとしてはあまりに各論・具体論すぎないか。小さな事実の積み重ねが大切なのは百も承知しているが、どこどこで外来種が侵入し生物多様性を脅かしていると言われても、そうなんだとしか思えない。それよりも、生物多様性が失われるということは我々に具体的にどういう影響があるのか、何を考えどう行動していくべきなのか、シンポジウム開催の目的をそのきっかけとするならば、科学研究者だけでなく、経済学者や社会学者、NPO代表など、より広いパネリストを呼んで語らせるべきだろう。生物多様性は本来、それくらい広いテーマのはずである。
例えばどの程度地域の自然を利用しているかでいえば、食糧自給率の話は避けて通れないはずだ。地域の自然の生物多様性をどんなに維持したところで、食糧輸入先の(海外の)自然を大破壊していては無意味である。林業の動向も生物多様性に密接にかかわる。いま県内ではロシア産木材の値上がりにより国産木材の利用が増えていると聞くが、輸出入にかかる港湾の役割まで考え合わせるなら、地域の産業を今後どうしていくかまで関わってくる。さすがにそこまでいくと広範すぎるだろうが、地域を主語にして生物多様性を考えるということはそういうことだと思う。


パネルディスカッションで聴衆から「里山」という言葉が出たのがよかった。「生物多様性」と「地域」というキーワード同士を結ぶのはまさにそれ、つまり身近にある自然をどう利用するか、生活に取り込むかだと思う。個人的には、生物多様性に対して地域または個人が積極的にできることは「地産地消」以外ないと考えている。


京都議定書の頃は、地球環境問題はイコール温暖化問題だった。当時は全く取り上げられなかったに等しい生物多様性問題が、最近は温暖化問題を凌ぐ報道ぶりだ。こんなシンポジウムが開催されるのもしかり。日本で会議があるからとはいえ、このブーム的な雰囲気には眉をひそめる。
もっとも、ブームだろうがなんだろうか、理解を深め問題意識を共有する絶好の機会なのだとも言える。シンポジウムには多くの人が訪れていたが、それが単なるブームによるものだとしても、何らかのスタートになればいいなと思う。