書き忘れましたが 下のラテン語
キケロの「クルエンティウス弁護演説」という書物に書いてあるそうです。
最近覚えたラテン語の格言が面白かったので紹介します。
Le_gum omne_s servi_ sumus ut li_be_ri_ esse possimus.
「自由でいられるように、法律の奴隷となる」
自由であるためには、法律の奴隷となって法律に従わなければなりません。
法律から自由になれば、この身は自由ではいられなくなります。
法律の奴隷か、身を奴隷にするか、それが問題ですね。
ちなみにラテン語は
レーグム オムネース セルウィー スムス ウトゥ リーベリー エッセ ポッシムス
と読むようです。
とすれば「人間の二重人格を形成する善と悪の二大領域」(P101)の物語であるこの小説において、善の領域である宗教的な液体が使われているはずである。それはまさに各章で馥郁たる香りを放っているワインである。小説の冒頭でアタスン氏は「ワインがお気に召した場合など、彼の眼はいちじるしく人間的な光を帯び」(P9)る。P23からP24にかけてラニョン博士は「ワインを楽しんでいた」が、ラニョン博士はまことに善良なる人物として描かれている。P35、ジキル博士が自宅の晩餐会に招いたワイン通の旧友たちは、ヴィクトリア朝の善良なる倫理観の持ち主たちである。またハイド氏が住まいとしている部屋の納戸には「ワインが沢山」(P45)あるが、これはジキル博士が購入したものでありハイド氏はワインに興味がないことを示唆している。P52でアタスン氏がゲスト氏とワインを飲む場面はこの小説の中でも最も美しい箇所のひとつであるが、この場面で室内のアタスン氏とゲスト氏の前に置かれているのがワインである。しかし外の様子は「霧の海に呑みこまれ」「息苦しいほど霧が厚くたれこめて」おり「車馬は強風のような轟音をあげながら都会の大動脈を往来」しているのである。これらは隠される存在としてのハイド氏、サディストのハイド氏、さらには大動脈=血のイメージによりロンドンの町に隠れているサディストたちを暗示するものでもある。これらと並び描かれているのがワインである。ワインの「あざやかな緋色」は教会の「ステンドグラスの色彩」と併置されているのである。この部屋の中では「山間のブドー畑にそそがれた日の光が、いまや解き放たれ、ロンドンの霧を追い散らそうとしている。」のである。まさにゲスト氏が筆跡鑑定によりハイド氏の秘密のベールを剥ぐこの場面を象徴しているのである。いうまでもなくワインはキリスト教の文化領域にあるというキーワードである。まさに血のハイド氏と対立する領域と言えよう。
まとめ
以上見てきたように、「赤い色」に関連する表現により、隠されている内面の暗部としての暴力(サディズム)を暗示するものがいたるところに散りばめられていることが分かり、さらに宗教的な善悪の観念という背景も織り込まれていることが分かった。
(終わり)
参考資料
[1] 放送大学印刷教材「イギリス文学」P184
[2] ナボコフ「ナボコフの文学講義 下」河出文庫P40
[3] 放送大学印刷教材「フランス文学」P197
[4] 放送大学印刷教材「イギリス文学」P160
サディズムという言葉はサドによる小説「悪徳の栄え」に基づく。サドは「善悪の二項対立を逆転して極端まで推し進め、悪そのものを称揚した」(参考資料[3])のでありハイド氏の性格付けとしても一致する。以上のことから隠された心の問題とは「同性愛」のみならず「暴力(サディズム)」も含んでいることが理解できよう。
ここで気をつけたいことが一箇所ある。P52「あざやかな緋色」である。日本語にしてしまえば赤も緋色も大きな違いがないようにも思われがちであるが、訳者がここでなぜ「赤」ではなく「緋色」という言葉を用いたのかが気になるところである。この箇所は原文では「the imperial dye」となっていて「red」は使われていない、すなわち暴力性を含まない「緋色」と、血すなわち暴力性に繋がる「赤」とを、訳者が十分配慮して訳し分けしていることが認識できる。
一方、放送大学印刷教材「イギリス文学」(P160)「テニスン」(参考資料[4])の項によれば、桂冠詩人テニスンの詩「インメモリアム」に次のような詩句がある。「Nature, red in tooth and claw」これは「信仰を否定する科学の恐怖」のイメージである。すなわちred「赤い色」には反宗教、反信仰のイメージがあるのである。
