「肉において、見えを飾ろうとする者たちは
、キリスト・イエスの十字架の故に、迫害を
受けたくない為に、あなた方に、強いて割礼
を受けさせようとする。
しかし、私自身には、私達の主イエス・キリ
ストの十字架以外に、誇りとするものは、断
じてあってはならない。十字架によって、こ
の世は私に対して死に、私も、この世に対し
て死んだ」
ここから「限りなき主の栄光を求めて」
(チェンバ-ス著)からです。
人は新生すると、様々な感情や、生活環境か
ら影響を受けて信仰の一貫性を失ってしまい
がちである。しかし、パウロの場合は、強く
確かな一貫性が、その生き方の根底にあった
パウロは常に「地下階」を住まいにしていた
のに対して、パウロの批評家たちは、(見栄
えの良い)「地上階」に住んでいた。つまり、
常に人からの評価を気にしていたのである。
パウロが一貫していた秘訣は、基礎部分に
あった。パウロが全く、ぶれずに済んだの
は、世を贖(あがな)う為に、神が経験され
た苦悩、即ちキリストの十字架という、全て
にまさる土台があったからである。
自分が何を信じているか。もう一度、自分の
言葉で述べてみよう。次に、そこから、でき
るだけ多くのものを取り除き、キリストの
十字架という根本に立ち返れ。
世俗の歴史において、キリストの十字架は、
実に、しさいな出来事として扱われている。
しかし、聖書の視点から見ると、世界中の
帝国を合わせたよりも、重要である。
もし、私達が、福音を説くにあたって、十字
架で神が味わわれた苦悩をじっくり思い巡ら
す事が無いとすれば、その宣教からは何も生
まれる事なく、神の力が、人に伝わる事も無
い。
しかし、十字架を説くなら、神の力が解き放
たれる。
「それ故、神は、宣教の言葉の愚かさを通し
て信じる者を救う事にされたのです。…私達
は十字架につけられたキリストを宣べ伝えま
す」とある通りである。
私達は、わき見をする事を止めて、霊的な力
の偉大な源であるキリストの十字架に焦点を
合わさなければならない。全ての力が秘めら
れた、その中心から離れない為である。
ホーリネス運動や、霊的な体験を証しする
集会は、ともすると、焦点がキリストの
十字架、そのものにではなく、十字架が
もたらす結果に置かれている。
今日、教会の弱体化が批評の対象となってい
るが、その理由の一つは、霊的な力の源泉が
注目されて来なかった事にある。つまり私達
は、カルバリの十字架に、又、贖いの意味に
ついて十分に思い巡らして来なかったのであ
る。