「ジキル博士とハイド氏」は1886年に刊行された。その時代はヴィクトリア朝(後期)であり、当時の小説の「読者は中産階級に属する上品さを重んじる女性が多い」(参考資料[1])という時代背景などから、小説の中では露骨かつ直接的な表現は品のないものとして避けられていた。したがってこの小説においても様々な表現方法によって人間の心の裏面や例えば暗い暴力性などの問題が隠されている。何がどのように隠されているのか、ハイド氏にまつわる表現を中心に検討してみたい。
最初に気付くのがハイド氏に対する嫌悪感の根拠に関する表現である。「あれほど嫌悪を感じさせられる人間に出会ったことがありません。それでいてその理由がわからないんです。」(P18)など、理由がわからない、説明できない(P30)判全としない(P30)などの記述が多く、はっきりとした根拠が直接的具体的には示されていない。読者の想像にまかせるというわけである。しかしヴィクトリア朝時代の読者であれば、この嫌悪感の根拠が、ナボコフが指摘するように(参考資料[2])「同性愛的所業であった」と推測することができるということだ。
しかしそれが明示されていないため、読者はさらに想像をめぐらすことができるのではないか。さらに隠されているもう一つのこととして暴力(サディズム)が想像できる。P13「倒れた少女の身体を平然と踏みつけ」という表現、さらに「カルー殺人事件」になるとさらに暴力性が増している。P41「相手をステッキで地面に叩きのめした。」「雨あられと打撃をあびせた」このような表現はハイド氏の暴力性を示しているが、そのことを押さえた上で以下の表現に注目したい。ジキル博士がハイド氏をこの世に生ぜしめる実験室、その入り口は「赤色の粗ラシャを張ったドア」(P47)である。「窓のない黒ずんだ建物」(P47)の内部でひときわ赤色が鮮やかなドアである。この赤色は血の色を媒介として暴力を示唆する。さらにこの小説においてドアは秘密への入り口、あるいは秘密を隠すものとしての比喩となっていることから、このドアの鮮やかな赤色は内部から暴力による血がにじみ出ているようなイメージを読者に抱かせる。その実験室の内部でジキル博士が夜中に歩き回る場面はこうである。「あの足音のひとつひとつに犠牲者の血がまとわり付いている」(P79)。さらにこの滲みでる血・暴力のイメージは、プールが額をぬぐうハンカチーフの色になって表れている。実験室内部で惨事が起きているという予感が心につきまとっているプールが、「寒さにもかかわらず」「額をふいた」のは「汗ではない」(P68)。
「苦悩にとらわれ」それゆえ「にじみ出ていた」「脂汗」である。「苦悩」とはハイド氏による暴力についての苦悩である。その「苦悩」からでた「脂汗」がハンカチを赤く染めているのである。またさらに、ジキル博士がハイド氏になるために飲む薬剤に配合されるのが「赤色のチンキ剤」(P97)である。チンキ剤というのは本来無色である。(正確な意味ではチンキ剤ではないがヨードチンキのようにヨードを用いる赤褐色の消毒剤で通称ヨードチンキと呼ばれているものもある。)いずれにしてもわざわざ「赤い」と形容詞を付けている、これはハイド氏の中の暴力性を暗示する表現であると考えられる。
(表紙)
人間の探求
名作を読む~ジキル博士とハイド氏
レポート課題
日本語訳から2箇所以上を引用して、作者の表現の特徴を論じる
使用翻訳書 「ジーキル博士とハイド氏」
海保眞夫 訳
岩波文庫
放送大学で「名作を読む」という面接授業を受けたことがあります。テーマは『ジーキル博士とハイド氏』。
この面接授業では最後にレポート提出が求められ、締め切りまで1週間の時間が与えられました。
このレポートの難しさは、何よりもオリジナリティーを求められたことでしょうか。
レポート用紙2枚とはいえ、講義で様々な解釈を学んだあとではこれはきつい課題でしたが、それでもなんとかレポートにまとめることができ提出しました。
全文で3000文字を超えるので、何回かに分けて掲載します。
またいつものように次ページからの掲載になりますが、それまでに若干の時間をいただきます。
本文は、ほとんど提出した時のままですが、若干の補筆訂正をしました。